第1話-1 リリア・エーデル
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冷たい風が、白い息をさらっていく。
幼いリリアは厚手の外套に身を包み、祖母の隣を歩いていた。
冬のベルノア領。
クラウゼル王国の北東に位置するこの領地は、春と夏こそ穏やかな気候に恵まれるものの、冬になると深い雪に閉ざされる。
屋敷の庭に積もった雪は子どもの膝ほどまであり、街道には馬車の轍が細く伸びていた。
「寒い?」
祖母が優しく尋ねる。
白髪をきれいに結い上げた老夫人は、男爵家の者でありながら派手な宝石も高価な毛皮も身につけていない。
何年も大切に使っている灰色の外套を羽織り、穏やかに微笑んでいた。
「少しだけ」
「そうね。でも今日は風が弱いから、まだ歩きやすいわ」
その笑顔が、リリアは大好きだった。
エーデル男爵家は決して裕福ではない。
領内には小さな魔石鉱山があり、税収も安定しているため、飢えるような暮らしではない。
屋敷には使用人もいる。
けれど王都の大貴族のような豪華な暮らしとは無縁で、父はいつも領地の収支と睨めっこをしていた。
「おばあさま、本当に村まで行くの?」
「もちろんよ」
祖母は当然のように頷く。
「領民が困っているなら、話を聞くのも領主一族の務めですもの」
「でも、お父さまがお話を聞けばいいんじゃない?」
「お父さまには、お父さまのお仕事があるでしょう?」
祖母は少し目を細めた。
「それにね、女同士だから話せることもあるのよ」
しばらく馬車に揺られ村へ着くと、祖母は一軒一軒の家を訪ねた。
農家の奥さんと台所で話し、年配の男性とは納屋を覗き込み、子どもたちには持ってきた焼き菓子を配る。
誰もが祖母を見ると嬉しそうに笑った。
「この前直していただいた荷車、大事に使っていますよ」
「男爵様にもよろしくお伝えください」
ただ話を聞いているだけなのに、みんな安心したような顔になる。
幼いリリアには、それが不思議だった。
帰り道、我慢できずに尋ねる。
「おばあさま。みんな、どうしてあんなに嬉しそうだったの?」
祖母は少し考えてから答えた。
「話を聞いてもらえるだけで、人は救われることがあるのよ」
「……?」
「でも、それだけじゃ足りないこともあるわ」
祖母は村を振り返った。
「さっき見たでしょう? あのお家の保存庫」
「うん」
「せっかく収穫した野菜も、お肉も、長くは持たないの」
祖母は続ける。
「こっちのお家では農具が重すぎて、おじいさんの腰が痛そうだったでしょう?」
「うん」
「あちらでは井戸が遠くて、お母さんが毎日大変そうだった」
そして、少しだけ寂しそうに笑った。
「魔導具があれば、楽なのにね」
「魔導具は便利だけど、裕福な人ばかりを助けるからねぇ」
「お金持ちばっかりずるい」
「リリア」
祖母は優しく娘の頭を撫でた。
「本当に良い道具は、困っている人を助けられる道具なのよ」
「困っている人を助けられる道具かぁ……」
その日、リリアの胸に小さな種が蒔かれた。
――誰かの暮らしを、少しだけでも楽にできる道具を作りたい。
それが、リリアの夢になった。
◇
五年後。
冬の終わり、領内で流行り風邪が広がった。
高齢だった祖母も病に倒れた。
ベッドの傍らで泣き続けるリリアの手を、祖母は弱々しく握る。
「泣かないで」
「……でも」
「私は幸せだったわ」
祖母はゆっくりと笑った。
「リリア」
「はい……」
「あなたの優しさで、たくさんの人を幸せにしてあげてね……」
その言葉だけが、今でも耳に残っている。
◇
それから十年。
王国第二の都市、リューゼル。
王都に次ぐ規模を誇る商業都市であり、国内屈指の魔導具研究施設が置かれている街だ。
冬の朝。
石畳を歩くリリア・エーデルは、胸の前で手を握りしめた。
「今日は完成させたいな……」
鞄には、昨夜遅くまで描き直した設計図が入っている。
生活用魔導具――携帯保温容器。
魔石の消費を抑えながら、長時間飲み物を温かく保つための道具だ。
派手な魔導具ではない。
それでも、雪の日に働く人が温かいお茶を飲めれば、寒さをほんの少し和らげられる。
それだけで価値があると、リリアは思っていた。
やがて、重厚な研究所の扉が見えてくる。
リリアは一度深呼吸した。
「今日も頑張ろう」
