1
視界は緋色に灼けていた。悲鳴と足音が耳を塞ぎ、家屋の焼けていく匂いが鼻を刺す。サフィールは年老いた祖母を探した。だが、呼ぶ声は咆哮に掻き消される。
焔光によって夜空には巨大な異形が浮かび上がる。
魔族の襲撃だという。
聖騎士の一行がこの町に来ていたのは幸いというべきか、将又、そのために町は灰と黒煙と化しているのか。
サフィールは祖母を探さなければならなかった。足腰の弱い祖母が一人で逃げ出せるはずはなかった。ただ、祖母の家に向かうということは、異形の足元に向かっていくということだった。
彼女は向かった。煙と炎のかぎろう小路を駆けた。
生まれ故郷はもはや原形を留めていなかった。異形の長い爪が地面に穴を空け、家屋を薙ぎ倒していた。
変わり果てた町を闊歩する怪物と対峙する聖騎士一行の姿が見えた。彼等は魔族の親玉を討ち滅ぼす存在だ。悪い輩を懲らしめる、"正しき"人々で、この国の希望だ。異形もたちどころに打ち倒すはずなのだ。実際、建物の瓦礫のほかに、異形の子分たちの遺骸が散らばっていた。
サフィールは安堵した。彼等はまだこの町に留まっていた。今まで、耳に入ってきた哀れな町村とは違う。
逃げ惑う民を守りながら、剣林が異形の子分どもを次々と斬り伏せていく――はずだった。けれども厳しい風采の剣士はもはやその武器を引き摺っていた。負傷が目立つ。
辺りの小異形はすっかり全滅させられたようだ。ところがまだ、大きな異形がいる。
「一緒に戦ってくれ」
揺らめく緋色を帯びた剣士が言った。呻くような声だった。
サフィールは何を言われたのか分からなかった。
「君は若い。一緒に町を守ってくれ」
流れ出る血によって片目も開けられない剣士の顔立ちは、サフィールと同年代のように思えた。
「逃げずに、戦ってほしい」
剣士は、彼の足元に転がっていた者から剣を奪い取った。この町の人の身形ではなかった。
赫々明々と町は燃え続けた。
鎮火する頃には、サフィールの躯体は大きな噛み跡を携え、生まれ故郷に転がっていた。
*
エストラステッラは戸惑っていた。彼は一先ず、肺に相談することにした。
魔王城と呼ばれた城の瓦礫に腰を掛け、燃草に火を灯す。先日寄った街で買えたこの燃草は彼にとって外れだった。
苦味に潜む清涼感に喉を灼かれる。無いよりは有るほうが良い。否、有ってしまったために、迷った。
不味い。
鼻から煙を吹く。鼻腔の奥も清涼感に荒らされる。
「どうするんだい、エスト」
燃草を吸わない人間というのは呑気だ。
同行者のシュテリゼートが訊ねた。彼の長い金髪が、天井に開いた大穴から日の光を浴びて煌めいている。
エストラステッラは答えなかった。まるで仲間のように隣に居座るカラスも、シュテリゼートの問いには答えない。てっけくてっけく頭を揺らすばかりだ。黒光りする嘴は開こうともしない。
「エスト」
「うるせーな。ヤニくらい吸わせろ」
シュテリゼートは練り歩く。短い距離を往復する。エストラステッラの視界を行きつ戻りつする。
「うるせぇ」
「何も言っていないだろう、ボクは」
「目にうるせぇ」
「借金相手に偉そうだね、キミは」
シュテリゼートは立ち止まった。微笑を湛えている。彼はエストラステッラの仲間ではない。彼は借金の取立屋だった。
「肺に八つ当たりして、決まったのかい」
エストラステッラは舌打ちをした。そして頭を悩ませる原因を見遣る。裸体の女が落ちていた。玉座の前に仰向けに倒れていた。
「くそガラス」
カラスが嗄れた鳴き声をあげる。今朝まで魔王城と呼ばれていた城の謁見の間に谺し、耳を劈く。
エストラステッラが口を開く前に、カラスは天井の大穴から羽撃いていってしまった。
「逃げやがった」
「ボクが仕留めるかい?」
シュテリゼートの手に握られた鏢が軋る。
エストラステッラは決断が面倒臭くなった。彼の口は喋るためにあるのではなかった。酒を飲み、燃草を咥えるためにある。
