13 私を必要としてくれる
深い深い霧の中を歩いているメルは、見えてきた小石だらけの川原に、女の子が一人背を向けて立っているのを見つけた。時々しゃがんで石を拾うと川向うの岸に向かって、小石を投げている。
目を凝らすと、霧の向こうに、薄く空の水色が見えた。晴れている? 暑くないから季節は夏じゃない。メルは自分の着ている格好が半袖シャツに生成り色のワンピースドレスで白いズボンで足元は水色の靴だと確認して、この格好で寒くないなら冬でもなさそう、と思う。ジャリジャリと小石を踏む自分の足音ばかりが聞こえている。
女の子は白いシャツに半ズボンを履いていて、お尻に小さなウサギのしっぽを付けていた。半妖か、地に棲まう精霊の子供かな…。髪は焦げ茶色の髪を三つ編みに垂らしていて、動きがすばしっこそうな印象がした。年の頃は8歳かそこらかな。10代というにはまだ幼いぎこちなさがある。
「こんにちわ、何をしているの?」
話しかけると、女の子は振り返るとメルを見上げた。色白な顔に大きな茶色い瞳は賢そうで、年の割には知的に輝いている。
「あなたは誰? 」
「挨拶はしないの?」
揶揄いたくなってメルは尋ねてみた。よく見ると影がない。メルの足元にある影もうっすらとした曖昧なものに見えた。ここは太陽がないから影ができないのかなと自分に都合よく考えてしまう。
「あなたは知らない人だから、名乗ってくれないならしないわ。」
むすっとした顔が可愛らしくて、メルは「名前を聞いてどうするの?」と尋ねてみた。
「名前を聞いて、お母さんの知り合いなら挨拶するわ。お父さんの知り合いならお辞儀もしてあげてもいいわ。」
「もし名前を聞いてもわからなかったら、どうするの?」
「その時は…、お友達になってあげてもいいわ。そしたら、挨拶したって損はしないでしょ。」
面白い子。メルはつい笑ってしまった。
「損とか、そういう感じなんだ?」
クスクスと笑いだしたメルに、女の子もクスクスと笑った。
「私はメル。はじめまして、こんにちわ。」
「私はスーシャ。あなたの名前は聞いたことないからお友達になってあげてもいいわ。はじめまして。こんにちわ。」
「スーシャ、可愛い名前ね。何をしているの?」
メルの中で響いた名前にまつわる何かで具体的な『何か』を思い出しそうになって、掘り下げていくうちに塊になりかけた『何か』が、瞬きをする度にもろもろと崩れるように壊れていった。
今の感覚は何だろう。私は、この子を知っているのかな。
「メルもいい名前ね。お友達になったのだから、教えてあげてもいいわ、」
スーシャと名乗った女の子は手の中にある小石を摘まんで、高く投げた。石は放物線を大きく描いて飛んで、向こう岸近くの川の中に落ちる。
ぽちゃんという音も聞こえずに消えた石を見て、あの位置は相当遠くて、相当深そうねとメルは思った。
「私は、川を渡れないの。船が来ないから、ずっとここにいるわ。」
「船が来たら、川を渡るの?」
メルが来た道を振り返ると、霧で真っ白で、どこから来たのかが判らなくなってしまっている。
「こんな状況じゃ、ここにいるのが一番安全だと思わない?」
スーシャはニヤニヤと笑って、また石を投げる。
「石を投げていれば、音がするでしょ? 音がしたら、気になった誰かが私を探しに来てくれると思うの。川だから来るのは船よ、そう思わない?」
「そうかもね。」
賢い子だなとメルは思いながら空を見上げた。遠くどこまでも続いているのなら、鳥だってやってきそうだ。
「空を渡ってくるのかもしれないわよ?」
大きな翼があれば、こんなところ、ひとっとびだろうに。そう思って、自分の発言に驚いて手で口を隠してしまった。
私は何の翼を連想したんだろう。
翼があって空を飛べる私を運んでくれる生き物…。私を捕まえて連れ出したのは、あの夜のあの竜しかいない。
あの竜に捕まったおかげで、帰れないままでいるのに…。
「メルは変ね。」
スーシャがじっと、メルを見つめていた。
「変じゃないと思うけど?」
「あなたの足元には影がある。私にはない。ここはまだ、…じゃない、そうなのね?」
「…って何?」
「…は…よ。」
…って何だろう。聞き取れないでいるメルは…の意味が判らなくて戸惑ってしまう。
「空を渡るのは地に暮らすものではないでしょう? 地の精霊王さまの神殿には翼をもつような精霊は暮らしていないわ。だから知り合いだっていないわ。」
「地竜は、地に暮らす竜でしょう。竜だけど翼も持っているわ。」
