2 竜の子供を保護するため
鍛錬場は国境警備隊宿舎や作業棟から少し離れて独立して存在していた。剣の稽古をしているフリッツたちに、もうじきクラウザー侯爵が到着するとの伝令が入った。話し合いは鍛錬場ですることになったのだとも聞いていた。
ここに辿り着くには宿舎のどの部屋の窓からも見える中庭を横切ってこなくてはならず、盗み聞きはできないと思えた。侯爵にとっても秘密の話をするにはちょうど都合がいいのだろう。警備宿舎の中にある応接室ではできない話をするのだろうなとフリッツは思った。
「いったいこれはどういうことなんだ。いつまでお待たせすれば気が済むというのだ。このような状況を殿下に申し訳ないとは思わんのか、」
伝令を機に早々に集まった国境警備隊の宿舎を警備する騎士団長と国境警備隊隊長ロラン、クラウザー侯爵家の次男であり今回の国境の街アンシ・シ浄化事業の責任者でもあるラウルとが、イライラしながらぐるぐると歩き回っている文句を言う中年の男性を宥めていた。
「ああ、もう、八方塞がりではないか、」
中肉中背の猫背気味な男はブノワーといって、一応伯爵ではあるけれど貴族臭があまりしない。
「だいたい、我が国の第一王子殿下が、次期国王陛下が、国境警備隊の宿舎に軟禁されているなんて、どう考えたっておかしいとは思わんのか、」
彼はここにフリッツが自分の意志でやってきて自分から巻き込まれたのだとは思いもよらないだろう。
「まあ、まあ、おちついて、」
「ロラン! 落ち着けるか!」
このブノワ―伯爵は王都から派遣され、国境警備部副部隊長として権力の中枢に身を置く人物だった。
「ですから、仕方ないのです。三国間の協定で定められた『魔香特別措置法』には抗えないのですから。」
フォートによく似たラウルが肩を竦める。腰が低い印象がある分、フォートよりは人当たりが良い。
「あんなものは…、どうにでもなるだろう。おかわいそうではないか。」
「ですから…、いかなる身分のものであろうと従うようにと、国王陛下のお言葉がある以上、私どもも困り果てているのです。」
鍛錬場の窓際を、のんびりと猫が通り過ぎた。影の薄い三又の猫はフリッツを見ると「ニャーン」と鳴いた、気がした。
あの猫も妖の類だ。フリッツは揺れる尻尾の数を数えながら思う。あの三又の猫も、そんな猫のような何かの影響で私を見張りに来ているのだろうか。
目覚めた時貴賓室に集まっていた猫は、フリッツが入浴している間にそれぞれの家に帰って行っていた。街に暮らす猫だったり近くの農村から来た猫だったりと、門で待ち構えていた飼い主たちに返されていったと聞いていた。どの猫の飼い主たちも一様に、「のんびりと昼寝していたうちの猫が、すくっと立ち上がって一目散にこちらへと駆けていったのです。うちの猫を返してくださいとは警備隊の皆様や騎士様には恐れ多くて申し上げられなくて、こうして、門の前で出てくるのを待っておりました、」と、嬉しそうに猫を抱えて頭を下げていたと聞いた。
「妙なこともあるもんですね、」とカークは首を傾げていたけれど、なんとなくフリッツには、王城の自分の執務室に置いてきたあの猫のような何かの影響だろうなと思えて来て、フリッツのことが心配で自分の代わりの猫を寄越したのだろうなと思えてしまう。魔香を気にして退魔煙が濃く焚かれていても現れる猫に、フリッツはこんなに過保護な妖などいるのだろうかとおかしく思えてしまった。
「フリッツ、余所見はいけませんよ、」
剣の腹で腕を撃たれ、「どんな状況下でも剣に集中する訓練ですよ、」と付け加えられて、フリッツはムッとしてキュリスを睨みつける。確かに外野がうるさくても集中するのが鍛錬だ。
「そうそう、その意気です。まだまだ余裕があるようですから、もう少し続けましょうか、」
ビスターがにっこりと微笑むと、フリッツの代わりにカークが「喜んで、」と即座に回答した。
王都の王城で剣の稽古をしていた頃は、フリッツはともかくカークは騎士を目指しているわけではないのでそこまで真剣に稽古をしてこなかったのだけれど、ここ数日のカークは真剣そのもので、フリッツにキュリスが休憩を提案しても「まだまだ。大丈夫ですから続けましょう、」と続行を提案までするようになっていた。
負けてはいられない。気持ちを引き締めてフリッツは剣を構え直す。
「ロラン、お前から『クラウザー領の国境警備隊の検問所が盗賊団の襲撃にあって崩壊させられた、』と緊急の知らせを受けた時は、心臓が止まるかと驚いたものだ。『魔香が焚かれたようだ』と聞いた時は本当にゾッとした。仕事と割り切って『しばらくここから出られない』と覚悟を決めてやってきたは良いが、こちらに出向いてきたら、こちらにはフリードリヒ殿下がいらっしゃっているわ、地竜王が神殿に滞在中だわ、盗賊団が捕縛されてはいるものの検問所が半壊しているわ、魔香に、黒い甲虫に、ああ、もう、悩ましいことばかりではないか。」
