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Chapter 1: bool( ) 1‐1

僕の目標はね、ラプラスの悪魔になることなんですよ。                       もちろん量子力学がそれを否定しているのは承知していますよ。

でもね、確率論的に詰めていけば、限りなく近づけるはずなんです。


                     【ザ・ネクスト 小田川翔吾 インタビューより】


                     1‐1

「おいカズ、生きてるか」

 薄っぺらいスチールドアから、乱暴なノック音が響いてくる。

「おい、いるんだろ、早く出てこいよ」

 面倒くさいから居留守を使おうかと思った。しかしこのままだと、間違いなく隣のバカカップルが、てめえらの騒音は棚に上げて文句を言ってくる。和希は仕方なくベッドから抜け出して立ち上がった。カーテンが閉まったままの部屋は薄暗い。脱ぎ捨てられた服やコンビニ弁当の容器を、足で蹴散らしながらドアへたどり着いた。鍵を開け、ドアを開く。

「おいっ、もたもたしてんじゃねえ。早く行くぞ」

 潤一が焦った顔でドアノブを掴んだ右手を引っ張りにかかった。

「おいおい、ちょっと待てよ」

 つんのめりながら、ドア枠を右手で掴んで体を支えた。

「早く行かないと、ポリ公にやられちまうんだよ」

「待てって言ってるだろ。まず質問。お前はどこへ行きたいんだ?」

「駅前銀座」

「何をしに行く」

「撮影だよ。あそこで熊が出たって、フォロワーからDMがあったんだ」

「アホか」

 和希が手を振り払い、ドアを閉めようする。潤一が慌てて隙間に足を突っ込んだ。

「ちょっと待て、考えてみろよ。凄いチャンスなんだぜ。熊が商店街で暴れている映像を公開すれば、間違いなくバズる。そうだろ」

「て言うか、こんな街中に熊がいるわけねーだろ」

「そうかもしんないけど、すぐそこじゃんか」

「そういう問題じゃない」

「頼むよ。熊と俺が一緒に映ってる動画を撮りたいんだ。自撮りだと難しいだろ」

「そうだろうな」

「だったら決まりだ。早く行こうぜ」

 和希はため息をついた。「わかったよ」

「さあ行こう」

 潤一がぐいと腕を引っ張る。

「ちょっと待て、俺をこんな格好で行かせようとするのか」

 和希はよれよれのスウェットをつまんで見せた。「髭だって剃ってないし」

「大丈夫。駅前銀座だったら似たような奴はいくらでもいるし。どうせ帽子とマスクはしていくんだろ」

「まあな」

「じゃあ決まりだ。早く行こうぜ」

 和希は黒のスタジャンを羽織って帽子とマスクをすると、汚れが目立つ白いスニーカーを履いて外へ出た。日差しがまぶしくて目を瞬く。

 和希と潤一はママチャリにまたがって、ペダルを漕ぎ始めた。風は温かいと言うよりも熱い。背中から汗が滲み始めていた。スタジャンは余計だった。そういえば、この一ヶ月、昼間に外へ出ていなかったので、季節の感覚をなくしていたんだと思う。赤信号のさつき通りを突っ切り、駅前銀座のアーケードへむかった。

「おい、熊みたいのがいるから逃げろよ」

 正面から走ってきた中年の男が、すれ違い様に目を血走らせながら和希たちに叫んだ。

「マジか?」

 潤一がぎょっとした顔で和希を見た。

「お前がビビってどうすんだよ」

「ビビってなんかいねえよ。行くぞ」

 潤一がむっとした顔をして前のめりになり、腰を上げてペダルを強く踏み込んだ。

 アーケードの中に入り、交差点の真ん中で通りの前後を見回す。平日の午後ではあっても、多少の人通りはあるのだが、今日は誰もいない。

「おおい、あんたたち。熊が出たっていうから逃げなよ」

 二階の窓から、白髪頭のおばあさんが顔を覗かせ、和希たちに叫んだ。

「ねえ、その熊ってどこに行ったんだよ」

「あたしが知るわけないだろ」

「最初に騒いだのはどこなのさ」

「踏切の方に行ったところ。人が襲われたみたいだからね、絶対近づいちゃいけないよ」

 潤一は「はーい」と言いながらも、ママチャリから降りて、踏切方面へ向かって歩き出した。

「カズ、行くぞ」

「マジか? ほんとだったら熊に食われるぞ」

「大丈夫、俺たち逃げ足だけは早いじゃねえか」

「熊って、人間の足よりレベチで早いって言うじゃねえかよ」

「えっ、そうなんだ」

「そうなんだじゃねえよ」

「ま、取りあえず動画撮ろうぜ。和希、撮影してくれ」

 潤一が自分のスマホを和希に渡した。アイフォーンの最新機種。一ヶ月のバイト代より高かったが「トップユーチューバーになるんだったらこれくらい持ってないとな」なんてこと言って分割で購入した。

