107 死霊たちの証言
その後、俺は〈バロン〉と〈クイーン〉に、いくつか気になっていたことを聞いてみることにした。
「去年の12月以降に、ここを通った人間はいなかったか?」
俺の質問には、〈クイーン〉が答えてくれた。
「ここを通った人間だと? いるわけがない。妾と奴とは、何百年もこうして睨み合いを続けていたのだから。地上の年月についてはわからぬが、ここ数年は誰ひとり通っていないと断言できる」
「あんたらのうちのどっちかが地上に出たりもしてないんだな? あんたらの配下のアンデッドが地上に逃げ出した、なんてこともないよな?」
「こやつが動かない以上、我が動くわけにはいかないだろう。我がいなくなったと見たら、こやつは必ず自らの領域を増やそうと画策する。配下については愚問だな。我が【死霊術】は完璧だ。よしんば仮に、我が支配を脱する個体があったとしても、アンデッドは本能的に明るい場所を嫌う。地上に逃げ出すということは、アンデッドの本能からしてありえない話だ」
〈バロン〉が言う。
「あんたらの『領地』以外に、モノカンヌス湖の地下を通れる経路は存在するか?」
「ありえぬだろうな。もっとも、危急の際に王城から王族が落ち延びるための秘密通路のようなものでもあれば別だろうが……」
「自然のものではありえぬじゃろう。この地下空洞は支洞が多いが、人が通れるほどの広さがある箇所は限られておる。水没している箇所も多い。既に判明している地下空洞の広がりから考えても、この地下空洞に繋がらずに新市街へと直結している空洞があるとは思えぬな」
王族用の脱出経路か。素直に教えてくれるかはわからないが、王様にでも聞いてみるか。
「ところで、ここ最近、おかしなことはなかったか? ここにいて地上のことがわかるとも思えないけど」
「基本的にはその通りだ。仮にわかったところで興味もないしな。しかし、ここ最近に限って言えば、おかしなことはたしかにあった」
「……なんだって」
ダメ元で聞いたのだが、〈バロン〉から返ってきたのは意外な返事だった。
「地上から、強烈な悪の波動を感じたことが一度だけあった。ほんの最近――昨夜から数日の間だろう」
「ずいぶん幅が広いな」
今度は〈クイーン〉が返事をする。
「死霊の時間感覚は生者のそれとは違うのじゃ。なにせ、食事も睡眠も必要としない上に、陽の光を浴びることもないからして」
「……体内時計が狂いっぱなしってことか」
そもそも身体がない以上体内時計もないということかもしれない。
もっとも、これについては【不易不労】のある俺もあまり人のことは言えないな。普通の人と全く異なる生活リズムで暮らしている……というか、休み必要がないのでリズム自体がない感じだ。
もちろん、身体を酷使し続ければ疲れなくても怪我をしかねないし、何よりエネルギー切れを起こす可能性がある。内臓機能にも「疲れない」性質は働くようではあるが、消化の速度は普通の人と変わらないため、摂取できるエネルギー量には上限があった。
いや、それは余談だったな。
それより、
「一度だけなのか? 何度かあったんじゃないか?」
切り裂き魔がバロン言うところの「悪」で、犯行時にその本性を表すのだとしたら、事件の起きた回数だけ波動が感じられなければおかしい。
しかし、バロンははっきりと首を振った。
「いや、一度だけだ」
〈クイーン〉に視線を向けるが、〈クイーン〉は傲然と顎をしゃくって賛意を示した。
「悪……というのも曖昧だな。具体的にはどういうものを指すんだ?」
「あれはおそらく悪魔じゃろう。それも中級、ひょっとしたら気配を抑えた上級悪魔かもしれぬな」
「悪魔……」
仮面騎士、〈八咫烏〉の残党、地下の死霊と来て、今度は悪魔かよ。
しかし現れたのが一度だけだというのなら、切り裂き魔とは別件の可能性もある。
