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◇
敷物型転移装置というたいへん便利なものを、シュテリゼートは持っていた。彼の友人の錬金術師が作ったものだという。
2つ一組で、片方を敷いておけば、もう片方から自由に出入りができるという。
「魔族の技術ですね」
歩く計算機こと参謀ウィルゲンリートが言った。
「半魔人の友人なので、はい」
エストラステッラは参謀と借金の取立屋の睨み合いを横から眺めた。出された茶の湯面が揺れている。波紋を絶えず作り出しているのは隣の王子だった。膝を忙しなく揺すっている。だが機嫌が悪いのかといえばそうではないようだった。無表情の参謀と、微苦笑に苛立ちを孕んだ取立屋と、悲嘆に渋面をやめられない父親を見て面白がっている。
エストラステッラは茶を啜る。下からの振動に曝され、冷めていた。乾かした葉を湯で戻した味がする。
「酒とかねぇのか」
「ありません」
ウィルゲンリートの首がエストラステッラに回る。真人の関節の可動域を越えていた。
「生還した聖騎士様を饗す気がねぇなァ?」
茶を呷る。
「会議にお酒出すワケないじゃん」
王子が言った。
「酒はあんだンべ? 厨房案内しろや」
「王、いかがされます」
先々代の先々代、さらに先々代からこの城に仕えているという少年面の参謀は王を見る。
「もう好きにしてくれ……話が進まん……」
王はお顔をお覆いになる。エストラステッラの帰還がお気に召さないようでいらせられた。
「魔族の技術品について、いかがされます」
若作りの参謀はさらに王に問う。王はお目元をお揉みになられた。
「好きにせい。寡人は聖エーリュシカ様に顔向けできん……」
今まで、2000年前の初代聖騎士にどう顔向けしてきたのだろう。エストラステッラは茶とともに呑んだ空気を吐き出した。
「きゃはは、エスト、きったな!」
「王の御前だよ」
「さっさと話つけろ。ちんたらちんたら移動手段なんざ、そんな時間をかけて話し合うことでもねぇだろ。こちとらてめぇ等の駄弁り代のために税金納めてんじゃねぇんだが?」
エストラステッラは燃草を取り出した。
「禁煙です」
「うるせぇ」
「話進まないのエストのせいじゃん」
「はぁ、じゃあ使え、その敷物型転移装置。歩いて行って何日かかると思っていやがる」
シュテリゼートは憐れみの苦笑を参謀ウィルゲンリートに向けた。
「王も好きにするようにとおっしゃられました。承知しました。使用します。ですが安全を確認できません。エストラステッラさんと僕で使用します」
「は? それで帰ってきたんだが?」
「はい。ですが万が一のことがありますから」
「まぁ、いい」
「ボクも行くよ。いいですか?」
シュテリゼートは手を挙げた。
「殊勝なこったな」
「逃げられると困るんです、この人に。300万ベイ、耳も口も鼻も揃えて返してもらわないことには」
取立屋の言葉に、王子は目を輝かせた。
「そんなに借りたの? お札いっぱいってこと? 札束風呂とか入ったの?」
「入ってねーです」
「自己責任ということならば、僕から止めることはありません」
エストラステッラは燃草に火を点けた。直後に、ぢゅッと音がたつ。燃草の先端には火消し石が当てられていた。
「禁煙です」
転移装置を抜けると、王城とは一転して廃れた城内の様子が見えてきた。
寝台がある。その上に、シュテリゼートの外套を被った小さな背中が見えた。魔王女を斬り伏せた後、忽如として現れた裸の女は目が覚めたようだ。
「女」
外套に包まった身体が跳び上がる。砂塵まみれの黒髪が振り向いた。怯えた目がエストラステッラを捉える。彼は口を開きかけたが、突然、背中を引っ張られる。
「なんだ!」
転移装置を抜けてきたウィルゲンリートだった。硝子玉の目がエストラステッラを見上げる。
「魔族です」
「真人だろうが」
歩く計算機、喋る学術書にも勘違いをすることがあるようだ。
「魔族です」
ウィルゲンリートはエストラステッラを放さない。
「じゃあどうする? 殺すか? ならてめぇでやれ、くそガラス」
少年面に相応しい華奢な手を払い、エストラステッラは壁際に退くと、腕を組む。
「何、何……?」