頭を掻きむしるブノワ―伯に距離を取りながら、隊長のロランがおろおろと困った表情を浮かべながら説明をする。
「魔香ついては、先の大戦の陰の立役者大魔法使い氷雪の教授ことバーデン・シクスト殿が、お得意の氷雪魔法で魔香の焚かれた地域一帯を浄化してくださいました。新たな魔物の出現は今のところ観測されてはいませんからご安心ください。」
「魔香の影響がないと言ってもまだ断言はできないだろうに。だからと言って魔香特別措置法が無効になるわけではないではないか。退魔煙をいくら使おうとも、昔からこの街は妙な気配がしてならんのだ。ここの宿舎にもおかしな気配を感じる。お前らには見えんか、あの街に潜むよからぬものの気配を、」
身震いするブノワ―伯の言う『よからぬものの気配』とは人に混じって生きる妖のことだろう。フリッツは小さく肩を竦めた。街を過ぎる馬車の中で、白い小さな老人である地の精霊王ダールと、人ではない者たちが混じって暮らしている様子を見て知っている。
ブノワ―がずっとイライラが収まらない様子なのは、そういった妖を感じ取ってしまう影響なのだろうなと思えてきた。
さっきも妖の猫が通り過ぎたのだから、ブノワ―の勘はあながち間違ってもいない気がする。
「それもこれもかの国の魔香の管理が杜撰なのが悪い。おのれ…!」
「この国に持ち込まれた経路も確かめたいですね。かの国からどうやって入ったのか、どうやって我が国の内外を持ち運べたのか…。」
「かの国側の国境警備隊の宿舎も視察に行きたいところだが、ここから動けなくなってしまった…! ああ!」
イライラしながらうろうろと動き回るブノワ―を見て、剣の稽古をしていたカークとキュリスが冷たく目を細めた。容姿端麗な近衛の騎士キュリスとフリッツの従者カークとでは身に纏う雰囲気が違っていても、同じような表情で、やっぱり兄弟なんだなあとフリッツはしみじみと思った。
「まあまあ落ち着いてください。」
パンパンと手を打ちながら鍛錬場に入ってきたのはクラウザー侯爵その人で、フォートとランスも供の騎士たちの中に連れていた。
「お待たせしましたな、ブノワ―殿、」
「これはこれはクラウザー候、」
クラウザー侯爵とブノワ―が挨拶をしているのを見て、ビスターが、「稽古はここまで。二人とも、汗を拭って休憩にしましょう、」と声をかけた。
※ ※ ※
鍛錬場の出入り口や周辺を警備するために護衛の騎士たちが鍛錬場を出ていくと、場内にはフリッツたちとフォートにランス、クラウザー候、次兄ラウル、ブノワーとが残った。先程までクラウザー候の傍にいた騎士が手にしていた手紙を思うと、王城からの返信だろうなと察することができた。
『オーヴァン事件』の報告は王城にも届いているはずで、王都からブノワ―がやってきたのとは別件で収拾のために誰かが特使として派遣されてくるだろうとフリッツは予測していた。やってくるのは諮問官か法務官だろうなと思えた。あの細かい父がことの仔細を知りたがらない訳がなく、一言一句正確に書き記して調査して来いとでも言いそうだなと思えた。
諮問官が親フリッツ派だと良いのだがなとフリッツは思う。貴族の中に、現国王の治世に不満はなくてもフリッツに不満を持つ貴族がいるとすれば、これは大きな失点と急所を突いてくるだろう。ラナの婚約者ラドルフの人を馬鹿にしたような薄ら笑いを思い出して、知らずしらずのうちに険しい顔になりながら悩ましく思った。
「殿下、鍛錬はいかがですかな、」
空気を和ませようとしているのか、クラウザー候が優しく微笑んでフリッツに尋ねてくれた。
「じっくりと稽古ができて満足している。これもクラウザー候のおかげだ。感謝している。」
「それは何よりでした。ブノワ―殿、」
「やっと王都から何か連絡があったのか?」
「ええ、先ほど、早馬で届きました。ブノワ―殿のところには?」
「私のところにはディアス候からはなにも来ないさ。あの方は国境警備部の部隊長とはいえ放任主義だからな。私が個人で得た情報の方が速くて正確だ。現に今だって、そうだろう?」
ふっふ、と笑ったブノワ―につられるように、クラウザー候も「そのようですね、」と笑う。
「王城から、一方的な宣告でもあったのか、」
フォートとランスを見た後、クラウザー候はフリッツに向かって小さく頷いた。まるで任せておけとでもいうような素振りに、フリッツは覚悟を決める。あまりよくないことが起こるのだろうか。書面を整えての調査隊の任務だっただけに、多少は言い訳が出来ても、身を置く状況があまりにも悪すぎた。
「ええ。公国から、風水師が到着するようです。」
風水師?