「そういえば、悪魔ってのは、どういう存在なんだ?」
「なんじゃ、歳の割に博識かと思えば、そんなことも知らぬのか」
「学校で教育を受けたわけじゃないからな。知識に偏りがあるんだ」
〈クイーン〉にそう答えると、〈バロン〉が言う。
「ふむ。それならば教えて進ぜよう。悪魔というのは、肉体を持たぬ霊魂のみの存在だ。悪神の力が何らかの拍子に凝り固まってそのような形になると言われておる。肉体がないために寿命がなく、歳経た悪魔の中には古代から生き続けているものもいるらしい」
「悪霊みたいなものか?」
あんたたちみたいな、という言葉は呑み込んでおく。
「悪霊は、元は人間だったものだ。肉体の死を迎えた人間が、禁断魔術や神々の力によって霊魂のみ生き延びたもののことを霊と呼ぶ。霊が悪か否かは、その霊が何を目的に歪な形で生き永らえることを選んだかによる。
対して悪魔は、純然たる霊魂のみの生命体だ。悪魔は死んだ人間がなるわけではなく、最初からそのような存在なのだ」
「じゃあ、悪でない悪魔もいるってことか?」
「そのような存在を天使と呼ぶが、現在天使がこの世界にいるかどうかはわからぬな。善き神々はそのような存在を作ることを避けたがるというから、少なくとも悪魔ほどはいまいて」
と〈クイーン〉が言う。
「どうして、善神たちは天使を作りたがらないんだ?」
「霊魂のみの存在は移ろいやすいからだ。悪神からの誘惑にも、生身の人間以上に弱い」
「肉体がないなら、誘惑には強そうだけど」
「悪神からの誘惑は魂へのものだ。肉体という実体があればこそ、魂への干渉に対して鈍感であることができるのだ。肉体は魂の牢獄といわれるが、牢獄があったればこそ、そこから誘い出される危険が少なくて済む。食欲や性欲について考えてみるがいい。あれらは強力な欲求ではあるが、一度満たしてしまえば収まる程度のものでしかない。しかし、魂の欲求には実体がないがゆえに限度というものが存在しないのだ」
金銭欲とか、名誉欲とか、その手の肉体を離れた欲求を考えると、際限がないというのはわかる気がする。金も名誉も、手に入れたら手に入れたでそれ以上のものがほしくなる。ほどほどのところで満足できればそれがいちばん幸せなのだろうが、欲と言うのは燃え上がる炎のようなもので、適切な範囲にコントロールするのが難しい。
俺は金や名誉にそうこだわる方ではないが、前世で格闘ゲームをやっていると、もっと強くなりたいと思うことはあった。プロになって金を稼ぎたいとか、大会で優勝したいとかではなく、もっと純粋に腕を上げたいと思っただけだが、その程度の欲ですら、どこかでブレーキをかけないと際限がなくなってしまう。
そのブレーキの役目を果たすのは、もう満足した、もうくたびれたという肉体の声であることが多いから、肉体を失ったら欲望のコントロールが利かなくなるというのはわからなくもない。
……そう考えると、【不易不労】によって睡眠や休息を必要としなくなった俺は、肉体の制約を半分くらい外してしまっていることになるのだろうか。
「もし存在に霊魂しかなかったとすれば、悪神からの誘惑は、肉体を持つ者にとっての暴力と同じように、ごく直接的なものとして魂に牙を向いてくるのじゃ。それに抗しうる霊魂はごく限られた数しか存在しないであろう」
〈クイーン〉がそう補足する。
「悪魔が天使より多いってことはわかった。それで、悪魔というのはどういう存在なんだ? いや、純粋な霊魂のみで生きる悪神側の存在だってことはわかったけど、どういう欲求を持っていて、どういう行動を取るものなのかってことだ」
