第1話「流浪のシーフ」
夕暮れのレイヴェルには、一日の名残があちこちに残っていた。
石畳は昼の熱をまだ抱えている。店先では商人たちが天幕を畳み、売れ残った野菜を木箱へ戻していた。街中の夕げの香りに混じって、鍛冶場から響く最後の金槌の音が、古い街並みを震わせている。
晴れた日には海の向こうに山の影が見える。
街の中央には、巨大な騎士の像が立っていた。
両手に掲げた大剣は家々の屋根よりも高く、夕日を受けた刃が、赤く染まった街を静かに見下ろしている。像の足元では露店が店じまいを始め、待ち合わせの若者たちが笑い合い、その傍らを仕事帰りの職人が通り過ぎていく。
誰を模して造られたのか、今では正確に知る者も少ない。それでも騎士像は、朝に店を開く者も、夜になって街を去る旅人も、ずっと昔から変わらず見守ってきた。
交易都市と呼ばれるだけあって、人の出入りは多い。荷馬車も旅人も、誰がどこから来て、どこへ消えたのかまでは誰も気にしなかった。
一人旅の若いシーフにとって、それは都合のよい街だった。
親代わりの師匠と喧嘩別れし、一人で旅を始めてから、二か月になる。
最初のうちは、すぐに追いかけてくると思っていた。
一週間経っても来なかった。二週間経っても来なかった。
ひと月を越えた頃には、意地でもこちらから探すものかと思った。
そうしているうちに、二か月が過ぎた。
一人で知らない街を歩くことにも、ようやく慣れてきた。
懐には、小さな革袋が入っていた。
昼間、市場で分銅をすり替えていた商人から抜き取ったものだ。中身は金貨が数枚。男が騙し取っていた額には及ばないが、今夜の食事と宿代には十分だった。
『悪人以外からは盗むな』
『困っている奴を見つけたら、金貨の一枚くらい置いてこい』
師匠が酒臭い息で何度も繰り返していた教えである。本人がどこまで守っていたのかは怪しかったが、少なくとも弟子は律儀に守っていた。
今夜は根菜のスープに肉を追加できる。
そんなことを考えながら広場へ差しかかったところで、人の流れが不自然に割れた。
誰かが道を譲ったのではない。
押し退けられたのだ。
鎧を着た男たちが、群衆の間を進んでくる。胸当てにはレイヴェルの紋章。街の警備隊だった。
その中央で、一人の少女が引きずられている。
十五、六歳ほどだろう。傷んだ服の袖から伸びた細い両腕を、縄で後ろに縛られていた。頬には赤く腫れた跡がある。
「違います……私は盗んでません……!」
少女は足をもつれさせながら訴えた。
先頭を歩く隊長格の男が振り返り、鼻で笑う。
「まだ言うか」
「本当に、何も……!」
「証拠ならある」
男が掲げたのは、金貨の入った財布だった。
使い込まれた少女の服には不釣り合いな、上等な革製だ。口を縛る紐には銀色の飾りまで付いている。
少女の顔から血の気が引いた。
「それ……私のじゃ……」
乾いた音が広場へ響いた。
男が少女の頬を平手で打ったのだ。
少女の身体が傾く。隣にいた警備兵が縄を引き、倒れることさえ許さない。
周囲には、何十人もの人間がいた。
市場の商人。買い物帰りの女。仕事を終えた職人。荷車を引く老人。
誰も何も言わない。
見ていなかったふりをして、足早に立ち去ろうとする者もいる。けれど、誰もがあまりに手慣れていた。
この光景を初めて見た者たちの反応ではない。
若いシーフは足を止めた。
警備隊長の剣は、街の警備兵が持つには少々飾りが多かった。鎧もよく磨かれている。袖口には銀糸で鷺をかたどった刺繍があった。
市場へ来る途中、同じ紋章を掲げた商館を見ている。
白鷺商会。
レイヴェルでも指折りの大商会だったはずだ。
少女が持っていたという財布にも、同じ銀色の鷺が刻まれていた。
偶然と呼ぶには、少し出来すぎている。
少女が顔を上げた。
目が合う。
涙は浮かんでいたが、助けを求める目ではなかった。