予測してもいなかった聞きなれない言葉にフリッツは何度か瞬きをする。風水師と言われてもなじみの薄い職業なだけに、連想するのは魔法使いと言うよりは、金脈や水源を当てる『山師』だった。
「風水師?」と、カークに囁くと、さりげなくキュリスが「地脈を読み、契約する精霊を使って住みやすい状況に土地を整える、あの風水師がやってくるのでしょうか?」と説明しながら手を挙げた。
「そうだ。我が国では魔法使い自体が珍しいゆえに職業として目立たない存在ではあるが、公国では精霊と契約している魔法使いの副業としてありふれた職業なようだ。水、火、風、地の4大竜王と4大精霊王と契約した者はあらゆる気象を司るとまで言われている。天地の声を聴き自然の魔力を整えるのを生業としている召喚魔術師たちだ。」
クラウザー侯爵が優しい眼差しでフリッツを見つめた後、丁寧に解説してくれた。
どうして今の状況で、風水師?
「いつだ?」
ブノワ―はフリッツの無知に気が付かなかったのか、それ以上深く掘り下げることはなしに話しを戻した。
「明日には領都ガルースの我が屋敷に到着するとの連絡がありました。なんでも陛下が直々に公国の公王と風水師に書簡を送り、費用を私財で賄ってお呼び寄せになったようですな。手付として起動石をお持たせになったとか。」
起動石とは月の女神と時の女神の力と術式を閉じ込めた石で、先の大戦以前ではよくある移動手段の一つとして用いられていた。距離と時間を短縮して魔法陣同士をつなぐ時空の魔法という高度な魔術で、移動先と移動元の地名を織り込んだ魔法陣を出入口代わりに移動出来た。
「あんな貴重品を、公国の風水師にお与えになったのか? 起動石は先の大戦で、我が国の魔法陣と公国の魔法陣とが時空の歪を生みだして事故を乱発したために使用禁止になっているのではなかったのか? 戦地に送られるはずだった兵士一個小隊や魔法使いたちがもろとも転送の事故で殺されてしまったと聞いている。確かにあの石を使えば公国からこの国の端にあるこの地までは近いのだろうが…。あの時代からは改良された魔法陣にはなっているだろうが…、そんな危険な魔法陣まで使って呼んだのか…。そうか…、」
先の大戦の経験者な様子のブノワ―は、真顔になって唸った。
「しかも、風水師は聖堂からも派遣されてきますぞ。もちろん、王都からも。」
「果たして、我が国にも現役で使えるような風水師がいたかなあ。」
怪訝そうに、ブノワーは首を傾げる。
「…公国で名のある風水師といえば、もう随分とご高齢のはずだが。まさかとは思うが、公国には夕凪の隠者と先の大戦時に話題となったエドガー師がいたなあ。竜脈探しの秀才と若い頃から名を馳せた人物だが、そのような御仁を引っ張り出してくるには難しかろうし、貴重な人材を公国が派遣してくれるとは思えんしなあ。」
「そのまさかのエドガー師を陛下はお呼びになりましてな。『身の回りの世話をする者の費用も面倒を見よう。渡航費用も弾む。もちろん報酬も出す。クラウザー領に留め置かれた王子の助けとなってくれ、』と乞われたようですぞ。」
オオオオォ!
ロランもブノワ―も低く感嘆の声を上げていた。ランスとフォートを見ると、視線を床に落としたままで話を聞いている。ちっとも浮かれた様子が見られない。現状を打破するきっかけとなる風水師が来ることは喜ばしい話ではないのか?