すると、城の破壊とともに拉げた扉が叩かれた。左右の隙間から身体を通そうとする人影がある。魔族は大方打ち倒したが、斬り損ねたのがいたようだ。
エストラステッラは深く煙を吐いた。そして首飾りを握る。
「ボクが殺るよ」
だがシュテリゼートは武器を握っておきながら、扉の狭間から現れた人影に襲わなかった。それが一見して真人だったからだ。明らかに魔人ではなかった。
現れたのは真人の少年で、エストラステッラたちのことなど脇目も振らず、裸体で倒れている女に向かっていった。
「ヴェスパ様……! ヴェスパ様……! そんな……、嫌だよぉう、嫌だよぉう……!」
少年は裸女に縋りつき、泣き喚いた。
「ヴェスパリアは死んだよ」
人の好いシュテリゼートは教えた。
「あああ……! 嫌だ! ヴェスパ様!」
しかし、何故、この少年は、今し方倒したばかりの魔王女とはまったく外貌の違う真人の女を魔王女の名で呼ぶのか。
エストラステッラは悲嘆する少年の後姿を眺めていた。人の好いシュテリゼートは落ち着かない様子でいる。
器官に吹き荒ぶ清涼感と、視界を蠢く連中が、エストラステッラに休息を許さない。
挙句に、シュテリゼートが目配せをよこした。
エストラステッラは腰を上げた。
少年がやっと2人の存在に気付いたとばかりに、涙で潤む目を向けた。
「お願いです、ヴェスパ様を殺さないで……」
「それは魔王女じゃねぇべな」
少年は首を振った。
「ヴェスパ様を助けてくれたら……ヴェスパ様を助けてくれたら、大事なこと教えます……本当です。本当に大事なことを……」
少年は眼球ごと溶かしそうなほど水膜を張った双眸でエストラステッラを見上げた。
◇
エストラステッラは玉座の前に立っていた。
「何故生きている?」
王がお訊ねになった。
「母親と父親が番ったからですな。そして聖騎士育成制度によって――」
エストラステッラは答えた。だが、王のご尊顔にはお皺がお寄りになるばかりだった。
「違う! そうではない。"地剣"は使わなかったのかと訊いておるのだ」
エストラステッラは王のお唾を浴びた気になって、顔を背けた。
「使わんでも倒せました。聖騎士の先輩方皆々様のお陰で、魔王女はたいへん疲弊しているようでした。褒美の話ですが――」
王もまたたいへん苦りきっていらせられる。ところなエストラステッラの知ったことではない。この一国の主の感情的なところは、第一王子にも色濃く遺伝している。
「エスト。王様の御前だよ」
借金の取立屋は跪き、断頭台に身を委ねるがごとく頭を垂れている。
「今、てめぇの借金を返そうって交渉してんだ」
「税金で返済するつもりなの」
「建替えだ」
謁見の間に、乾いた音が響く。基壇の下に佇む参謀が手を打ち鳴らしたようだ。まだ10代も半ばの面構えをしているが、この城を牛耳っているのはこの子供のような官吏だ。そしてこの少年顔の参謀というのが――
「おい、くそガラス」
エストラステッラはまだ酒も飲めなそうな見た目の参謀に詰め寄った。
「はあ」
硝子玉のような目がエストラステッラを見上げる。
「てめぇ、逃げたろ」
「判断をお任せしました」
「それを逃げたって言うんだんべがな」
「はあ」
王が咳払いをする。
「すまないが、シュテリゼート君といったかな。其方からお話をお聞かせ願えるかな」
シュテリゼートは深々と辞儀を済ませると、王のお求めになるように説明をした。
エストラステッラが一行から見放されたこと、自分は借金の取立のために彼についていったこと、魔王女は討ち滅ぼしたが、その後に魔王女から真人の女が現れたことを順序に従い述べていく。
エストラステッラは感心した。高額な借金を背負わせ、人から金を巻き上げるためには口が達者でなければならないようだ。この狡猾な口巧者から金を借りてしまうことは自然の成り行きだとさえいえないか。
「それで、その女というのは……」
「魔王城におります。一先ずはご報告をと思い……」
シュテリゼートが答えると、王はエストラステッラをお睨みになった。
「報告ならば、ウィルゲンリートから済んでおる!」