シュテリゼートが転移装置を抜け、床を攀じ登る。
「あの女、魔族だそうだ」
燃草を咥え、彼は外套ひとつを身に纏う女を顎で差す。
「そんなはずは……」
シュテリゼートの眉間に皺が寄る。
「王様よりお偉い参謀サマが言うんだから間違いねーだろ」
エストラステッラは鼻を鳴らす。
「ヴェスパ様に触るな!」
寝台の脇で寝ていたらしき少年が起き上がる。そして外套の女の前に立ち、両腕を開く。
「地下牢獄のことを教えたら、ヴェスパ様のことは助けてくれるって……」
少年が叫ぶ。彼の衣服は汚れきり、少年もまた痩せこけ、髪に色艶はない。対してウィルゲンリートはいつ見ても弔問に行けるような有様だった。
「まずはお話をお聞かせください。僕はウィルゲンリートと申します。お名前を頂戴します」
少年はエストラステッラとシュテリゼートを順に見た。誰だこいつは、とばかりの眼差しだった。しかしエストラステッラは目を逸らした。
「パレノア……」
「真人ですか」
「真人じゃ、ない」
エストラステッラは苦煙を吸う。
「キミは魔族ではないよね」
シュテリゼートが口を挟んだ。
「魔族でも真人でも、どっちだっていいだろ! 嘘吐き! ワタクシがお守りします。ヴェスパ様は逃げてください!」
パレノアと名乗った少年の後ろで、外套に身を包む女はたじろいでいた。身体は逃げようとしていたが、パレノア少年を気にしている。
「裸の女と、ヒスったクソガキ。どういう関係なんだ?」
エストラステッラは煙を吐いた。
「主人と下僕で……恋人関係です」
パレノア少年の声がか細くなる。明らかにパレノアは子供だった。丸裸の女は、子供か大人か、見方に幅がある。
「へぇ……」
シュテリゼートの声音には好奇に満ちている。この男は金が好きだが"色"も好きだった。
「よく分からんが、その女は先に逮捕したほうがいいんじゃねーか」
「そうだね。参謀さん、あの子の外套はボクのですから、あまり手荒な真似をされると困ります。汚損の場合は、この債権者さんに50万ベイ上乗せさせていただきたく……」
「ふざけんな」
ウィルゲンリートの小柄な背中は動かない。前方に回れば、寝ているのかもしれなかった。
「この場で、僕に裁量権はありません」
ウィルゲンリートがエストラステッラを振り返った途端、パレノア少年は寝台の上の女の手を引いた。2人で逃げるつもりのようだった。
ウィルゲンリートの掌が火を吹く。平生は頭の回転の速さと反比例する鈍い所作が、今や比例している。
パレノア少年が、外套の女の前に割り入って庇った。
「ああ!」
しかし悲鳴をあげたのは女のほうだった。パレノア少年を引き寄せ、直撃を免れさせている。壁に新たな罅が入り、廃れた城がさらに壊れていく。
重苦しい身形の参謀は一息に距離を詰めると、2人の前に立ちはだかり、外套の女の腕を掴んだ。だが、彼女は巧みに躱す。伸ばされた腕を撥ね、膝を払い、拳を受け止める。互角の攻防が続く。
真人ではないかもしれない。
禁煙を強いられ、飢え死にしそうな肺が毒煙を味わう。エストラステッラは体内の友に餌を食わしながら、徒手空拳を眺めていた。
「そろそろ止めたほうがいいんじゃないかい」
「止めたらいくら分返済だ?」
シュテリゼートは肩を竦めた。彼が半歩踏み出す。と同時に、ウィルゲンリートが寝台へ女を投げた。外套が翻り、裸体が露わになる。肩を押さえつけ、布団に縫い留めていた。
「やめてよ! やめてよ! お願いぃ!」
部屋の隅にひとり取り残されたパレノア少年が金切り声をあげる。参謀は女目掛け、魔術を放とうとしている。至近距離だった。
エストラステッラは首飾りを握る。真人はこの首飾りの主部の晶石なしに、魔術は使えない。ところがウィルゲンリートはどうだ。彼はその素手で魔術を扱える。
エストラステッラの放った斬風撃がウィルゲンリートを吹き飛ばす。新しい砂埃が肌を撫でていく。
「エストラステッラさん」
ウィルゲンリートはすぐさま体勢を整えた。床を引っ掻き、尻から滑っていく。硝子玉はどこかへ消えていた。その双眸は妖光を秘め、燈火よろしく揺らめいている。
「不愉快だ」
「はあ」
「服着せてからやれ」
「はあ」
「裁量権がねぇってのは?」
「逃亡がない場合に限っては、僕に裁量権はありません」
