第1話 漂流
俺の名は高橋……いや、ヤリス。ごく普通の異世界転生者だ。
大学卒業を記念して、フェリーで沖縄へ向かっていた途中のことだ。浮かれた気分を抑えきれず、生まれて初めて危ない真似をしてしまった。
それは、船首に立ち、友人と一緒に映画の名場面を再現すること。だが運悪く、俺は海へ転落し、フェリーの鋭く突き出た船首にまともにぶつかってしまった。
次に目を覚ましたときには、戸惑う暇もなく、この世界の母さんに抱かれていた。
そうして生まれ変わって二十年。俺は宿屋の息子として、忙しいといえば忙しく、平和といえば平和な異世界生活をのんびり送っていただけなのに……。
なぜか……俺はダンジョンの最深部に来てしまった。
しかも、挑戦者の二人に一人が戻れないとされ、ホライゾン級、あるいは国家級超大型ダンジョンに分類される『時を喰らうダンジョン』の最深部に……。
「だから嫌だったんだよ……。ダンジョンだの冒険だのは……」
包丁や斧以外の武器など扱ったこともない、戦闘力ゼロの俺は、ここで自力で生き残らなければならなかった。
◇ ◇ ◇
ここへ来るまで、俺は自らダンジョンへ入っていく冒険者たちを数え切れないほど見ながら育った。
彼らの食器を片づけ、装備を手入れし、風呂を沸かし、食材を下ごしらえし、部屋を整え、料理を手伝う。そんな宿屋の息子らしい暮らしをしながら。
宿を発つとき、また会う日まで元気でな、と笑顔で手を振ってくれる者もいた。
だが、やがて片手を失い、笑顔までなくして、ここへ戻ってくる者もいた。
また戻ってくるという約束を守れなかった者もいた。
十年、二十年――いや、あるいは一生をかけ、過酷な場所で己を鍛えてきた『ローラー』でさえ、一瞬で消えることのある場所。
俺にとって、ダンジョンとはそういう場所だった。
異世界へ転生すれば、現代知識を生かして現代の品を作り、富豪になったり、権力を手に入れたり、胸躍る冒険を楽しんだり。そんなふうに新しい人生を謳歌する者もいるのだろう。
けれど俺にとって異世界での新しい人生は、想像以上に平和で満ち足りていて、わざわざほかの何かをしようとは思わなかった。
気候は一年を通して穏やかで涼しく、空気は澄んでいて甘く、日差しは暖かかった。それに、母さんの料理は、かすかに残っていた前世の母の味を忘れさせるほど美味しかった。
俺は間違いなく、ここでの人生も今の暮らしも気に入っていた。
時々大声は飛び交うけれど、基本的には仲のいい家族。大きな夢はなくても笑顔を絶やさないメイメイと近所の友人たち。遠方から訪れるローラーたちが聞かせてくれる、想像もつかなかったさまざまなダンジョンと冒険の話。
それだけで十分だった。
「ヤリス! もう一皿!」
「はい! 今行きます!」
その日も、ただいつもより少し忙しいだけの、ごく平凡な一日だった。
足の踏み場もないほど人でごった返す宿の大広間。
話し声と笑い声の絶えない騒がしさをかき分け、俺は料理とビールを何度も運んでいた。
詳しいことは知らない。ただ、宿の近くにあるダンジョンで『何か』が開き、国中の『ハイローラー』がこのダンジョンに挑むらしい、とだけ聞いていた。
「ラムダさん、大丈夫ですか? もう高カロリー特製シチューを五皿も召し上がってますよ?」
「ああ、この宿の特製シチューなら俺の胃袋は問題ない! あと数日しかないんだ……その前にたっぷり蓄えておかないとな!」
ラムダさんは豪快に笑いながら、自分の腹をぽんぽんと叩いた。
筋骨隆々の巨体に、口元を覆い尽くす黒い髭。
笑っていないときは近づくのも怖いほど目つきが鋭い。けれど、ひとたび笑えば誰よりも温かな表情を見せる人だ。
ここへ来てから、もう一か月になる。以前から時折訪れてはいたものの、これほど長く滞在するのは初めてで、今回ようやく少し親しくなれた。
ラムダさんは今回、自分のチームを率いて『開かずの扉』に挑むという。
何か月かかるかもわからない攻略を前に、ラムダさんと仲間たちはここで最後の『カロリー』を蓄えているところだった。
「ヤリス! 薪が切れそうだから、取ってきてくれる!?」
「はーい」
厨房から響いた母さんの切羽詰まった声に、俺はメイメイから十五歳の誕生日にもらった『エクスカリバー』という名の斧を手に、森へ向かった。
汗と煙と酒の匂い、それに騒音で満ちた宿の大広間にいるより、空気の澄んだ森で木を伐るほうがずっと好きだった。
木を伐るのは重労働だと言う者もいるだろうが、俺はむしろ好きだった。