エストラステッラはウィルゲンリート、つまり目の前の少年顔を睨んだ。
「てめぇ、大事なときにいねぇで……」
「魔王女は倒しました。エストラステッラさんのご無事も確認できましたので報告を優先しました」
「ほぉ……? "地剣"使ってねぇって王様に今難癖つけられたけどな。それで、"ご無事"ねぇ? 二枚舌も大概にしやがれよ」
「二つとも事実です」
「いい! それで、何故、その魔王女の後に現れた女というのを討たなんだ……」
王は頭をお抱えになった。ご詰問でありながらお嘆きであらせられた。
「真人でごぜぇました。ワタクシどもは、魔王女とその仲間の殲滅は仰せつかりましたが、真人を殺れとは聞いておりませんでした。それから――」
「だが魔王女の城にいて、魔王女から現れたのだろう?」
「城にいたという点では、王様……聖騎士1人と真人の捕虜が1人、つまり計2名、捕らえられておりました。それからもうひとつ、魔王女の側近を名乗る真人が1人いたので、女と併せて計4名が真人の身で魔王女にいたことになりますが、皆、仕留めればよろしかったですかね」
エストラステッラは王を見詰めた。王はご尊顔をご両手で覆いになる。
ウィルゲンリートは王を一瞥した。
「少しお時間をいただきます。王のご体調を鑑みてから再開します」
◇
城内の庭園で燃草を吹かす。吸い慣れた味が血肉に馴染む。
「よく打首にならないね」
シュテリゼートは噴水の縁に腰を下ろす。2000年間、人々の不安の種になっていた魔王女が滅びたのだ。空は晴れ渡り、木々は青々と茂っている。小鳥の囀りが水の音と調和していた。
「そんなばかすか処刑こいてたらお国様も収入がねぇだろ。処刑人雇って、手当て出して、清掃費と葬儀費用でいくら嵩むと思ってんだ」
シュテリゼートは苦笑し、肩を竦める。
「何より、俺様は聖騎士サマだからな」
「歓迎されてなかったけれど?」
「魔王女を倒せと言われたんだ。死んでこいとは言われてねぇぞ」
「言われてたら死んでいたの?」
「死んでほしかったか」
「お金返してもらってないのに死んでほしいわけないだろう。お金は命より尊いんだよ。借金を返済されていないのに、まさか、"死んでほしい"だなんて思うわけないじゃないか」
エストラステッラは雲ひとつない空に紫煙を吹く。
足音が近付いてきている。駆け足だ。
「エスト! おかえり!」
庭園に目にも留まらぬ速さで飛び込んでくる者がいた。止まれず、生垣に衝突する。
シュテリゼートは噴水の縁から腰を上げ、跪いた。
「あれ……」
葉や枝を戴いた青年はシュテリゼートを見て、たじろぐ。そして振り向き、エストラステッラの姿を認めた。
「エスト!」
「相変わらず多動なようで」
「忙しいだけだよ。でもおかえり。無事で良かった。ああ、いいよ、立って、立って。で、こっちの方は?」
青年は屈託のない笑みを浮かべ、立ち上がったシュテリゼートを示す。
「……」
エストラステッラはシュテリゼートに目配せする。微苦笑が返ってきた。
「まぁ、あれだ。一宿一飯の――」
「借金取りです」
「え」
「借金取りです」
青年はエストラステッラを見た。
「またしちゃったんだ、借金」
「また? 返しましたけどね」
「返してもダメだろ、借金したら。返すアテあんの?」
「ありますよ」
「そっかそっか。で、何くんだっけ」
青年はシュテリゼートを向いた。
「シュテリゼートと申します。シュテルンとお呼びください」
「うん、分かった。よろしくね、シュテルン。ゆっくりしていってね! じゃあオレ、ウィルグのところ行ってくる!」
青年はまた駆け足で庭園を去っていく。参謀のところに行くと言ったが、とても会話が成り立つような組み合わせではなかった。
「彼は?」
「知らずに跪いたのか」
「身形が高貴でしたから」
「王子だからな」
シュテルンは片眉を上げた。あれが王子か、とでも言いたげだった。
「歓迎されていたね」
「訳が分かってねンだろ」
エストラステッラは苦味を吸う。