 和希はカメラを起動させて潤一に向けた。

「はいっ。ユーチューバーのジュンちゃんです。今日は清水駅前銀座に来ています。なんと、ここに熊が現われたっていう情報をキャッチしてリポートします。行っちゃいましょう」

 潤一が歩き出す。和希はその姿を横から映していく。

「あれ?……何だろう」

 潤一が指差す。和希は指差し方向へカメラを向ける。そこにはアルミサッシのガラスが派手に割れている店があった。上に看板があり、ポップなフォントで「パソコンリサイクルショップ アイカワ」と書いてあった。

「こんにちわー」潤一は中をのぞき込む。「棚が倒れて、パソコンやモニターが床へ落ちちゃっていますねー」

 店の中にはいくつもスチールの棚が横に並べてあったが、中央の二つが隣の棚に倒れ、V字型になっている。

「これってさ、でかい奴が棚を倒して通ったみたいだな」

「熊が店の中に突っ込んできたのか?」

「じゃなくて、店から飛び出してきたんじゃね? だって、サッシのガラスが外に飛び散ってるだろ」

「あ、そうか。じゃあ外にいるかもしれないな」

 潤一は店の向かい側に目を向けた。そこは駐車場で、二人の制服警官がかがみ込んでいた。足元には人が倒れている。警官の一人が和希たちに気づき、立ち上がった。

「おいっ、そんなところで何をしている。危険だからここから立ち去りなさい」

 警官がつかつかと和希たちへ近づいて来た。

「あの、ここで熊が出てきたって聞いたんですけど、ホントですか?」

 潤一は緊張した顔で自分を睨み付けている警官に躊躇することもなく、笑顔で問いかけた。

「まだ何もわかっていないんだ。それに、そのカメラは何だっ。人が死んでいるんだぞ。すぐ撮影をやめろ」

 声を震わせながら話す警官に和希はさすがに怖じ気づいたが、潤一は全く気にする様子はない。

「お巡りさん、状況を教えてくださいよ」

 警官の目つきが変わった。頬をこわばらせ、緊張を帯び始めた。腰に手を遣り、何か黒い物を取りだすと、それを和希たちに向けた。一瞬何をしているのか理解できなかったが、ようやくそれが拳銃であることに気づいた。

「お巡りさん……俺達を撃つんですか?」

 潤一のヘラヘラした態度に怒って、警官が俺達に発砲しようとしている?

「そうじゃない。お前ら……ゆっくりと動け。背後に熊がいる」

「へ……」

 よく見ると、警官の視点は和希たちの背後を見ていた。釣られて振り向く。

 店の奥。蛍光灯が照らす中、それはいた。黒い鼻と焦げ茶色の毛に覆われた口吻、真っ黒な目。四つの足を床につけているにもかかわらず、背中は和希の背丈よりも高い、両肩が小山のように盛り上がり、天井の蛍光灯に届きそうな勢いだ。