「てめぇも高利貸しやったほうがいいぜ。才能がある。契約書を作る、才能が」
「ありがとうございます」
「褒めてねぇよ。貶してんだ」
「はあ」
徐々にウィルゲンリートの眼窩には硝子玉の光沢が戻ってきた。
「あーあー。ボクの外套が。仕方がないね。弁償してもらわないと」
シュテリゼートが大仰な溜息を聞かせ、寝台の傍にやって来た。そして焦げめのついた外套の裾を捲り、裸体に被せる。
「見積書を僕宛に送っていただければお支払いします」
「当然」
ウィルゲンリートは硝子玉を女に向けた。
「お名前を頂戴します」
「ヴェスパ様です! ヴェスパリア様! その方はヴェスパリア様です!」
答えたのは裸の女ではなくパレノア少年だった。
「見た目が違う」
エストラステッラは言った。魔王女は仮面をしていたが、この裸の女とは背丈も髪色も違った。
「その方はヴェスパ様なんです! "ぼく"はその恋人の魔族なんです!」
パレノア少年は喚いた。自暴自棄になっているようだった。
「真人って答えりゃ生きてられるかもしれねぇんだぞ。真人って答えとけ」
「誰が愚人だなんて答えるもんか! 愚人なんか……! みんないなくなればいいんだ!」
「ンじゃ、2人仲良く断頭台いくってか。好きにすりゃいい。お国サマがぶち殺す分には俺の知ったことじゃない」
案内は済んだ。事は解決した。あとはウィルゲンリートと、得体の知れない女と、情緒不安定な少年の決めることだ。エストラステッラの爪先は転移装置に向いた。彼は忙しかった。絵牌並べと鋼球弾きをしに行かねばならなかった。早々に借金を返済しなければ、金だ借金だ返済だとうるさい男に付き纏われてしまう。
「今の段階では断頭台とは決まっていません」
ウィルゲンリートが言った。
「わたしは"ヴェスパ様"かも知れませんが、この子は違います……」
足音に消えそうなほどの女の声が混じる。エストラステッラは足を止めた。
「ヴェスパ様! 何を……! 2人で断頭台に行きましょうよ! ヴェスパ様となら、"ワタクシ"は何も怖くありません! "ワタクシ"は愚人の世の中で生きていたくありません。ヴェスパ様だって、常々そうおっしゃっていたではありませんか!」
パレノア少年の声は震えていた。
「あなたは、生きなきゃダメよ……」
女は外套に身を包み、裸身を守っている。
「ヴェスパ様……! どうしてですか! ワタクシに、愚人として生きろと……そうおっしゃるのですか……」
気付くと、エストラステッラの隣にはシュテリゼートがいた。
「帰ろうか」
取立屋も、金の匂いが消えた途端に転移装置に吸い寄せられていく。
「エストラステッラさん、どちらへ」
部外者同然に痴話喧嘩を見せつけられているウィルゲンリートは目敏かった。
「用は済んだんべに」
「いいえ。地下牢獄にまだ行っていません。現場検証と事実確認が必要です」
「は?」
「聖騎士が1人、捕虜が1人、地下牢獄に投じられているとのことですが、エストラステッラさんはその目で確認しましたか」
「してねぇ。そこのガキに聞いた。まずは、報告、だろ。報告、連絡、相談、能率給、訴訟、鉄拳制裁ーだ」
ウィルゲンリートはエストラステッラの返答を聞くやいなや、話のついていない2人の間に割り込んだ。
「処遇についてはこちらからはまだ何とも言えません。地下牢獄へ案内してくださいますか」
「この子はまだ子供です……」
裸の女は違うことを答えた。
「はあ」
「だからどうか、死罪だなんて……」
「まだ決まっていません」
「そ、そうでは、なく……」
「ヴェスパ様! ぼくは一人で生きていたくないんです! どこへでもお伴しますから……!」
「地下牢獄へ案内してください」
「………分かった。いいよ。餌の時間だから、どうせ行かなきゃだったし……」
パレノア少年は項垂れ、肩を落とした。
「でも条件があるよ」
「はあ」
「あんた等、強いんでしょ。牢屋、開けるんだよね。ヴェスパ様のこと、守ってくれるって約束して」
「はい」
ウィルゲンリートは詳細も知らずに快諾している。
「エストラステッラさん、同行お願いします」
「あ゛~」
「たいへんだね。ボクも行くよ。何かいるんだろう? 死なれちゃ困る」