フフフ、アハハハハ、とスーシャの明るい笑い声が響いた。
「駄目よ、私たちは地に棲まう精霊だもの。そんなことをしたら竜に食い尽くされちゃうわ。」
驚くメルの顔を見て、さらにスーシャは笑った。
「ここまで竜なんてこれないわ。だってここは…で、そういう場所だもの。」
聞き取れなくて、メルは「え?」と聞き返してしまった。
「だから、…なんだって。影があるなら、メルはまだ間に合うんでしょう?」
何度も同じことを言われた気がするけれど、…を聞き取ることが出来なくてメルはますます謎を深めてしまった。いったいなんだというのだろう。
きょとんとするメルを見て、スーシャは、ふん、と口を尖らせた。
「判らないならいいわ。私は知ってるから。じゃあ、船が来ても、メルは乗せてあげられないかもしれないわね、」
「その船だって、来るかどうかわからない、のよね?」
「来るわ。なにしろ私、…に向かう最中だって気が付いたんだもの。」
スーシャが得意そうに指をさした方角に、さっきまでは見えなかったはずの船影が見えた。
小型の、船というよりは渡し舟ね、とメルは観察する。板張りの簡素な作りの舟からは笹の葉の舟を連想して、あの強度の舟に乗るのは違う意味で怖いなと思った。
長い棒を手に舟を操っているのか、人影が見える。
ゆっくりと近付く船の舵を取る人影は黒いマント姿で目深に黒いフードを被っていて、人ではない誰かなのだと判り始めた。俯いていて顔は見えなかったけれど、竜でもなく、妖でもないような印象だった。
「手をつないでいて。」
メルの手を有無を言わさず握ると、スーシャは黙った。
「どうしたの?」
スーシャは小さく震えている。
「なんでもないわ。でも、」
「でも?」
「なんでもないの。」
その割には泣きそうな顔をしている。
「ふうん?」
怖いんだ。まだ子供だもんね。
優しい気持ちになったメルがぎゅっと手を握り返すと、スーシャは「メル、怖いならそう言ってよね、」と強がって、ぎこちなく笑った。
「じゃあね、」
音もなく小石だらけの川原までやってきて横付けされた舟に、手を離したスーシャが勢いをつけてぴょーんと飛び上がって乗り込んだ。グラグラと舟が揺れる。両手を広げてバランスを取って踏ん張ったスーシャが、照れ笑いをしてメルに向かって肩を竦めている。
フードを目深に被る船を漕ぐ者は、メルには何の反応もなく、むしろ、メルの姿を見えていないかのように、スーシャに何か話しかけて、また、舟を動かし始めた。
「またね、メル。こうやって大切な人に見送ってもらえるなんて、私は幸せだわ。一人で向こう岸に行くなんて、とっても、寂しいことだから、」
スーシャは手を振り、笑顔でメルに別れを告げた。
「さよならスーシャ、会えてよかった。岸に渡っても、元気でね。」
「メル、あなたの髪は本当は黒かったのね。本当のあなたの姿を見せてくれてありがとう。あなたの瞳の色も、とっても素敵。私の髪の色に似ているのね。私、あなたのことが、短い間だったけれど、大好きだった。友達になれて、本当に良かった。」
幼さが残る子供の姿から一瞬にして小柄だけれど成長した少女の姿に変わっていたスーシャは、メルを見て、はっきりと言った。
「ねえ、今度は一緒に旅ができたらいいな。ルーグと三人で手をつないで、一緒に行こうね。約束よ、メル。」
にっこりと笑った顔はとても魅力的で、メルは何度も頷いて手を振っていた。
霧の中に消えていく船を手を振りながら見送っているメルの目からは止めどなく、涙が流れていた。
スーシャを、初めて見た気がしなかった。
ルーグという名前は知っている。プーカという妖で、リブロの甥っ子だわ…。
スーシャは、ルーグとどういう関係なんだろう。
不思議だけれど、私は、知っている気がする。
どこで出会ったのか、どうやって知り合ったのか思い出せないけれど、スーシャが好きだった気がする。
スーシャに、ここで会えてよかったと、思えてくる。
なのに、スーシャのことを、思い出せない…。
「お前、なんで泣いているんだ。」
泣きながら、涙を拭こうともしないで手を振って見送っているメルの傍に寄り添ってくれるその人は、不機嫌そうにメルに話しかけてきた。メルの頭を撫でて、指を滑らせ、長い黒い髪を手に取り、梳くようにして、髪に口付けた。
この人を知っている。赤黒い肩までの長い髪に、緑色の瞳の、とても美しい美丈夫という見かけのわりに、癖が強い、厄介な変態男…、シンだ。
「知らないわ。悲しいから、よ。」