「悪魔は、小型の悪神だと思えば、そう間違いではないだろう。奴らは魂を食うことを至上の喜びとする。また、奴らにとっては、魂を食うことは霊魂としての自己の存在を維持する上で必要なことでもある。この世界には魂と輪廻を司る神アトラゼネクが張り巡らせた魂を循環させるためのシステムが存在するから、悪魔たちはただ存在しているだけで日々アトラゼネクのシステムに自身の霊魂を削り取られているのだ。つまり、悪魔は放っておけば死ぬのだが、その死を免れるために、他の魂を食らって自身の霊魂を肥大させようとする」
「アトラゼネクのシステムがなかったら、悪魔は魂を食わないのか?」
「いや、そんなことはないだろう。奴らにとって魂を食うことは至上の娯楽だ。悪神モヌゴェヌェスにとってもそうであるのと同じようにな。そして、奴らは魂を食うことで肥大化する。肥大化した結果、自我をなくし無目的に魂を食らう魂喰らいへと堕することもあれば、取り込んだ魂を咀嚼、吸収し、より高位の悪魔へと進化することもある。どちらにせよ危険であることに違いはないがな」
「そんなのが地上にいたってのか……」
「力を感じたのは短い間のことじゃった。通り過ぎたのでなく、王都に潜伏しているのじゃとしたら、少なくとも自分の気配を殺す程度の芸を持った悪魔だということになるじゃろうな」
「それで中級から上級か。その悪魔は、たとえばあんたたちと比べたらどっちが強いんだ?」
「元が人である我らでは、霊魂の規模で上位の悪魔にはまったく勝てぬよ。むろん、身につけた魔道の技をもってすれば、いくらかは対抗できるであろうが」
「妾にしてもそれは変わらぬ。魔除けによって近づけぬ程度のことはできるがな」
この2人がそうまで言うとは、相当厄介な存在なんだな。
「悪魔ってどうやって倒せばいいんだ? 霊魂だけの存在ってことは、物理的な攻撃や、自然現象を起こすタイプの魔法は効かないだろ?」
「高度な神術には、精神に直接打撃を与えるものがあると聞く。また、悪魔を祓うための専用の術も存在するらしい。……が、我は死霊術師だ。そのような術については知識を持ってはおらぬな」
「輪廻神殿の司祭に聞くか、図書館迷宮で調べるかか」
「輪廻神殿でも、悪魔祓いのスキルの持ち主などごく限られておろう。悪魔の活動は不気味なほどに密やかで、もたらされた惨禍を目の当たりにしても、それが悪魔によるものなのか人によるものなのか判然とせぬことが多い。
ごく少数の司祭がそれを悪魔の仕業だと断じるのであるが、そこには合理的な根拠があるわけではないから、当たっていることもあれば的外れであることもある。いや、どちらかといえば後者の場合が多かろう。
その結果として、悪魔祓いはうさんくさいものと見なされ、悪魔を研究する者たちまで胡乱な奴だと言われがちであった。
我も、【死霊術】の研究のかたわら悪魔についても調べたことがあるが、王立図書館迷宮以外でまともな資料を目にしたことがない」
悪魔は、魔法のあるこの世界ですらなお、オカルト扱いされてしまっているということか。
「そういえば、最近王都でハエが増えてるようなんだが、あんたらのアンデッドのせいじゃないか?」
「ハエだと? それはおかしいな。アンデッドは独特の瘴気を身にまとっているから、生きているものは容易には近づかぬ。
人にはとかく嫌われるハエではあるが、奴らはれっきとした生き物だ。だから、ハエは死体にはたかるがアンデッドにはたからぬのだ。
ハエのみならず蛆の類もアンデッドを好まぬ。アンデッドが腐敗しているとしたら、既に腐敗していた死体を素材としたからに他ならん。我のように状態の良い死体を選んでアンデッドにすれば、アンデッドは案外清潔で無臭なのだよ」
言われてみれば、この地下空洞には死臭や腐臭が漂っていない。
それでも、死体に取り囲まれて生活するなんてゴメンだけどな。化学者が実験用のビーカーでコーヒーを飲んでも何とも思わないような感じだろうか。
もうひとつ、聞いておきたいことがある。
「図書館迷宮の亡霊――ベアトリーチェ姫について何か知らないか?