来ないで。
巻き込まれないで。
そう言われた気がした。
若いシーフが目を細めた、そのときだった。
「邪魔だ」
後ろから来た警備兵が、わざとらしく肩をぶつけてきた。
身体が揺れる。
懐へ入れていた革袋が、石畳へ落ちた。
口がほどけ、金貨が散らばる。
甲高い音が広場に連なった。
警備隊長がゆっくりと振り返った。
「……ほう」
少女を連行していた警備兵たちが足を止める。
隊長は石畳の金貨を一枚拾い、若いシーフの顔と見比べた。その口元に、獲物を見つけたような笑みが浮かぶ。
「盗人が、もう一匹いたか」
群衆の視線が集まった。
逃げるのは難しくない。
広場から伸びる路地は五本。うち二本は警備兵の背後だが、残る三本は空いている。人混みへ紛れれば、重い鎧を着た男たちでは追いつけない。
金貨を諦めれば、それで済む。
少女は連れていかれる。
おそらく、二度とこの広場へ戻ってはこない。
師匠ならどうするだろう。
考えかけて、やめた。
あの飲んだくれなら、もっと上手くやる。誰にも見つからず、少女の縄も、証拠の財布も、ついでに隊長の身ぐるみまで剥がして消えるかもしれない。
だが、彼はその『師匠』ではなかった。
同じやり方をする理由もない。
若いシーフは散らばった金貨を拾わず、広場を見回した。
「なぜこんな悪を許すんだ?!」
声が石造りの建物にぶつかり、広場へ返ってきた。
店じまいをしていた商人の手が止まる。
パン屋の主人が顔を上げる。
子どもの手を引いていた母親は、我が子を背中へ隠した。
誰も答えなかった。
「……悪?」
警備隊長が肩を揺らした。
「聞いたか、お前たち。盗人が正義を語るそうだ」
警備兵たちが笑う。
群衆からも、遅れて笑い声が上がった。
だが、面白がっている者は一人もいない。隊長に見られた者が慌てて口元を歪め、その隣の者も真似をしただけだ。
笑わなければ、次に縄を掛けられるのは自分かもしれない。
そんな恐怖が透けて見えた。
隊長は拾った金貨を高く掲げる。
「証拠はここにある! この男も、この娘も盗人だ! 都市の秩序を乱す者には裁きを与えねばならん!」
「その子は盗んでない」
広場の端から、かすれた声がした。
古びた荷車を引いた老人だった。
隊長の目が細くなる。
老人は一度視線を落とした。それでも、荷車の持ち手から手を離さなかった。
「その子は、市場で毎日働いていた。盗みなんかする子じゃない」
「老人」
隊長の声から笑みが消えた。
「口を慎め」
老人の肩がわずかに縮む。
今度は魚屋の前にいた青年が声を上げた。
「俺も見たぞ。あんたがその財布を――」
警備兵が槍の石突きで石畳を叩いた。
大きな音に、青年は口を閉ざす。
魚を並べた桶の水面が細かく震えていた。
若いシーフはようやく理解した。
ここの人々は、黙っているのではない。
黙らされている。
乾いた音が三度、広場に響いた。
一人の旅人が拍手をしていた。
噴水の縁へ腰を預け、面白そうにこちらを見ている。二十代半ばに差しかかる頃だろうか。
大柄な男だった。日に焼けた顔と使い込まれた旅装束。背中には、見栄を張っているとしか思えないほど大きな剣を背負っている。
「面白い」
旅の剣士は警備隊長ではなく、若いシーフへ言った。
「この街で、それを大声で言える奴がまだ残ってたとはな」
「旅人。余計な口を挟むな」
「別に、助けるなんて言ってないさ」
男は肩をすくめた。
「ただ、この続きをどうするのか、少し興味が湧いた」
勝手な男だ。
だが、その視線には警備隊への恐れがなかった。
隊長は剣の柄へ手を置いた。
「最後に聞こう。抵抗するか。それとも、おとなしく縄につくか」
兵士たちが広がり、若いシーフを半円状に囲む。
槍を持つ者が四人。剣が三人。後ろには弓を背負った兵士が一人。全員の腰に短剣がある。
