厄介な輩をひっかけた姉をもつ弟の杞憂
彼女の弟視点。時系列としてはその後です。
最近、姉の様子がおかしい。
ため息が多くなった。気がつくとぼんやり物思いにふけっている。
「婦女子には優しくたれ。決してその意思をないがしろにしてはいかん」と、重いまなざしと一緒にたびたび言い聞かせてくるようになった。
ときおり頭を抱えて壁に向かってぶつぶつ「怖い」「なぜだどこで間違った」と反省会のような懺悔のような独り言を呟いている。
そんな姉の様子は、はっきり言って不気味で怖い。学校で何かトラブルでもあるのだろうかと心配にもなろうほどである。
申し遅れた。僕の名前は高田苑生。私立辻中学の三年生で、陸上部の部長をしている。
僕には年子の姉が一人いる。名前を高田苑上。
共働きで忙しい両親に代わってなかば祖父母に育てられた僕らは、同世代に比べていろいろなところが若干厳めしく、頑固に成長した。似た者同士の姉弟仲は良好である。たまに破滅的なくらい平行線になるけれど。大概は姉が年長者らしいおおらかさでもって妥協点を探してくれる。甘えている自覚はある。
僕の周囲の人間は、そんな僕を受け入れてくれる鷹揚な人が多かった。けれど姉の場合は違ったようで、小学校のころから変わった子として浮いていた。ここに女子と男子の違いもあるのだろうが、姉の意固地さもあるのだろうと弟の僕は思う。祖父でなく祖母の口調に影響を受ければよかったのに。祖母の口調ははんなりとしていて耳に優しい。祖父のことは僕も好きだけど。
小学校でうまくいかなかった姉は、環境を変えてみてはどうか、ということで中学受験をした。
女子高男子校とかわらない共学、辻中学に進学したわけだが、どうも最初に失敗したらしく、姉はやっぱりここでも孤立した。
そんな姉が心配で、同じ学校に進学すべく受験をし、翌年晴れて僕も同学校の一年生になった。
僕が受験している間に、姉にも一人だけ友人ができたらしく表情は明るくなっていたのだけれど、受験をやめなかったのはこのころには公立にはないカリキュラムに惹かれていたから。姉にも友人ができたように、新しい環境というものにあこがれができたというのもあるかもしれない。
姉弟仲が良好、というのは前述のとおり。同じ学校に入学した僕を、姉は喜んで迎えてくれた。シスコンブラコン呼ばわりは甘んじて受ける。
長くなったが、要するに、姉は周囲から浮いた変わり者だが、僕にとっては大切な姉である、ということだ。
そして、そんな姉の様子がおかしい時、必ずと言っていいほど登場する男がいる。
「何の用だ」
「ごあいさつですねえ、苑生君。まずは『こんにちは二階堂先輩』でしょう?」
休日の正午。インターホンに出てみれば、見たくなかった男。最悪だ。
二階堂唯。……先輩。姉の同学年であり、初めての友人。その名前から同性の友人だと、入学して対面するまで信じて疑わなかった。
「苑上さんを迎えに来たんですよ。いるんでしょう?」
笑顔に寒気しか覚えない。初対面で、この張り付いた笑顔で壁につるしあげられた事実を、僕は忘れていない。名乗って姉の弟とわかった後でも態度は変わらなかったのだから、こいつの面の皮はどんだけ厚いのだと戦慄する。
「いなかったら?」
「嘘ですね。彼女は義理堅い。先約がありながら逃げ出すような真似はできない。約束の時間に訪れなくても、精々家で罪悪感に打ちひしがれながらまんじりともせずに大人しくしていることでしょう」
正解だ。今日は、朝から檻の中のクマよろしく落ち着きがなかった。
確かに姉は、いつでも出かけられるような支度をしていた。そわそわしていたのは、約束の時間を守らないという律儀な姉には気が重くなることをしでかしていたからか。
しかめっ面で応対していたら、のそのそと奥から姉が出てきた。あきらめたような疲れた表情に、手には鞄と上着。家まで来られて、観念したようだ。
目の前の男は上機嫌で姉をとらえる。すっぽかされそうになったことは気にならないらしい。が、顔は笑っていても、目だけが笑っていなくて、その真剣さに背筋が寒くなる。
「苑上さん、迎えに来ましたよ。今日は、デートの約束でしょう?」
姉にしか向けない、低く甘い声音。ことさらゆっくり、含めるようにささやく内容に、僕はぎょっとした。
驚きに振り向いた僕の視線から、この男の存在から、逃避するようにあらぬ方を向いてあ~う~うなる姉。
「――そうだな……今日は、その約束だな。すまない」
「いいんですよ。もう支度は済んでいるようですし、映画は逃げませんからね。……誰かさんと違って」
ぼそりと付け足された一言に込められた冷気に、僕ら姉弟はおののいた。怖えーよ!一瞬にして姉さん怯えただろーが!