「知らぬ」
「知らぬな」
2人の答えはにべもなかった。
そもそも2人はベアトリーチェ姫とは誰かについても知らなかったので、姫の伝説について一から説明することになった。
「ふむ……そのような事情があったのであれば、亡霊として生き永らえている可能性は否定できんな。が、我は〈クイーン〉以外の死霊をここで見たことはない」
「妾もじゃ」
実のところ、俺はある疑いを抱いていた。
〈クイーン〉こそが、伝説のベアトリーチェ姫なのではないか、というものだ。
もっとも、ベアトリーチェ姫は享年18歳というから、30歳前後に見える〈クイーン〉とは年齢が合わない。また、ベアトリーチェ姫は亜麻色の髪と灰青色の瞳が印象的な美人だったというから、金髪巻き毛の〈クイーン〉とは似ても似つかない。そもそももしそうだったら〈クイーン〉ではなく〈プリンセス〉と名乗っていたはずだろう。
そして、〈バロン〉、〈クイーン〉の両者ともベアトリーチェ姫との親交?はなかったらしい。
「成仏したってことか?」
「さて……経緯からすれば王都を離れることは考えにくいが……」
「王都の中にいれば、あんたらにはわかるのか?」
「わかる。いや……一箇所だけ、いかんともしがたい場所があるな」
「それは?」
「図書館迷宮だよ。古代に始祖エルフが作ったという伝説があるが、それはあながち嘘ではないのだろう、あの内部は通常の空間からは切り離された異空間になっているようだ」
よりによってあそこか。
しかも、
「異空間だって?」
「我ら死霊は、通常の存在とは位相を異にするものだという話はしたな?」
「あ、ああ……」
「しかし、位相を異にすると言っても、それは通常の空間の裏側に存在しているということにすぎん。つまり、なんといおうか、通常の空間と不即不離、分かちがたく存在するもうひとつの空間に存在しているという感じなのだ」
「ひょっとして、余剰次元にいるってことじゃないか?」
【次元魔法】を研究するうちに、通常の空間に4番目以上の次元が存在することを俺は感覚的に理解するようになっていた。前世だったら物理学史に名を残せるレベルの大発見だと思うが、証明することは難しいかもしれない。
「おお、その表現は当たっているな。そう、通常空間に付随する余剰な次元に我ら死霊は暮らしていると思ってくれてよい。そして、この次元には、魔力や精霊や、神の創造したスキルシステムの経路なども存在している」
「えっ、そうなのか」
「そうなのじゃ。通常空間を演劇における舞台に喩えれば、余剰次元は舞台裏に当たるであろう。そこにはさまざまな照明装置や音響装置があり、出番を待つ役者たちが控えておる」
〈クイーン〉が横からそう付け加えてくれる。
「その喩えはわかりやすいな……それで、図書館迷宮の話は?」
「おお、そうだった。図書館迷宮は、通常空間に関しては外側と連続しているのだが、余剰次元がつながっておらんのだ。だから、死霊である我らは図書館迷宮に出入りできぬし、余剰次元の波動をたぐって中の様子を察するということもできぬ」
「おそらくは悪神モヌゴェヌェスからの干渉を避けるために、図書館迷宮を創り出したという始祖エルフたちが講じた防衛措置であろうな」
なるほど。あそこにはカースによって生き永らえた死霊や悪魔は侵入できないってことか。
「そんなことになってたのか。じゃあ、図書館迷宮内部には死霊は存在できないのか?」
「それはわからぬ。我らのおるのとは別の余剰次元が内部には存在するのやもしれぬ。しかし、もしそうだとしたら、内部の余剰次元におる死霊は、図書館迷宮から出ることはできぬということになるな」
「じゃあ、内部の死霊が市街に出て人を殺すことはありえないか」