「君みたいなのにも友人がいたのだね」
「友人じゃねぇや。王子」
「距離感が友人だったよ」
「おっと……王子の人格批難か? 打首だぞ」
しかし王子を批難して打首ならば、この城の大半は打首になる。そして費用がかかる。
「ボクは嫌いじゃないけれど」
「騙くらかして借金背負わせられそうだもんな」
「まさか。ボクは善良な人間にお金は貸さないよ」
「は?」
「自分が善良な人間だとでも?」
エストラステッラは口角を吊り上げた。
「命賭けて守ってやったろ」
「何を?」
「国」
*
サフィールが起きたのは、粉塵まみれの寝台の上だった。彼女は裸だったが、大振りな外套が身を包んでいた。
辺りを見回す。穴の空いた天井から振り注ぐ日の光によって、崩れた壁と倒れた家具が見えた。
暫くは目に見えるものだけを追っていたが、軈て、何故自分はここにいるのかを考えはじめると、彼女は訳が分からなくなった。
外套を引き寄せ、蹲る。知らない匂いがした。甘い香りが布から漂う。だが花のようでいて花の青臭さはなく、菓子のようでいて菓子の温かみはなかった。
彼女は考えようとした。けれども知らない香りが思考に靄をかける。
すると、物音があった。顔を上げる。少年が盆を抱えて立っていた。
「ヴェスパ様、おはようございます!」
10代半ばの茶髪の少年で、少女と見紛うまろさを帯びていた。だが骨格から男性だと分かる。彼は寝台の脇にやって来た。
サフィールは、異性であることも相俟って、驚嘆し、外套を抱き締めた。
「ヴェスパ様……?」
サフィールはそういう名前ではなかった。他に人はいない。少年は一体、誰に話しかけているのか。
「ヴェスパ様、気分が優れませんか? ワタクシ、城下でお粥を………お粥を……」
少年は話しているうちに玉の涙を溢しはじめた。
「ごめんなさい……お粥を、作って参りました」
彼は涙を拭いた。
「持ってくるうちに冷めちゃって……でも、何か食べなきゃだから……」
下唇を噛み、少年は嗚咽を堪える。
サフィールは粥を一口食べた。冷えていた。だが浮かんでいる麦は柔らかく、甘みが強い。良い麦だと彼女は思った。
「美味しい……」
少年はまた涙を落とし、首を振った。
「城下もぼろぼろで……こんなものしか……」
サフィールは少年を見詰める。何の話をしているのか、まったく分からなかった。
「あなたは、どなた……?」
赤くなった目がサフィールを捉えた。そして喉から擦り切れた喘鳴を漏らす。だが口は笑みを形作っている。
「ヴェスパ様……ご冗談を……」
「ヴェスパ様って、誰…………なの……?」
少年は何度も首を振った。
「ああ……そんな………そんな……ああ……」
少年の目元はさらに赤みが強くなっていく。顔中を皺まみれにして水分量を増やす。
「あ、ああ……、あの連中から、か、隠れなきゃいけないんですもんね……? あの連中から……」
少年は俯いた。
「でも……」
そして肩が落ちる。
「ヴェスパ様………ワタクシ、地下牢獄のこと、教えてしまったんです……ワタクシ………ワタクシ、ヴェスパ様に生きていてほしかったから……」
彼の声にはもはや、力が込められていなかった。
「ごめんね。何も、分からなくて……ここは、どこなの……?」
少年は寝台に顔を伏し、ただ涙を流すのみだった。サフィールの問いに答えようという様子はなかったし、答えられる様子でもなかった。
「うっう……うっう……ヴェスパ様………何故ワタクシのことすらもお忘れになったことにするのですか……」
サフィールは年下の男の子を泣かせてしまったことに狼狽える。何がこの少年を泣かせるに至ったのか、彼女は皆目見当もつかない。
「ヴェスパ様ってどなた? お偉い方なの? わたしはサフィール……」
「ヴェスパ様は、ヴェスパ様です……ヴェスパ様………ここには誰もおりません。あの連中も……だから、本当のことを……」
「あの連中って……?」
「…………ヴェスパ様ぁ!」
少年は慟哭する。
「聖騎士の連中です! なんとご無体な! なんと……」