風水師エドガーが問題なのだろうか。エドガーのことをフリッツは知らない。でも名のある人物なようだ。そうすると、貴重な人材の派遣の代償として、公国は見返りを要求したのだろうか。
もしかしたら、その要求が、あまり喜ばしいことの原因なのかもしれない。
父上はもしかするとお怒りだろうな、とつい溜め息をついてしまう。もしかしなくても怒っていそうな気がしてくる。
「助け、とは、聞き捨てなりませんな。陛下には、殿下のことはなんとお伝えしたのですかな、クラウザー候、」
『オーヴァン事件』の詳細は、フリッツが気を失い眠っている間に、ランスたちによって行われたカークとドレノへの尋問で明らかになっていると聞いていた。
ランスが聞き取った、『検問所の混乱を鎮めるため地竜王のお力を借りに地竜王の神殿に再び赴いたら、神官殿が殿下にお力を貸してくださった』、『殿下は王族に伝わる秘術で魔力を地の精霊王さまに提供された、その結果地竜王さまのお力を借りることができ、シクスト殿は恩を報いられた、』、『黒い甲虫の呪術を封じ込めるために魔力が必要で、シクスト殿が魔法で竜巻を起こした。あまりに大きな魔法だったため居合わせた殿下も私たちも竜巻に巻き込まれた、』という情報をまとめた報告書に目を通してサインをしただけで済んでいた。
あとの細かい情報は、ランスやフォート自身も居合わせていたし、第三者の立場である検問所の兵士や騎士、盗賊たちの話も統合すると、鮮明に再現することができたのだと聞いていた。
フリッツ自身は尋問を受けなかった。
「特に、何も。そこにいるうちのフォートから上がってきた報告書をそっくりそのままお伝えしたまでですよ。ブノワ―殿もご存じの通りの内容です。」
フリッツ自身が起こした事件ではないにしても、居合わせた以上関与がないと言い切れなくなってしまっている。『オーヴァン事件』の後始末は、各国も注目しているということなのか。
王子であるフリッツが魔香の焚かれた中心地にいたという状況までも、もしかすると各国に知れ渡ってしまっているだろう。その状況を不運とするか、居合わせた幸運とするかは、フリッツの今後の動き方次第ともいえる。
「そうか。あれは、報告書を読んだだけでも肝を冷やしましたからな。殿下がご無事で何よりだった。地の精霊王さまが現世に降臨されるとは…、あの方はどの精霊王の中でも一番気難しいとされているのになあ。地竜王さまはお噂通りで納得したが。それで、シクスト殿の守った竜の子供は、どこにいるのだ?」
「ご安心を。殿下の後ろ盾を頂いておりますから、それはもう丁重に扱っておりますよ。我が娘ロレッタも元気そのものです。以前からいくつか婚約申し込みのお話を頂いておりましたが、すべて白紙に戻して考え直さねばなりませんな。」
クラウザー候はフォートとラウルを見て嬉しそうに頷いた。「馬鹿正直が取り柄の息子たちにそっくりな娘は、まっすぐに育ってくれました、」と誇らしく笑う。
「妻はこのまま、この土地でロレッタが竜の子供と暮らしていけるように取り計らってもいいのではないかしらと申しておるのです。私もまんざらではありません。幸いフォートが王城で騎士として奉公しておりますからな。陛下からは竜の子供を保護するための登録に一度王城へ登城させるようにとは仰せつかっておりますから、そのうち王城に行儀見習いに出そうかとは考えておるのですよ。」
「それは良い。竜の子供は貴重なゆえ、各竜王の神殿の神官として行儀見習いをさせるのが古来よりの習わし。このクラウザー領の国境を守る街から二人目の神官が出たとなれば、この街を守る国境警備隊の士気も高まると言うもの。」
ブノワーとロランが嬉しそうに頷くと、ランスが「コホン、」と一つ咳払いをした。
「クラウザー候、ブノワ―殿、折り入ってお願いがあるのです。」
「なんだろう、ランスフィールド殿。お父上には私も若い時分随分とお世話になりましたからな。無碍には致しませんぞ。」
「公国や聖堂から派遣されてくる風水師たちはどこに宿を構えるおつもりなのでしょうか?」
「そうだな、ここの国境警備隊宿舎が一番広くて安全だと思われるが、いかがされたかな?」
「では、殿下と同じ宿舎に、と言うことでしょうか?」
「そのようになるな。」
「私は、殿下を、アンシ・シの街の宿屋に移したいと考えています。」
ランスの意外な提案に、場が静まり返った。
ありがとうございました