「とも限らん。何者かに取り憑くことで一時的に図書館迷宮から出ることはできよう。生者の体内に収まっている間は我らにも存在を察知されることはない。
とはいえ、制限時間は厳しかろう。もって半日といったところか。いや、それも夜間でなければならぬから、正確には一晩というべきであろうな。
その間に本来の巣である図書館迷宮に戻れなければ、死霊は寄る辺を失って存在を保つことができなくなろう。死霊とは、畢竟、余剰次元へと滲み出し、刻みつけられた生者の痕跡にほかならぬのだからな」
結局、「図書館迷宮の亡霊」はいるかもしれないしいないかもしれないってことか。
これじゃあ何もわからなかったようなもんだな。
ふと思いついて聞いてみる。
「そういえば、あんたらの身体はカースでできてるんだろ? どうしてカースによって精神を汚染されてないんだ?」
以前女神様から聞いたところによれば、悪神が自陣営の者に分配するカースと呼ばれる力は、分配された者の精神を蝕むという話だった。
しかし、〈バロン〉と〈クイーン〉にそのような兆候は窺えない。
俺の質問に〈バロン〉は苦い顔になって言った。
「それは……我らにはライバルがいたからだろう。〈クイーン〉めといがみ合っているうちは、無明の闇から逃れられるのだ」
「だとしたら、仮にどこかで決着がついていたらヤバかったんじゃないか?」
「うむ……勝った方が闇へと呑み込まれ、不死者の王としてアンデッドの地下帝国を築き上げ、やがては地上――王都モノカンヌスを占拠し、不死者の都へと変えていたであろうな。それこそ、悪神モヌゴェヌェスの望むところであったろうよ」
こいつらが精魂込めて創り上げたアンデッド地上に溢れ出すとか、普通の国なら滅ぶレベルの災害だ。ここに来たのは偶然だが、俺はまたしてもサンタマナ王国の危機を救ってしまったことになる。
「ね、ねぇ、エドガー君……」
不意に声をかけてきたのは、それまで黙ってなりゆきを見守っていたベックだった。
ベックはうずくまって下腹部を押さえていた。
「どうした? 腹が痛いのか?」
ベックは青い顔でコクコクと頷いた。
「何だ、また変なものでも食ったのか? 待っててやるからそこの陰で済ませてこい」
ミゲルが呆れたように言うが、
「ち、ちが……これ……うううっ」
ベックのただごとでない様子に、ドンナが慌てて駆け寄った。
「ほ、本当に苦しそうだよ!?」
俺はベックに駆け寄ってしゃがみこみ、ベックの鎧を外して腹部を見る。
見た感じではとくに異常は見当たらない。
ベックは右下腹部を手で押さえている。
それを見て、ドンナが「あっ」と叫ぶ。
「これは……もしかすると、虫が暴れてるのかも」
「虫……?」
「おじいちゃんに聞いたんだけど、わたしたちのお腹には虫が住んでいて、それが暴れるとすごい痛みに襲われるんだって」
「どうすればいいんだ?」
「うう……勝手に治ることもあるんだけど、酷い時にはそのまま……。
虫下しも、暴れる虫には聞かないって言ってたし……」
ドンナが腰に吊り下げたポーチを漁りながら、焦った声で言う。
ドンナの言葉を聞いて、俺にはピンと来るものがあった。
――それって、盲腸のことなんじゃないか?
「ベック、痛むのは、下腹部の右側なんだな?」
「う、うん……」
俺は【治癒魔法】をかけてみる。が、
「うぅ……」
多少痛みは和らぐようだが、何故か完治させることができなかった。
ひょっとすると……盲腸はもともと身体の一部だから、【治癒魔法】では盲腸を「なくす」ことはできないのかもしれない。盲腸の炎症を収めて元通りにするイメージでもやってみるが、これもうまく効かなかった。もしかしたら、盲腸がもう破れてしまって腹膜炎になりかけているのか?
