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ニュルンベルクへの道筋は、平坦だった。熊蔵は思い切りアクセルを踏み込み、全速力で車を走らせた。
こんな速度で、後続の車が従いてこられるのかと、好敏は心配だった。
だが、側鏡で確かめると、残り二台は全く遅れず、ぴったりと従いてきている。熊蔵の運転術は高度なものだが、後続の運転手も同じくらいの技量があるらしい。
田園地帯を突っ切り、やがてニュルンベルクの町が見えてくる。
好敏の心積もりでは、ニュルンベルク到着は深夜だと思っていたのだが、車をほぼ全速力で走らせた結果、夕刻前に、到着できた。
見えてきたニュルンベルクの町は、古拙な玩具箱のような外観をしている。建物の大部分が十四世紀中頃の建築で、バイエルン州で、ミュンヘンに次ぐ第二の大都市とは、一目見た程度では、とうてい思えない。
「ニュルンベルクといえば、どうしたって『ニュルンベルクのマイスタジンガー』ですねえ! あれは、ワーグナーの歌劇でも、傑作の部類ですよ!」
得々と口を開くアドルフに、好敏は「またワーグナーか!」と思った。
つい、アドルフを見る自分の視線が忌々しげになっているのを、自覚する。
子供の頃、清水徳川家総領として、他人に対し、好悪の感情を顕わにしてはしてはならない、と口煩く教育されているのだが、こうも毎日しつこく顔を突き合わせていると、自制も乏しくなる。
「襲撃はなかったわね。ひと安心だわ!」
セーラが安堵の表情になって呟いた。セーラの意見には、好敏は全面的に賛成である。心中で覚悟はしていたが、セーラを巻き込むのだけは御免蒙りたい。
「ニュルンベルクで一泊する。翌朝に出発して、その日のうちに、目的地に到着する予定だ」
熊蔵が、ハンドルを切って、淡々と告げる。好敏は、運転席に座る熊蔵の横顔を見た。
「目的地とは、どこだ? まだ、教えてくれないのか?」
二人の会話は、ドイツ語である。基本的に、セーラや、アドルフがいる場所では、ドイツ語で会話する習慣となっている。
熊蔵は、好敏の問い掛けを無視する。好敏は「また、だんまりか!」と肩を竦めた。まあいい、いずれ判るだろう。
新市街から、中心部の旧市街に向かうと、城壁が見えてくる。ニュルンベルクには、旧市街を取り囲む、古い城壁が残っている。ドイツで~ブルクとか、~ベルクとつく町は、城壁で囲まれた町という意味なのだ。
また転じて、城壁都市に住む裕福な市民、という意味で「ブルジョア」という言葉も生まれた。
街の周囲を取り囲む城壁には、幾つかの門がある。好敏たちは、南側のケーニヒ門から旧市街に入った。
門といっても、どっしりとした石造りの望楼が残っているだけであるが、中世の面影は残っている。
ニュルンベルク市内を横切る、ペグニッツ川の近くに、ホテルがあった。建物は相当な由緒の歴史がありそうで、漆喰の壁に、太い木の梁が美しい模様を作っている。
車を停車させると、早速、後列のドアを開け、グレタが巨体を猛然と揺すって、駈けて来る。ぐっと胸を張り、地面に仁王立ちになって、車内のセーラを睨みつける。
セーラは唇を引き結び、眉を寄せて、グレタを睨み返した。セーラがドアを開くと、グレタが両腕を大きく広げて、弁慶蟹のように立ちはだかった。
「エリーザベト様! 何と言う、軽々しい態度で御座いましょう! これでは、ウイーンに戻っても、ご両親、遠戚の方々に、顔向けできませんわ!」
喚いても、グレタは「王宮」「王室」などという言葉を口にしない。そこら辺は、慎重である。
だん! とセーラは、地面を踏み締めた。
「もう、沢山! あんたの干渉は、これっきりにしてもらいたいわ! あたしに煩く付き纏わないで頂戴!」
グレタは答えず、さっと腕を伸ばして、セーラの肘を掴んだ。掴まれたセーラは「痛い!」と悲鳴を上げる。
「さあ、いらっしゃるのです!」
「やめて! やめて! 痛いじゃないの!」
セーラは車のピラーに手を掛け、グレタの把握から逃れようと必死だ。しかし、グレタの怪力は物凄く、呆気なくもぎ取られる。
好敏は堪らず、車内から飛び出し、グレタの腕を掴んだ。
「やめろっ! 乱暴じゃないか!」
「むう……!」
グレタは真っ赤な顔で、敵意に満ちた視線を好敏に向ける。セーラを振り回すようにして、自分の背中に隠し、空いた片腕で好敏をきりっと指差す。
「何を言う! お前のような、黄色い猿が、エリーザベト様に付き纏うのは、絶対に許せない! 二度と、御嬢様に近寄るなっ!」
かーっと、好敏の頭に血流が怒涛のように集まり、目の前が怒りで暗くなる。
「黄色い……猿……だと! もう一度、言ってみろ!」
「はっ!」とグレタは嘲笑った。
「ああ、言ってやるよ! あんたは黄色い、猿そのものだ! あたしら、高貴な白人と対等に口を利くのも汚らわしい! ましてや、御嬢様に淫らな欲望を抱くなど、決して許されない犯罪行為だわっ!」
好敏は茫然となっていた。今まで、欧州に来て、白人たちの日本人に向ける視線に、何がしの侮蔑、差別感情が含まれているのは感じていたが、こうまであからさまに口にされたのは、初めてである。
好敏の指先が、そろそろと懐に収まっている、ルガーに伸びる。服の上から、拳銃の固さを確かめ、好敏は怒りに燃えていた。
「グレタ、もう、よしなさい」
その時、大公の物柔らかな声が響いた。
グレタはさっと声の方向に顔を向ける。大公が近くに来て、眉を顰めている。グレタは狼狽して、セーラを掴んでいた手を離した。セーラはさも痛そうに、掴まれた肘を擦っている。
セーラは、憤然と、大公に向き直った。
「伯父様! あたし、このような女に付き纏われるのは、とても不愉快です! 善処を求めますわ!」
セーラの言葉に、大公は無言でグレタに目をやった。グレタは恐縮しているように、巨大な体躯を、精一杯小さくさせている。大公は、好敏に向き直った。
「失礼した……。グレタには、良く言い聞かせておくので、許して貰いたい」
好敏は、はっ! と懐に伸ばしていた指先を慌てて引いた。
危うい所だった。もし、グレタがさらなる侮辱を口にしたら、引き抜いていたかもしれない。
悠然と、大公はホテルに歩み寄る。グレタは悄然として、その後に付き従った。
ぼんやりしていると、カシムがするすると近寄った。ニタニタ笑いを浮かべ、声を掛ける。
「あんた、銃を抜くつもりだったんじゃ、ないのかね?」
好敏は胸を張って、頭を左右に振る。
「いいや! そんな馬鹿な真似、考えてもいなかった」
「そうかい。それなら良いんだが。俺はまた、あんたが一発、あの女に向けて撃つんじゃないかと、ヒヤヒヤしていたぜ!」
言葉と裏腹に、カシムの顔は嬉しげである。まるで、一騒動あるのを、心待ちにしている表情だ。
セーラが心配そうに、好敏に寄り添う。好敏は無言でセーラの腕を取り、ホテルへと歩みを進めた。
心の中では、グレタに対する憎しみが荒れ狂っていた。