 熊だ。

「デカい……」

 潤一が口をぽかんと開け、呆気にとられて見つめていた。

 熊が一歩踏み出し、脚の下で倒れた棚がミシリと音を立てた。

「グオォォォッ」

 熊が乳白色の禍々しい牙をむき出しにして吠えた。

 警官が和希たちの間に割って入った。

 発砲する。

 爆竹のような乾いた音が耳元で響いた。

「グオッ」

 熊は苦しげに鳴いたが、倒れる様子はない。

 警官は続けて五回発砲したが。その後はカチリと音がするだけだった。弾が尽きたのだ。熊はのけぞるような素振りを見せたものの、まだ倒れない。

「グオォッ、グオォッ、グオォッ」

 逆に興奮したように、首を振り回しながら雄叫びを上げた。

 熊が動き出す。

 高波のような圧倒的な迫力で、足がすくむ。

「逃げろっ」

 警官が背を向けて走り出す。

 その後ろから、熊が覆い被さってくる。

「ああっ」

 熊の下でくぐもった悲鳴が上がった。

 熊が体を起こす。和希の身長を軽々と超える高さだ。動物と言うより、山が動いていると思った方がしっくりとくる。頭から血が噴き出して、毛が赤黒く濡れていた。

「グオォォォッ」

 熊が吠えた。その目は警官でも潤一でもなく、和希を見据えている。逃げようと思って後ずさりしたが、脚をもつれさせて転んだ。

「グオォォォッ」

 全身から殺気を発散させ、怒りに満ちた目で和希を見下ろしている。

 殺される。

 そう思ったとき、

 バンッ、バンッ。

 再び発砲音がした。もう一人の警官が、駐車場側から発砲してきた。

 熊の頭から血が飛び散り、首が傾いだ。

 熊から漲る迫力が消え、力が抜けるようにしてうつ伏せに倒れた。

「死んだか?」

 熊の背後から、潤一が恐る恐る声を掛けてきた。和希は熊をのぞき込んだ。

 まだ、生気を保った目をしていた。

 目が合う。

 殺気が戻ってきた。四つの脚で立ち上がり、和希に向かって動き出した。和希は地面に尻をつけたまま、体がこわばって動けない。

 上から右脚が振り下ろされ、和希の胸を上から押し倒す。

「ゲッ……」

 肺が押し潰され、息ができなくなる。

「グオォォォォォッッ」

 ひときわ長い雄叫びが耳に響く。

 動けない。

 殺される。殺される。

 単語がリフレインされるだけで、どうやれば逃げられるのか思考が湧いてこない。

 頭の中が真っ白になる。


 気がついたとき、和希はベッドで寝ていた。天井から柔らかな色の光が照らしている。ヘッドボードは焦げ茶の木製で、部屋の壁はクリーム色。壁の半分を占める大きな窓からは青い空が見えた。最初、ホテルに連れてこられたのかと思っていたが、右腕は点滴スタンドとチューブで繋がっている。

 今までの記憶が甦ってきた。巨大な熊が自分にのしかかってくる。息ができないほどの圧迫感。噛みつかれそうになった時、パンパンという発砲音。

「お目覚めですか」

 声でようやく自分以外に人がいるのに気づいた。紺のスーツに緑のネクタイ、度の強いメタルフレームの眼鏡を掛けた、顔の起伏が乏しいのっぺりとした顔をした男。ベージュの一人掛けソファに、背筋をピンと伸ばして座っている。