そこまで病気が進行してしまっていると【治癒魔法】は効きにくい。理由は単純で、治療者が病気の状態を正確にイメージできなくなっていくからだ。切り傷や骨折など原因や状態がイメージしやすいものは治しやすく、がんや白血病などイメージが難しいものは治しにくい。そもそもこの世界ではがんや白血病なんて存在自体が知られてないけどな。
それでも俺の場合は前世知識のおかげでこっちの世界のたいていの治療者よりは具体的なイメージができているはずなのだが、ベックの病態は俺の想像を超えてしまっているようだった。
しかし、まだ打てる手は残されている。
俺の手に負えないなら、専門家のところまで運んでいけばいいのだ。
「アスラ、〈バロン〉と〈クイーン〉をしまってくれ! 〈バロン〉、〈クイーン〉、悪いが残りの話はまた今度だ!」
「承知した」「しかたなかろう」
アスラが両手を〈バロン〉と〈クイーン〉に向かって掲げると、2体の死霊は黒紫の粒子となってアスラの体内に吸い込まれた。
って、なんとなくなし崩しでこの2体をしまってしまったが、地下空洞から連れ出してしまっていいのだろうか。
いや、今はそんなことを考えてる場合じゃない。
「ベックを連れて地上に戻る! 手伝ってくれ!」
俺たちはベックの大盾を即席の担架にしてベックを乗せ、盾の前側をエレミアとドンナが、後ろ側をミゲルが持つという配置でベックを持ち上げる。
なんで俺は盾を持っていないのか。俺には別の役割があるからだ。
「《トンネル》《トンネル》《トンネル》《トンネル》……!」
地下空洞から斜め上に向かって〈エレメンタルマスター〉の土砂操作で即席のトンネルを掘っていく。上りやすいように足元は階段状だ。
俺たちはトンネルを掘りながらほとんど足を止めずに地上までを駆け抜けた。
トンネルの出口はちゃんと地下空洞への入り口である大穴付近になるよう調整してある。
そうしないと、建物の土台を掘り抜いてしまったり、モノカンヌス湖の湖底をぶち抜いてしまったりしかねないからな。
「まぶしっ!」とイッキの誰かが言った。
地上は夕方で、夕日がちょうど俺たちの正面から射し込んでいたのだ。
その夕日の中に、俺は見知った人物を見つけていた。
「シエルさん!」
「おや、エドガー君ですか」
地下空洞へと開いた大穴の縁に、褪せた金髪を空色のスカーフでくくった白銀の鎧姿の女性が立っていた。
何やら真剣な表情で剣や鎧などの装備を確かめているところのようだった。
シエルさんはこれから地下空洞へと潜ろうとしていたのだろう。
「またバッティングですか?」
「いえ、今回は、君たちの帰りが遅いということで、準備をしておくよう言われたんですよ。もっとも、私はエドガー君たちなら大丈夫だろうと思っていたんですけどね」
たしかに俺たちが遭難するような現場に救助へと向かえるのはシエルさんくらいしかいないだろう。
シエルさんは俺の背後――即席の担架にかつがれたベックに目を向けて言った。
「あら? どうしたのですか?」
シエルさんのその言葉で思い出す。
「シエルさん! 【治癒魔法】が使えましたよね?」
「使えますけど……あまり高度なことはできませんよ?」
以前シエルさんのステータスを見た時に、【治癒魔法】を所持していることは確認していた。レベル95の勇者なら、何か俺の知らない対処法を知っているのではないかと思ったのだが、そう都合よくはいかないか。
「ダメか……早く神殿に!」
【身体透視】のできるミリア先輩ならなんとかできるかもしれない。
問題はミリア先輩が神殿にいるかどうかだが……。
「――待って、私に見せてくれませんか? その子の症状はおそらく――」
シエルさんに言われるままにベックを乗せた大盾を地面へ下ろす。
シエルさんはベックの上着をめくり上げると、下腹部を何箇所か触ってベックの反応を確かめていく。
「ああ、やっぱり。これは盲腸ですね。たまに、子どもがなる病気です」
言いながらシエルさんは宙からハンカチを取り出して(さりげなくやったがこれは次元収納だ!)、ベックの口の中へと詰め込んだ。