前世ではよくバッティングセンターに通っていたからだ。この世界であの感覚に近いものといえば、斧を振って木を伐ることくらいだろうか。
「この辺りも伐り尽くしたか……。まあ、最近ずいぶん伐ったからな」
斧を持って森へ入ったものの、目当ての木は見つからなかった。
探していたのは『魔樫』。ダンジョンの半径一キロ以内に生え、漏れ出す魔力を吸収して蓄えながら育つ木だ。
この木がなければ、薪火で二十四時間煮込むうちの宿自慢の特製シチューの味は完成しない。どうしても魔樫が必要だった。
「ちょっと気味が悪いけど……もう少し奥まで行ってみるか。ただの木を伐って帰ったら、また小言を言われるし」
ダンジョンの入口までは、きれいに道が整備されている。俺は荷車を引いて道なりに進み、入口が近づいた頃、人が足を踏み入れたこともなさそうな茂みの一角に妙に惹かれ、足を止めた。
「俺の伐採センスが、こっちだと告げている……」
俺の足は自然と道を外れ、吸い寄せられるように茂みの中へ向かった。生い茂る草木をかき分けて奥へ進むほど、その妙な感覚は強くなっていった。
そうして長いこと短剣で藪を切り払いながら進んでいくと――
目の前に、草の生い茂るぽっかりと開けた場所が現れた。その中央には、空へ向かって角のように突き出た、木の根らしきものがあった。
「へえ……これ……魔樫で合ってるのか?」
俺は何気なく、どこか上品な褐色に輝いて見える根の表面を撫でた。
〈ビリッ〉
「あっ!」
触れた瞬間、鳥肌が立つほどの痺れが走り、俺は反射的に木から手を離した。
あの独特な、ぴりっと吸いつくような感触は魔樫に触れたときと同じだったが、何かがもっと強く俺を引き寄せているようだった。
「これだけの魔力があれば……ひと切れで一日中もつんじゃないか……? 日も暮れてきたし、さっさと伐って戻ろう。もうすぐ夕食のラッシュが始まるからな……!」
いつもとは違う、妙な違和感はあった。だが俺の頭には、早く木を伐って戻らなければ、ということしかなかった。
そこで俺は地面に突き立てていたエクスカリバーを持ち上げ、根が倒れる方向を決めると、根に向かって素振りを始めた。
「この太さなら一時間くらいかかるか? なら目標は五十分!」
言い終えると同時に斧を大きく振りかぶり、その刃を根へ食い込ませた。その瞬間――
〈ジジッ〉
「ん……?」
〈ジジジッ〉
「え……えっ!?」
〈バチッ……! パンッ!!〉
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〈コトッ〉
……
俺はあまりのことに、根へ斧を振り下ろした姿勢のまま、その場でしばらく凍りついていた。
根を叩いた瞬間、強烈な閃光が目を打った。そして視界が戻ると、目の前にあったはずの根は、いつの間にかごつごつした石壁へ変わっていた。
甘い土と草の香りは、いつの間にか、かび臭く湿った、どこか不快な臭いへ変わっていた。
「ごつごつした石壁……嫌な臭い……ほのかな明かり……」
少しずつ思考が戻ってくると、俺はゆっくり顔を上げ、周囲を見回した。
すると俺の傍らには、さまざまな古代の文様で飾られた、高さ十メートルを優に超えそうな巨大な鉄扉がそびえていた。
俺は鉄扉に記された文字を一目で読み取った。
「……開かず……の……扉……? こ……ここは……まさか……!?」
こうして、俺のダンジョン『漂流』記は始まった。
俺が最も足を踏み入れたくなかった場所へ、わけもわからぬまま放り込まれて。
だが、臆病者のようにここで座り込み、何もできないまま少しずつダンジョンの養分になって、この異世界から消えてしまうなんて、死んでもごめんだ。
せっかく手に入れたセカンドライフなんだ……。
俺には、この世界の誰も知らない知識がある。
小学校から大学まで、十数年かけて学んだ知識が、今も俺の頭には残っている。
持てる知識と能力を総動員して、何としてでも生き延び、何としてでもここを脱出して家へ帰る。
数日でも、数か月でも、数年でも。どれだけかかろうと、必ず――あののんびりと幸せだった暮らしへ戻ってみせる。
そうして暗いダンジョンの中で固く決意した俺は、もう長いこと声に出していなかった一つの言葉を、ゆっくりと言ってみた。
「ステータス」
『経験値クレクレでダンジョンマスター!』は、第6話から物語が大きく動き始めます!
チャンネルはそのまま!本格的な物語の幕開けを、どうぞお見逃しなく!