地下牢獄に着く前に、どこからか雄叫びが聞こえていた。獰猛な魔獣でも飼っているに違いない。
裸の女から片時も離れなかったパレノア少年が先頭を行き、裸の女はエストラステッラの隣に置かれた。決めたのはパレノア少年だった。
黴臭く、冷えた地下に入っていく。ウィルゲンリートに明かりを持たせ、パレノア少年は粗末な粥を2つ盆に乗せている。
「担当者はあんた等が殺したじゃん……」
シュテリゼートは、魔王城の雇用形態を根掘り葉掘り訊いていた。パレノア少年は鬱陶しげであったが、ひとつ、ひとつ答えていく。律儀な気質なのかもしれない。
「だからぼくがやってるの。そっちの牢屋のは大丈夫だけど、こっちの牢屋は愚人だから、弱いんだよ」
パレノア少年は"こっちの牢屋"を先に案内した。ひとつ油灯があるだけで、全体的に暗く、湿気が多い。とても人間が正気でいられる環境ではなかった。
「餌の時間だよ」
最奥の囹圄でパレノア少年が止まった。ウィルゲンリートが明かりを掲げる。人影が見えた。若い女だった。身形は悪くない。貴族か、富豪の生まれといったところだろう。この囹圄と無縁の暮らしをしていたならば、波打った栗色の髪が軽やかに肩を踊っていたのかもしれないが、今は萎びて見えた。
「保護します」
ウィルゲンリートは即座に柵を壊してしまった。
「裁量権はどうした」
「人質の保護が最優先です」
パレノア少年は何も言わない。興味も無さそうだった。踵を返し、次の囹圄に向かおうとする。
「ヴェスパ様をお願い」
彼はシュテリゼートに裸の女を押し付ける。ウィルゲンリートも、怯えきっている娘をシュテリゼートに任せた。彼は駄賃も求めずに承諾する。
パレノア少年はウィルゲンリートとエストラステッラを待つこともなく、"そっちの牢屋"に向かっていった。
聖騎士が1人捕まっているという話だった。
石でできた分厚い扉を3つを越えなければならなかった。明かりはない。ウィルゲンリートの持っていた燈火も、シュテリゼートに渡してしまった。
視界は機能していなかった。かといって聴覚もあてにはならなかった。
耳の穴に岩を詰め込むような咆哮が聞こえ、耳鳴りを残していく。魔王城ごと揺れる。王子の膝運動よりも強い。
「ライオンでも飼ってんのか」
「そうだよ」
パレノア少年の肯定は乾いている。今、まさに、そのライオンの檻を目指しているようだった。
「粥じゃ足らねぇな」
少年は黙った。
エストラステッラには見えなかったが、獄は先程とは違い、2つしかなかった。その片方から、金属の軋る音が聞こえた。暗闇に沁み入る。荒い息遣いは獅子どころか手負いの猛獣が潜んでいるようだった。
音は、片側の檻房から聞こえる。
「ア、ア、ア、ア………アアアアア!」
低い呻きが響く。徐々に大きくなり、地を揺らす。エストラステッラは耳を塞いだ。耳殻ごと潰さんばかりの大声だった。
「こちらが例の聖騎士ですか」
ウィルゲンリートは淡々としている。
「くそガラス。出立した聖騎士はてめぇの管理下にあるんじゃなかったのか」
双の硝子玉は暗闇に紛れている。
「すべてではありません」
この烏参謀は魔王女を倒した直後にやって来た。ある程度は確信があったのだろう。だが信じてもいなかった。半ば聖騎士団体から追い出すようにエストラステッラを出立させたのだ。彼に与えられた任務は魔王女征討ではない。彼に望まれた任務は斃死だ。
「牢屋、さっきみたいに壊さないでね。さっきのは愚人だけど、こっちはそんな事情、通用しないから」
金属の擦れる音が前方から聞こえるが、エストラステッラには何も捕捉できない。
「ま、壊せないけど……」
パレノア少年が呟いた。
「こちらが聖騎士ですか?」
「だからそうだよ。他に誰がいるのさ。あんた等がみんな殺しただろ。殺戮しただろ。侍女さんも子供たちもみんな綺麗さっぱり、殺していっただろ」
エストラステッラは燃草の煙が恋しくなった。
「聖騎士にしては、魔族の匂いが強いです」
「魔族だからね」
「聖騎士は魔族ではありません」
「魔族になったんだよ」
パレノア少年は小さく呻いた。そしてエストラステッラの視界に眩光が現れる。目を逸らす。一瞬にしてそれが何か認められた。枝切れを思わせる指と炎が見えた。
「アアアアア!」