「ぐううううっ!?」
ベックが苦しげに呻くが、シエルさんは取り合わず、次元収納から今度は薄刃の小さなナイフを取り出した。ナイフの大きさはテーブルナイフと変わらないくらいだ。俺はそのナイフを見て、前世の医療用メスを思い出した。
「このナイフは聖別されたもので、いかなる病原体や雑菌も寄せ付けません」
シエルさんはそう言って、ナイフをベックの下腹部に突き立てた。
「うぐーーーーっ!」
「ち、ちょっと、ベックくんに何するの!?」
悲鳴を上げるベックに、ドンナがシエルさんへと抗議する。
「――説明する時間が惜しいです。黙って見ていてください」
シエルさんがドンナを一瞥して言葉短かにそう言った。
その眼光はさすがの迫力で、ドンナは二の句が継げないようだった。
「……大丈夫そうだ。シエルさんに任せよう」
俺はドンナの手を取ってそう宥める。
ドンナは迷うように俺とベックとシエルさんを見比べていたが、やがて小さく頷いた。
それにしても――
高度なことはできないと言っていたが、前世の医師に勝るとも劣らない熟達した手つきだった。
シエルさんはこれまでにもこうしてたくさんの命を救ってきたのだろう。
俺はこれまで、いい気になっていたのかもしれない。
前世の知識があるからこの世界の生活水準が低く見えるのはしかたがない。
でも、俺はそこで止まっていた。
この世界の人々だって、必死に生活をよくしょうと努力してるはずなんだ。
そのことに、もっと注意を払うべきだし、敬意を持つべきだ。
シエルさんはベックの腹部から盲腸を取り除くと、開口部を手で押さえながら【治癒魔法】をかける。傷が徐々に塞がっていくのと同時に、ベックの様子も落ち着いてきた。
「助かりました、シエルさん」
ほっと息を吐き、ゆっくりと立ち上がるシエルさんに、俺は感謝の言葉を口にする。
「いえいえ、お気になさらず。治療費もいりませんから、ご心配なく」
普通、高名な治癒術師に治療を頼むと相当額の治療費を請求される。
この世界には健康保険なんてないので当然のように全額自己負担だ。
シエルさんの今やってのけた「手術」はこの世界では最高水準の医療だろう。それなのに、治療費はいらないというのだ。
「父に頼んで、何とか建て替えてもらうことも……」
「エドガー君。しっかり者なのはけっこうですけど、子どもが大人にそういうことを言うのはよくないですよ?」
申し出た俺を遮り、シエルさんが言った。
「ただ、無料でこういうことをやったことが広まると、本職の治癒術師たちに嫌われますから、黙っていてくださいね?」
シエルさんはそう言うといたずらっぽく微笑んだ。
元が美人だけに破壊力抜群だ。現に、命を救われたベックのみならず、おろおろしながら見守っていたミゲルまでもがぽけーっとシエルさんに見惚れてしまっている。
……あるじゃないか、女子力。
「それにしても、どこでこんな高度な治療技術を? ……あ、もちろん秘密なら聞きませんけど」
俺が感嘆を込めてそう聞くと、シエルさんはにっこり笑ってこう言った。
「旅をしていると、たまにいるんです。盲腸になる人が。そういう人を助けてあげると、もう女神様扱いですよ。エドガー君も、イケメンが盲腸で苦しんでいるのを見かけたら、私に教えて下さいね?」
……あいかわらずシエルさんの腹は真っ黒だった。
ちょっとでも感心した俺が馬鹿だったよ。
なお、後日国王陛下に確認したところ、王族用の緊急脱出路の有無については答えられないが、新市街へと抜ける通路は存在しない、との回答を得た。
つまり、再び、捜査はふりだしに戻ることになったのである。
次話>2日後
新連載はじめました。
『G.A.T.~花園の乙女たちの憧れる青薔薇の君は、とんでもない人外でした~』という作品です。併せてお読みいただければさいわいです。
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