涙を拭うハンカチを持っていないことに気が付いたメルが手で涙を拭おうとすると、シンが親指でメルの頬を撫でた。
メルの瞳を覗き込むシンの瞳の中に映っている自分の姿は、黒い長い髪をしていて、前世でのメルの姿に似ているように見えた。
「お前は本当に手のかかる…、」
「シンに、言われたくないな。」
優しく髪を梳く手をそっと振り払って、メルはシンを睨みつけた。
「そういうことはしちゃいけないのよ。知ってた?」
婚約している訳でも結婚している仲でもない。シンは親しすぎると思えた。
「やっといつものお前らしくなったな、」
目を細めて笑うシンにメルは馬鹿にされているような気がして背を向けた。
いつも不意に現れて、シンはいつも突然いなくなる。やたらと触りたがるし、やたらと、メルの所有権を主張する。身勝手な、厄介な存在だ。
「私、まだ、シンを呼んでない、」
泣いている顔だって、見られたくなかったのに。
メルの頭を優しく撫でるとシンは小さく笑って、「そろそろ帰らないか、ここはまだ早いのではないか、」と提案した。
「帰り道を知らないから、無理だと思う、」
霧の中で彷徨うのは無駄な気がしていた。
「船がいつか来るのを待つ方が、早くないかな。」
「お前は、船なんかなくたって、帰れるだろう、」
シンは不敵に微笑むと、メルの頭を抱き寄せて、マントの中に隠してしまう。
パチンと、指が鳴る音を聞いた気がした。
ふわっと、スパイシーなムスクが香る。
「ほら、目を開けてみろ、」
目を覚ましたメルが見たのは、窓を眺めてソファアに寛ぐシンの姿だった。起き上がって部屋の中を見回してみる。灯りはなく窓からの明るさだけが部屋の中を照らしている。だいぶ溶けたのか、天が高く広く感じられた。外の雨音はしとしとと静かで、部屋の中も静かだった。
ベッドの周りには衝立があり、部屋の広さはよく判らなかったけれど、医務室ではなさそうだった。
窓の大きな作りからして、メルとティヒの部屋でもなさそうだ。家具も調度品もメルたちの部屋のものに比べると上質で、品が良く丁寧な彫りで装飾されて重厚な作りで、主客室なのかなと思えてくる。
ベッドの足元には、違和感なく衝立代わりに屏風が置かれている。描かれているのは丸い月と大きく鮮やかな牡丹、留まる鳥は鶯で、雪まで降っている。花鳥風月…? この世界にも和風なものがあるのね。メルはぼんやりと思って、自分の記憶の中の『前世の私』の存在を思い出していた。前世の私の住む世界の影響がゲームの中に滲み出ているのだとしたら、ありえなくはないだろう。
さっき見た夢の中で、私は髪が黒く長かった。記憶の中の前世の私の姿と今の私の姿が混じっている、今の私ではない姿をしていた。あの世界は夢だけれど夢じゃなかった。魂の世界とでも言うのだかな。妙に実感があったし、何より、あのウサギみたいな女の子は、私のことを知っているみたいだと思えた。私の前世での姿と、今の私のこの現世での姿を知っていたからこそ、別れ際にあんなことを言ったのかなと思えてくる。
しかもシンは、迎えに来たと言っていた。おかしい。夢じゃないの? やっぱりあれは現実に存在するどこかで、私はここではないどこかにシンと一緒に行っていたの…?
すうすうと誰かの寝息が聞こえてくる。視線を向ければ、優雅に足を組むシンの足元には、山犬のティヒが寝そべって居眠りをしていた。
「な? 帰ってこれただろう?」
シンがメルを見て微笑んでいた。「お前は私のものなのだから、勝手に向こうに行くな。判ったか?」
向こうに行く?
素直にお礼を言える気がしなくて、メルは口を尖らせた。
「私は私のものだから、その約束はできないと思う。」
「お前は本当に手がかかるな、」
シンは呆れたように、「また連れ戻しに行ってやってもいいが、迷いやすいのか?」と笑った。
「シン、減らず口が叩けるのだから、そんな心配はいらないさ。大丈夫だろう、」
クスクスと笑いながら、ドアが開いて誰かが入ってきた気配がする。
「目が覚めたようだね。よかったな、」
「ダール、こんな話は聞いていないぞ、」
「すまなかったね。話はあとにしよう。まずは食事が先だろう?」
トゥルネに屏風を片付けさせるとメルの顔を見て、ダールは手を叩いて従者たちを呼び寄せる。
「よいか、耳役シアンが目を覚ました。食事を用意してやってくれ、」
ぞろぞろとカートを押しながら部屋に入ってきたのはウィエたちで、メルの顔色を見て嬉しそうな顔になると、「主様、心得てございます、」と深々とお辞儀した。
ありがとうございました