目の前にある格子が折り曲がって見えた。絶叫とともに城が揺れる。天井が軋んだ。
「コロス………! コロス………! コロス!」
金属と金属の衝突する音が耳を劈く。エストラステッラは首飾りを握った。
「これが聖騎士? ざっけんな」
「ゥガアアアアアアアアア――!」
牢屋のなかでおそらく巨体の動物が暴れている。獅子よりも凶暴で、羆よりも獰猛だ。
一灯が消える。咆哮も消え入る。
魔王城は一体何を捕らえているのか。
「ヴェスパ様は――」
どこに誰がいるのかも分からない暗闇がまた訪れる。パレノア少年が喋った。直後に、エストラステッラは乾いた雨を浴びた。砂埃だった。天井が爆ぜる。
「は?」
状況を把握する間もなく、エストラステッラは腕を掴まれた。引っ張られる。小さな手はパレノア少年か、ウィルゲンリートかどちらとも判じられなかった。視覚は閉ざされたまま、進行方向に足を回すので必死だった。分厚い石扉が次々と粉砕されていくのが聴覚で分かる。
明かりのあるところまで辿り着き、引っ張っていたのがウィルゲンリートだと気付く。
「ヴェスパ様、逃げなきゃ!」
パレノア少年は焦燥していた。シュテリゼートから裸の女を引き剥がし、走り出す。ウィルゲンリートが後を追う。
「何があったんだい」
シュテリゼートのしかつめらしい顔と、怯えた捕虜の娘を見ると、エストラステッラは身体の奥底から溜息を漏らした。
「さっぱり分からん」
「追わなくていいのかい」
「ヤニが切れた」
「さっき吸ったばかりだろうに」
足元が大きく揺れる。横揺れに、縦揺れが加わっていた。天井が軋む。石畳が波打っている。
「崩れるな」
「え、ボクの売却物件が……」
「焼き海苔になる前に逃げるぞ」
「逃げるぞ、ってキミ……」
シュテリゼートは怯え、膝を震わせる娘を一瞥した。エストラステッラは口を動かすのが嫌になった。娘を小脇に担ぐと走り出す。
順路の紛らわしい廊下を取立屋は正確に覚えていたようだ。エストラステッラは足を動かすだけで済んだ。揺れは続いていた。後方に崩落の気配があった。
転移装置のある部屋へと辿り着く。
見慣れた顔触れ3つの他に、巨大な姿があった。上半身は裸で、発達した筋骨が溝を作っている。長い髪は雑木林のようで、丸太のような両腕には巨大な枷が嵌っている。入れ墨も肥大していた。
討ち損ねた魔族がいたというのか。だがエストラステッラにとって、それは真人だった。
「コロス………!」
得体の知れない生き物は手枷を鈍器に、パレノア少年に襲いかかる。
「ヴェスパ様!」
少年は裸の女を背に追い遣る。だが避けきれない。
『お師匠ぉ!』
エストラステッラは舌打ちをした。首飾りを握り、魔斬撃を繰り出す。隆々とした上半身に当たる。だが囚人がエストラステッラを振り向くことはない。その手枷はただひたすらパレノア少年を、その後ろの女を狙っていた。
「女をポートに投げろ」
エストラステッラはシュテリゼートに言った。彼は頷いた。そしてすぐさま、裸の女とパレノア少年の首根っこを捕まえ、転移装置に落ちていく。
「くそガラス」
ウィルゲンリートもまた重要参考人となるパレノア少年と裸の女を守っていたようだ。だが彼の場合はすでに弾かれ、壁に埋もれていた。
「はあ」
「動けんのか」
「はあ」
「そこの女連れてとっとと帰れ」
「エストラステッラさんはどうするのです」
「ここで"地剣"使えってか」
ウィルゲンリートは瓦礫から這い出てきた。そして呑気にも、魔族とも人間とも判じられない巨大な囚人の前に佇む。攻撃はない。囚人は座り込み、項垂れた。首に巻かれた人の頭大の石ころが軽やかな音をたてている。丸く、灰色で、3つ並んでいる。すべて同じ型をしていた。大きな穴が2つ並び、その下に小さな穴が空いている。髑髏だ。3人分の人骨を首に飾っている。
「くそガラス」
「死亡確認のとれなかった聖騎士が5人ほどいます」
「逆に5人しかいねぇのかよ」
「はい」
2000年のあいだ、何百人、何千人と聖騎士が魔王女討伐に赴き、帰ってこない。そのうちの5人だという。
「で、それがこれか」
「服装からして50年は経っていません。刺青が40年前のものです。となると、1人だけ……」
「結論から言え」
「エイデンリンガさんかと思われます」