握り方も立ち位置もばらばらだった。日頃から訓練しているというより、武器を持っていることに安心している連中だ。
若いシーフは一人ずつ観察した。
右端の兵士は緊張からか槍を強く握りすぎている。
その隣は、剣帯の留め金を最後まで押し込んでいない。太っているせいで腹が邪魔になるのだろう。
弓兵の視線は、こちらではなく隊長へ向いている。命令がなければ何もできない。
隊長自身は剣の柄へ手を置いているが、親指が鍔の下に入っていた。抜く動作へ移るまでに、一呼吸かかる。
師匠に仕込まれたのは、指先の速さだけではない。
人が何を見ているのか。
何を守ろうとしているのか。
どの瞬間に、手の中の重さへ意識が向かなくなるのか。
盗む前に見るべきものは、品物ではなく持ち主だ。
「どっちも嫌だな」
「何?」
「もう一つの選択肢だよ」
若いシーフは少女を指した。
「その少女を解放してもらう」
一瞬遅れて、隊長が吹き出した。
「たった一人で我々に歯向かうつもりか!」
兵士たちの注意が、笑う隊長へ向いた。
その瞬間、若いシーフは動いた。
最初の一歩で、右端の兵士との距離を詰める。
槍を奪おうとして引けば、相手も引き返す。だから握った手には触れない。穂先の重みでわずかに傾いていた槍。その石突きを足の甲で跳ね上げ、兵士が反射的に手を緩めたところへ指を滑り込ませる。
槍は抵抗もなく持ち主の手から抜けた。
「なっ――」
奪った槍の柄を、隣の兵士の手首へ軽く当てる。
痛みを与えるためではない。握る場所をずらすためだ。
二本目の槍が石畳へ落ちる。その柄を踵で踏み、転がしながら三人目の足元へ送った。
兵士が避ける。
開いた場所をすり抜けざま、剣帯の留め金へ指を掛けた。
外す。
抜く。
背後へ滑らせる。
たったそれだけの動作を、歩調を崩さず続けた。
「捕らえろ!」
隊長の命令は遅かった。
誰もが若いシーフの両手を見ている。
だから足元を使う。
槍を踏めば柄が跳ねる。跳ねた柄を肩で受け、回転させれば、別の兵士が突き出した槍へ絡みつく。慌てて引こうとした兵士が、自分から武器を手放した。
前へ進むふりをして、横へ抜ける。
左へ身体を傾けながら、右側の剣を取る。
背後を通り過ぎる短い間に、弓の肩紐を外す。
目の前の一人に集中した者は、その隣にいる人間の動きを見ていない。
師匠の荷物を持たされて鍛えられた脚は、重い武器を抱えても鈍らなかった。奪った剣と槍を広場の中央へ放り、空いた両手で次を取る。
切らない。
殴らない。
ただ、奪う。
何が起きているのか理解できないまま、兵士たちは空になった腰や手元を見つめた。
最後に残ったのは隊長だった。
男はようやく剣を抜こうとしていた。
若いシーフは正面から近づき、柄を握る隊長の手へ自分の手を重ねた。
「な、何を――」
剣を鞘ごと持ち上げる。
剣帯の金具は、すでに外してあった。
いつ外されたのか分からないまま、隊長の腰から鞘が離れる。
若いシーフはその剣を肩越しに放った。
積み上がった武器の山へ落ち、大きな金属音を立てる。
広場から、音が消えた。
槍も、剣も、弓もない。
警備兵たちは全員、空になった手を握ったまま立ち尽くしている。腰へ忍ばせていた短剣まで、いつの間にか武器の山へ加わっていた。
旅の剣士が口笛を吹いた。
「今の、全部見えた奴はいるか?」
誰も答えなかった。
若いシーフは警備隊長の剣を踏まないよう、一歩だけ横へずれた。
「奪われる側の気持ち、少しは分かったか?」
どこかで、小さな笑いが漏れた。
すぐに別の誰かが笑う。
それは先ほどまでの愛想笑いではなかった。
恐怖に押し込められていたものが、ほんの少しだけ外へこぼれた笑いだった。
警備隊長の顔が赤く染まる。
だが、もう誰も顔を伏せてはいなかった。
名も知られていない一人のシーフが武器を奪ったことで、長く広場を縛っていた沈黙に、初めてひびが入っていた。




