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「お帰り。少し待たせてもらった」
ドアを開けた途端、好敏の部屋で、松岡が顔を挙げ、にったりと笑いかけた。椅子を持ち出し、松岡はゆったりと腰を下ろしている。
中肉中背、高価なスーツを身に纏い、のっぺりとした顔には、手入れの行き届いた口髭を蓄えている。
「ど、どうして……」
鍵は掛けたはずである。
「支配人に頼んで、マスター・キーを使わせてもらった。君に指令が届いている。非常に重要な任務がある! これは日本政府の命令なのだ」
松岡は横柄に話を続けた。
好敏が黙っていると、松岡はちらっと背後のセーラを見た。
「そこのお嬢さんは、続き部屋で待ってもらう。内密な話があるのだ」
そこだけは、滑らかなフランス語だった。セーラは気圧されたように、黙って隣部屋へと歩いていった。
二人だけになり、松岡は姿勢を崩した。好敏も、手近の椅子に座り、腕を組んで口を開いた。
「あんた……確か、上海で会ったな?」
日露戦争当時、好敏は近衛工兵連隊の士官として、情報任務に就いていた。その時、顔を合わせたのだが、そう懇意にしたわけでなく、顔見知りくらいの存在であった。
松岡の表情が、怜悧な官僚のものになった。
「飛行機の購入と、日本への移送については、我々外務省が、一切の責任を持つ。だから君は、心配しなくとも良い。後は後顧の憂いなく、新しい任務に就いてもらいたい」
松岡は、平坦な声調子で一気に喋った。好敏が抗弁する暇を与えない。内懐に手を入れると、一通の封書を取り出した。
「長岡外史閣下からの命令書だ。おっと!」
思わず好敏が手を伸ばすと、松岡は焦らすように、封書を内懐に納めた。にやっと笑って、好敏の態度を観察している。
この野郎……。
好敏の怒りが、顔に出たのか、松岡の表情が意地悪い笑いに崩れる。
こいつ、楽しんでやがる!
好敏は強いて、無表情に戻った。一瞬でも、感情を相手に見せたのが口惜しい。
「長岡閣下の命令なら、なぜ外務省のあんたが、わざわざ、私の所までいらっしゃったのです? 畑違いでは?」
好敏は口調を変えた。さっきまでのざっくばらんな会話は封印し、お互い官吏としての態度に終始する決意だ。
松岡は、好敏が態度を変えたのを、微塵も気にせず、平然と続けた。
「事は、内密を要するのだ。陸軍の、誰かを派遣せず、私を出張させたのも、同じ理由による。私は表向き、別の用件で欧州へ出張したことになっている。武官を君の所へ寄越せば、目立つからな。さて、本題に入りたいが……」
松岡は、やっと内懐の封書を好敏に渡した。好敏は、ホテル備え付けのデスクに移動して、ペーパー・ナイフで丁寧に封を切った。
封書そのものは、何の変哲もない、日本政府の官製封筒である。
てっきり、正式の命令書が入っているものと思っていたが、出てきたのは、一葉の写真である。
恐らく、素人が撮影したらしく、ピントがずれ、露出も暗い。どこかの、山岳地帯が写っていて、山嶺に寄り添うように、古い西洋の城が写っている。
好敏は、工兵として、西洋城郭については、一通りの知識があった。だが、見るところかなり形式が古そうで、十世紀から十三世紀の、ドイツ近辺の城と思えた。
土台そのものは、しっかりしているようだ。ところが、塀の石組みは緩み、塔はほとんど、原型を留めていない。周りに杉か、樅と思われる針葉樹が生い茂り、石塀にも、蔦が這って、どう見ても、廃城である。
好敏は、松岡の顔を見て問い掛けた。
「これが何か? 場所は? 撮ったのは誰です?」
松岡は首を振った。
「どこで撮影したか、判らんのだ。撮影者は、君が見ている写真を、日本政府の、オーストリア駐在外交官に渡して、行方を晦ました。ほら、良く言う〝タレコミ屋〟って奴だ。様々な秘密情報を手に入れては、金と引き換えに我々にもたらしてくれる。日露の戦いでは、明石大佐が、その種の情報部員を、大勢利用して、見事な戦果を上げたのを承知しているだろう?」
好敏は頷いた。松岡は続けた。
「で、件のタレコミ屋の言によるとだな、そこでなにやら、秘密の研究が行われているらしい。タレコミ屋の情報では、驚嘆すべき、新兵器だそうだ」