「聖騎士……」
サフィールの脳裏に、緋色の光景が閃いていった。だが一瞬のことだった。
「あ、あなたは? あなたの、お名前は……?」
「パレノアです……ヴェスパ様、貴女様が付けてくださった名前です……」
「ま、まぁ……、そうなの……」
パレノアという少年はまだ、サフィールに心当たりのない呼び方をする。
「ワタクシを赦してくださいますか。赦してくださらないから………そんな真似をなさるのですか……?」
サフィールは返答に窮した。赦すか否かを問う相手を、この少年は勘違いしている。
「お、落ち着いて……」
「ワタクシは落ち着いています……ただ、悲しいのです。ワタクシはヴェスパ様を一心に思って……ワタクシ……ヴェスパ様がお赦しにならないのならば、死んで償います。ヴェスパ様がお赦しにならないのに、生きていたって仕方がないから……」
サフィールは身震いした。彼女は"ヴェスパ様"ではなかったが、この少年にとっては"ヴェスパ様"だった。
「赦します……! 赦しますから……どうか、早まったことはしないで」
パレノア少年はまた泣きはじめた。そのうち、静かになる。嗚咽は寝息に変わっていた。
サフィールは徐ろに寝台から降りた。足の裏に瓦礫が刺さる。跳び上がり、そして音を殺す。パレノア少年が入ってきた崩れかけの壁の間をすり抜け、部屋を出た。煤けた絨毯の敷かれた廊下へ繋がっていたが、砂礫に覆われ、足裏を攻撃する。
行くあてもなく彷徨った。長い長い廊下は大豪邸を思わせる。壁に掛かった絵画や、花瓶も、とても一町民の暮らしには相応しくない。
延々と続く廊下を歩いていくうちに暗がりに差しかかる。燈火の存在に彼女は気付いた。揺らめく火を見上げる。
夜空に巻き上がる煙と火の粉が、目蓋の裏に描かれた。彼女は屈んだ。夜空の下には、黒煙のなかには何があったのか、分かりそうで、分からない。そして分かるのが怖かった。外套に染み込む香りを吸う。
また歩く気になると、サフィールは廊下の暗がりを進んだ。
町よりも広い。
町……
サフィールは立ち止まる。町に住んでいた。彼女は自身が町に住んでいたことを思い出した。
その町は――
ところが、彼女の思案は、廊下に響き渡る絶叫と揺れによって遮られた。壁をいくつも隔てているような曇った響き方だった。
何かいる。恐ろしいものがいる。その声量から察するに、大きなものだ。
サフィールは左の肩口を押さえた。痛む。胸と肩の間が鋭く疼く。外套を捲くる。塞がってはいるが、穴の跡が肌に刻まれている。だが、覚えがない。
傷跡を撫で摩する。頭の中にも黒煙が渦巻くようだ。
耳の奥にまで咆哮が行き渡り、廊下の余韻が消えたのかどうかも彼女には分からなかった。
このまま進むべきか、否か。暗い廊下の先と、燈火の揺らめくもと来た道を見比べる。
早く帰らなければ、祖母が心配する。だが祖母などいただろうか。
サフィールは頭を抱えた。これが"ヴェスパ様"なのだろうか。パレノア少年の云う"ヴェスパ様"は確かにサフィールのなかにあるのかもしれなかった。
彼女は廊下を戻った。パレノア少年は間違っていなかった。あの少年は戸惑ったことだろう。啼泣し、疲れ果ててしまうのも無理はない。
寝台のある部屋へ戻った。パレノア少年はまだ眠っていた。
砂埃と破片の散らばる掛布を払い、少年の背中に掛ける。
そして冷えた粥を啜った。美味いが、口馴染みのない味だ。
「ヴェスパ様……」
パレノア少年は寝たまま呟いた。爪と肉の間に砂が入り、汚れている。元々の細さに加えて、窶れたような毳立ちが手から窺えた。
サフィールはおそるおそる、茶髪に手を伸ばした。質感自体は悪くなかった。しかし砂煙に曝された硬さがある。ぎこちない所作で、何度か撫でた。この男の子しか、己を知る術がない。
パレノア少年を見詰め、途方に暮れている彼女は気が付かなかった。天井の穴から差し込む光の届かないところで、パレノア少年ではない人影が、ひとつ、ふたつと増えていくことに……