扉を開ける。
冷気が消え、代わりに薬品特有の香りと魔石加工の焦げた匂いが鼻をくすぐった。
リューゼル魔導技術研究所。
王立研究院に次ぐ規模を誇り、百人を超える研究者が所属する、王国有数の研究機関である。
研究所はいくつもの研究室に分かれている。
リリアが所属するのは、第一研究室――総合魔導開発室。
各研究室で生まれた技術を組み合わせ、実際の魔導具として完成させる部署だ。
完成品の評価は第一研究室の成果として扱われるため、優秀な研究者なら誰もが憧れる花形部署でもある。
「おはようございます」
研究室へ入る。
何人かが顔を上げた。
「……」
しかし、返事はない。
視線だけを向け、すぐに資料へ戻る。
リリアも慣れたように小さく会釈して、自分の机へ向かった。
胸が少し痛む。
けれど、それを表情には出さない。
(今日もいつも通り)
そう言い聞かせ、鞄から携帯保温容器の設計図を取り出す。
「また生活魔導具か」
近くから声がした。
「本当に好きだな」
「その変換効率の計算能力だけ譲ってほしいよ」
別の研究員が肩をすくめる。
「その才能を軍用に使えば、王都だって放っておかないだろうに」
「もったいない」
悪意というより、呆れた声だった。
リリアは聞こえないふりをする。
ただ、彼らの言うことにも一理ある。
高効率の魔石変換技術は、魔導具の性能を左右する重要な技術だ。
そして現在、その成果の多くは軍用魔導具へ応用されている。
クラウゼル王国には豊富な魔石鉱脈がある。
それゆえ隣国ベルグラン帝国は、王国の魔石資源を狙うように軍備を拡張していた。
王国もまた対抗して軍備を増強している。
国を守るには力が必要。
その考えのもと、研究予算も栄誉も軍用研究へ集まりやすい。
一方、生活魔導具は違う。
なくても生活はできる。
暖炉、井戸、荷車など……必要なものは揃っている。
魔導具に比べたら少し不便なだけで、人は昔からそれで暮らしてきた。
だからこそ、多くの研究者は言う。
――急いで研究するほどのものではない、と。
(でも……)
リリアは設計図に数式を書き加えた。
(少しでも楽になれば、その分、笑顔が増える)
祖母が村で聞いていた領民の声を、忘れたことはない。
暮らしを支える技術にも、きっと価値がある。
そう信じていた。
「あれ?」
机の引き出しを開けたリリアは首を傾げた。
昨日整理して入れておいた高純度魔石の試料がない。
今日の実験に使うはずだった。
棚も保管箱も確認する。
どこにもない。
「探し物?」
聞き慣れた声がした。
振り向くと、栗色の髪を肩口で切りそろえた女性が、小箱を抱えて立っていた。
「エマ……」
「やっぱり」
エマは小箱を差し出す。
「実験室の共用棚に置かれてたよ」
「え……?」
「昨日の夕方にはなかったから、誰かが移したんだと思う」
リリアは中身を確認した。
間違いない。
自分が管理していた試料だった。
「ありがとう。本当に助かった」
「お礼はいいの」
エマは少し困ったように笑う。
「でも、最近多すぎるよ」
「……」
「試料も、工具も、予約も」
リリアは苦笑するしかなかった。
実験室の使用予約が勝手に取り消されていたこともある。
共用工具が別の棚へ移されていたこともある。
どれも決定的な証拠は残らない。
だから訴えても、「勘違いじゃないか」で終わってしまう。
「所長に相談しよう?」
エマが小声で言う。
リリアは首を横に振った。
「証拠がないもの」
「でも、このままじゃ……」
「大丈夫」
そう笑うリリアの表情は、少しだけ寂しかった。
エマは思う。
どうしてこの人ばかりが、こんな目に遭わなければならないのだろう、と。
そのとき、研究室の扉が開いた。
それまで談笑していた研究員たちが、一斉に顔を上げる。
「エドガー様、おはようございます」
「おはようございます」
次々と挨拶が飛び交う。
空気が変わった。
入ってきた青年は、濃紺の研究用ローブを羽織り、整った金髪を後ろへ流している。
端正な顔立ちに、自信に満ちた眼差し。
彼の名はエドガー・ルークス。
ルークス伯爵家の嫡男にして、第一研究室でも将来を期待される若き研究者。
そして――リリアの婚約者。
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