「ここは陽公会なのか? 救急病院に運ばれたと思っていたんだが」

「その通りです。当初清水区内の病院へ収容されましたが、当会弁護士の要請を受けてここへの転院が認められました」

「で、あんたはわざわざ東京から来たってわけか」

「いいタイミングで静岡へ停まるひかりを予約できまして。理事長からご指示をいただいてから二時間弱で現場に到着できました」

 男は和希の皮肉をスルーして立ち上がると、内線電話を手に取り、誰かと話をした。程なくして男性医師と女性の看護師が現れて診察をはじめた。

「身体的な異常は認められませんが、頭を打っている可能性がありますので、もう少し様子を見ましょうか?」

「いや、すぐに退院するよ」

 医師がスーツの男をチラリと見た。男が頷く。

「承知しました。すぐに退院の手続きに入ります」

 看護師が手際よく点滴を外し、二人は退室した。

「さて、退院する前に理事長とお話をしていただきます」

「ちょっと待ってくれ、そもそもどうして俺が熊に襲われたって知ったんだ?」

「まだ陽公会の保険証をお持ちですよね」

「ああ……」

「警察が和希様のマイナカードを調べまして、陽公会の保険証として登録されているのを知ったそうです。疑問に思った警察が、我々に連絡してきたという次第です」

「熊はどうなったんだ?」

「現在は行方不明になっています。熊が和希さんへのしかかったとき、警官が熊の頭に残りの銃弾を撃ち込んで、たまらず逃げたそうです。本当に危ないところでした」

 スーツの男が机の上に置いてあるタブレットを手に取って操作を始めた。

「理事長、和希様が意識を取り戻しました」

 そう呼びかけて、タブレットを和希に渡す。画面に、しかめっ面をした白髪頭の男が映し出されていた。眼光鋭く和希を見つめてくる。

「一体お前は何をやっているんだ。殺されかけたそうじゃないか」

「はい……」

「先日の炎上騒ぎといい、そんなところへいてもろくなことがない。そろそろ私のところへ戻ってきたらどうなんだ」

「それはあり得ません。俺はあんたの世話になるつもりはないです」

 白髪頭の男は小さくため息を吐いた。「例の件に関しては私も反省している。もうあんなことは起きない。約束しよう」

 それはもう少し上手くやるという意味じゃないのか。そんな言葉が口から吐き出されそうになるのを辛うじて押さえた。「悪いけどその言葉、俺は信頼できません」

「これからの生活はどうするんだ。あの騒ぎ以来、アパートに引きこもっているそうじゃないか。そろそろ金も尽きている頃じゃないのか?」

「俺が働いていないなんて、よく調べていますね」

「当然だ。お前はお前の親父さんから預かった大切な子供だ」

「だからといって、人の家に盗聴機を仕掛けていいってことはないでしょ」

 初老の男は顔をしかめる。「だからあれは探偵が勝手にやったことだ」

 和希がまだ高校生だった頃、一人で住んでいた自宅アパートに盗聴機が仕掛けられていたことがあった。ある日部屋を訪れた潤一が、スマホを充電しようとコンセントをチェックしたところ、変だと言いだした。解体してみたら盗聴機だった。訳がわからないまま盗聴機を破壊した。その後部屋に監視カメラを仕掛けていたところ、学校へ行っている間に男が侵入している様子が映し出された。早速後の周辺を探すと、車に乗っていた容姿の似ていた男を発見した。男を車から引っ張り出して、警察へ通報した。

 取り調べで判明した依頼人が、現在画面越しで和希を睨んでいる男、八田義高だった。義高は和希唯一の肉親だ。目の前にいる男――義高の秘書である平本俊文――の説得もあり、結局和希は被害届を取り下げた。

「ネットに広がった画像とお前の実名は、弁護士を使って削除している。そのうちほとんどの奴らは気にしなくなる。ただな、近所じゃそうはいかないぞ。お前の顔を見れば、『あの迷惑動画の男だ』という話になる」

 義高の表情がわずかに緩んだ。

「どうだ、そろそろ東京に戻らないか。もちろんお前は成人したから、とやかく指示できる立場ではない。だが、東京なら私が仕事を紹介できるし、大学へ進学してもいい。もちろん学費は私が払う」

 和希は画面を見つめながら押し黙った。正直迷っていた。貯金は既に三桁まで減っていたので、このままでは五日後に迫った家賃の引き落としは出来ない。

「ちょっと考えさせてください」

「わかった。決心がついたら平本へ電話をしろ。お前の望み通りの進路を手配する」

 和希は頷き、タブレットを平本に返した。平本が「失礼します」と言って通信を切る。和希はベッドから出て立ち上がったが、特に痛みやふらつきはなかった。

「俺の服はどうしたんだ」

「現在クリーニングに出しています。熊の血が付着していますので、一週間ほどかかるそうです。できあがった服は和希様のアパートへ届くよう手配しております」

「じゃあ俺は、この寝間着みたいな服で出て行かなきゃならないのか?」

 和希は薄い青色のガウン姿だ。

「それは病院へ返却していただきます。和希様の服は私が見繕いました。包装したままで申し訳ありません」

 平本は机に置いてあった松坂屋の紙袋を開き始めた。

「あ、俺がやるよ」

 和希は平本を押しのけるようにして紙袋に手を突っ込んで服を取り出す。ブルーのパーカーとスウェットパンツにTシャツ、トランクス、靴下、白のスニーカー。スニーカーはエコー、パーカーとスウェットにはポロの刺繍が入っていた。パチもんでなければ、これだけでアパートの家賃を払ってもおつりが出る値段だ。無論、平本がパチもんを買うはずがない。

「これを俺に着ろというのか」

「はい。費用はすべて理事長が負担いたします。私の視線が気になるようでしたら一旦退室しますが」

「別にいいよ」

 こんな物いらねえと啖呵を切れない自分が情けなかった。和希はガウンを脱いで裸になり、服を着替えた。靴も服も気持ち悪いくらいぴったりだった。

「和希様の好みがわかりかねましたので、さっきまで着ていた服をベースに見繕いさせていただきました。気に入っていただけましたか」

「ああ」和希は投げやりに頷く。

 別段手続きをすることもなくロビーへ出た。入院費用も義高が支払うという。いくらかかるか知らないが、ベッド代だけでちょとしたホテル並みの料金なのは間違いない。今の和希には到底支払える額ではないが、義高が勝手に入院させたんだから、奴が支払って当然だと自分で納得させる。