こんな状態で、二人にして大丈夫だろうか。不安しか湧かない。お節介だろうが、僕もついて行った方がいいんじゃなかろうか。
心配と不安が混じった僕の視線に、姉はふるりとかぶりを振る。
「でも、姉さん……」
「いいんだ、苑生。約束を、反故にしていたのはわたしの方だから……」
まるで自分に言い聞かせているようだ、と僕が思ってしまったのは無理もない。姉の顔色は茄子よりも青かった。
そして、姉が靴を履く間に、またも男から爆弾発言。
「そうそう、苑生君。私達、先日からお付き合いをしています。君もそのように心得ておきなさいね」
「は?お、つき、あい……?」
「恋人、彼氏彼女、愛人、ラマン――――呼び方は様々ですが。そういう関係です」
恋 人。
言葉の意味が、何十秒かのタイムラグを経て、脳に浸透する。ギギギ、なんとか、首を動かして見下ろせば、姉はうつろなまなざしで紙より顔を白くして、「ああ……うん」と肯定した。
「嘘だろう」
「相変わらず失礼ですねえ、君は」
「二階堂、姉さんに何をした。今度はどんな手を使って姉さんの良心につけこんだんだ、ああ?」
「人聞きの悪い。誠心誠意愛をささやき、苑上さんはそれに応えた。それだけです」
絶対、嘘だ。
僕は知っている。この男が中学時代にやらかした、姉のそばにいるための数々の悪行を。
姉のそばにいる唯一になるために、孤立を促すよう流した誇張気味なデマ。それが得策でなくなった際の絶妙なフォロー。そして男女別学の学内で当然のように一緒にいるための大義名分づくり。周囲への根回し。どうやったのかはわからないが、女子部に対する影響力の強さなどは、見ているこちらがうすら寒いほどだった。
男子部はこいつが卒業するまでの約二年間、二階堂唯の恐怖統治が続いた。最終学年など、男子部の生徒会長がこの男で、姉も女子部の生徒会長なんかしていたものだから、生徒会などは本当に魔窟だった。今思い出しても胃が痛い。下っ端としてこき使われた二年間、本当に胃酸で胃が溶けるかと思った。
姉だけを見、姉が他を見ることを許さず、姉だけの声を聴き、姉に他の声を届けさせない。
柔らかな、しかし堅牢な囲い。
この男がしたのは、そういうことだった。
姉の周囲に人は増えた。けれど、姉はいまだに親しい人付き合いができない。この男が柔らかく引き離してしまうから。そして自分だけを見るよう仕向けてしまう。
もちろん姉だって馬鹿じゃない。自分の周囲に人がいない原因に気づいている。激しく衝突しているシーンを見たのは、一度や二度ではない。
緩やかに、自分の意思を蹂躙され続けた姉が、それでもこの男に友情をもち続けていられたのは、姉の優しさに他ならない。それを、この男は理解しているのだろうか。
「そろそろ参りましょうか、苑上さん」
張り付いたような薄ら笑いで時間を確認すると、二階堂は姉に手を差し出す。その手を、なぜか姉はじっと見下ろす。長くなく、恐る恐るといった風に指先が二階堂のそれに重なった。あっという間に握りこまれて、引っ張られる。
拙速にもほどがあろう。僕が茫然となっている間に、二階堂は姉の手を取り風のようにさらってしまった。
「夕餉までには帰るから」とドップラー効果で遠ざかったその言葉が守られる可能性は、限りなく低い。二階堂が帰すとも思えない。そこまで流れるように思考し、愕然とした。
そうだ、あの二階堂唯が、あのおあずけをくらっていた狂犬が、「よし」の言質をとった今、大人しく待てをしているわけがないじゃないか。今更ながら姉の危機に焦りが湧いて出る。いやしかし、二階堂は姉の本気の拒否に弱そうというかびびりそうだから、まだ大丈夫だろう……今は。
姉の右手が触れる一瞬、二階堂が震えたように見えた。
姉は現状を受け入れているようにも見えた。
一体、何がどうなっているのか、わけがわからない。
ただ、弟の僕が断言できることは、ただ一つ。
「絶対、もう一波乱起きる」
その際は、可及的速やかに対処せねばならない。
火消しに回る羽目になるのは決して遠くない未来だと、経験上の直感が嫌になるほど働く。
厄介な輩に好かれたものだ。
姉のこれまでとこれからの苦労を思い、僕は玄関で一人、合掌した。
シスコン弟の憂鬱ともいえる。
高田 苑生
中三。陸上部部長。苑上の弟。シスコン。姉と同じく硬い口調。でもこっちは硬派とわりと好意的にとられてる。二階堂唯に対抗したいけど、相手の方が上手。姉よすまない。