「ご自宅へ帰るため、タクシーをお呼びしましょう」

「やめてくれ。タクシー代なんて無いからバスで帰るよ」

「失礼しました。バスなら正面玄関を出て南へ三十メートルほど歩いたところにございます。今から出れば、十分後に静岡駅へ行く便に間に合います」

 和希に向かって深々とお辞儀をする平本に、怒りとやるせなさの入り交じった感情を抱きながら病院を出た。平本の言うとおり、南へ向かうとバスの停留所があった。バスの運賃はいくらになるんだと思う。財布には千円札があったはずなので、運賃分はあると思うが、所持金は半減する。一応金が入っているか財布を改めると、記憶にない一万札が二枚入っていた。和希はため息をついてポケットに財布を戻した。バスが来たので乗り込む。

 歩道側の席に座り、携帯電話を取りだしてSNSをチェックした。潤一からは何のメッセージも来ていなかった。奴は何をしているんだと思いながら「今どうしてる? 俺はこれから家に帰る」と送信した。時刻は午後三時半。潤一に連れて行かれたのが午前十時過ぎだから、事件からから五時間以上経過していた。スマホをポケットに戻し、流れていく風景をぼんやり眺めていた。家賃より高い服を着て、来週払う家賃に悩んでいる自分があまりに間抜けで涙が出そうになる。

 JR静岡駅で電車に乗り、清水駅で降りる。駅の一階にあるウエルシアでパンのある棚へ行った。二割引きのものを選んだら、全部甘ったるい菓子パンになってしまった。財布の中の万札が頭をよぎり、ジャムパンを戻し、正価のツナマヨパンをカゴに入れる。

 事件があった駅前銀座の一角は、警察によって封鎖されていた。ブルーシートをかけてあるので、現場は見えない。それでも野次馬が隙間から中をのぞき込もうして規制線の前には人だかりが出来ていた。熊が襲ってくる光景がフラッシュバックし、吐き気を覚えた。来るんじゃなかったと思い、さつき通りへ出た。信号待ちで携帯電話をチェックすると、潤一から返信が来ていた。

――今、警察から出てきた。無駄にみんなを危険にさらしたってエライ怒られた。ゲキ疲れ――

 俺は病院から出てアパートに戻るところだと返信して歩き出す。アパートについて部屋に入った。犯行現場を見てから食欲が一気に消えたので、パンはレジ袋ごとゴミの上に放り投げた。パーカーとスウェットを脱ぎ、こいつをメルカリで売って家賃の支払いに充てようかと真剣に考えた。

 正直プライドがチクチク痛んだが、背に腹は代えられない。取りあえずいくらで売っているかネットを開いた。売っちまうか、いやそんな恥ずかしいことは出来ない。あれこれ考えていたら、頭が膿んできた。気分転換しようとSNSを開いたら、いきなりタイムラインの冒頭で、熊が現れた現場の画像が連発で出てきた。吐き気がしてきて一旦閉じたが、そう言えばあの事件は何だったんだと思い、駅前銀座の事件を探して読んだ。


「静岡市で熊が現れ、男性が殺害される」

 十五日昼、静岡市清水区の商店街で熊が現れ、襲われた男性が一人死亡しました。被害者は同区に住む相川輝之さん五十一歳。相川さんが経営する中古パソコンショップに熊が侵入しました。相川さんは店外に逃げ出しましたが、追いかけてきた熊に捕まり、首を噛まれました。死因は出血性ショック死です。住民の通報を受け、近くの交番から駆けつけた警官が発砲しましたが、熊は逃走し、現在警察が行方を追っています。

 現場はJR清水駅近くの商業地域で、熊が生息するような森林はありません。また、防犯カメラの画像からみて、熊はヒグマと見られます。本州にヒグマは生息しないことから、警察では人が密かに飼育していた個体が逃げ出したのではないかと見て、捜索を進めています。


 俺も殺される寸前だったんだなと改めて意識し、肝を冷やした。そのまま漫然とネットをチェックしていると、どっと疲れが襲ってきた。眠くなり、そのまま寝てしまった。

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