第三面 契約結婚
身支度を終えた美晴を別の部屋へ案内すると、苑寿と刀喰はお辞儀をして去っていった。
面妖、領域、伴侶。
頭の中で、同じ言葉が繰り返し浮かんでくる。
どうしてこうなったのか分からない。あと一年足らずで、美晴は叔父夫婦の家を出て、自由の身になるはずだった。
会ったこともない祖母に誘拐同然で連れて来られたり、無理やり政略結婚を迫られたり。何とか逃げ出せたと思ったら、命の恩人からも結婚の話をされたりと──たった一日の間に、普通ならあり得ないようなことが度重なっている。
逃げてばかりの人生だ。いや、逃げようと頑張ってきた。
叔父夫婦やその息子。今となっては祖母や、顔も知らない結婚相手からも、美晴は逃げようとしている。
それでも、神夜からだけは──なぜか逃げてはいけないような気がしていた。
それは、神夜がただ巻き込まれただけの被害者で、美晴の命を救ってくれた恩人だからなのか。それとも、もっと別の理由があるのか。美晴には、判断できずにいた。
「その着物、似合ってるね」
「……っ!?」
驚きすぎると、声が出なくなるらしい。
破裂しそうな心臓を押さえながら、美晴は気配もなく現れた神夜を見て、口をぱくぱくさせている。
「驚かせちゃった?」
お面越しに、神夜がくすりと笑う声が聞こえた。
裏山で出会った時の白い狐面とは違い、今の神夜は黒い狐のお面をしている。
「あ……えっと……」
返事をしなければと思うのに、美晴の口からは意味のない音ばかりが漏れていく。
早く早くと焦るたび、美晴は余計に話せなくなっていった。
「……ごめんなさい」
「なんで謝るの?」
「……私が愚図で、のろまだから……」
神夜が黙ったことで、二人の間に沈黙が流れる。
お面をしているため、神夜がどんな表情をしているのか知ることはできない。
それがいっそう、美晴の不安を掻き立てた。
「ごっ……ごめんなさ……」
「はい、ちゅうもーく」
真っ青になった美晴が、ひたすら謝罪を口にしようとした時だった。
美晴の前に、狐のお面が差し出される。
「……え? あの……」
反射的に受け取った美晴が意図を問うよりも早く、神夜がお面を隠すように手をかざした。
「わあ……!」
一瞬で、お面の模様が花柄になった。
黒から白に変わったお面の上には、美晴の目と同じ山吹色の花が描かれている。
「すごい! どうやって変えたの!?」
美晴の頬に赤みがさす。
思わず顔を上げた美晴の視界に、微笑む神夜の姿が映った。
「あ……」
「凄いでしょ〜。僕って器用だからさ、こんなことも出来ちゃうんだよねー」
そう言った神夜が、お面を指で叩いた直後──狐の形をしていたお面は、兎の形へと変化していた。
半面と呼ばれるお面からは、長い耳が二つ伸びている。柄はそのままに、金の縁取りが施されたお面の端には、青紫色に輝く花の装飾品が揺れていた。
「気に入った?」
「はい、とっても……!」
「じゃあ、これは美晴にあげる」
柔らかい声で話す神夜を見て、美晴は胸に明かりが灯るような、不思議な温かさを覚えた。
「ありがとう、ございます」
「どういたしまして。あ、そうそう。結婚のことなんだけどねー」
温泉の湯が冷水になったかのように、美晴の心も一転して凍えていく。
恐れていた話に固まる美晴に向けて、神夜は「期間限定ってことでどうかな?」と提案してきた。
「期間限定……ですか?」
「うん。美晴も色々と事情があるみたいだからさ、一年だけって決めてするのはどうかなって」
にこにこと愛嬌たっぷりに笑う神夜だが、笑顔の奥にどんな本心が隠れているのか分からない。美晴のことを気遣っているのは感じるものの、初めから期間の定められた結婚に何の意味があるのだろうか。
「あの……どうして期間限定なんですか? それなら、結婚自体をやめたほうが……」
「それは駄目。僕の素顔を見た時点で、美晴と僕の間には“縛り”が成立してる。もし、縛りを解かないまま僕と離れたら……」
「……離れたら?」
不安げな表情で神夜を見つめる美晴だが、神夜はそれ以上何も言わず、ただ笑みを浮かべている。
「とにかく、一年あれば縛りも解けるはずだから、どうかな?」
選択肢を与えているようで、美晴が選べる道は実際には一つしか用意されていない。そうは言っても、こうなったきっかけも原因も美晴にあるため、神夜はむしろ美晴のために協力しようとしてくれている側だ。
助けてもらった恩を返せていない上、美晴には現在──帰る家すら存在しない。現世へ戻るにしても、待っているのは祖母の放った追手くらいだろう。
一年だけの契約結婚。
他者と暮らすことが苦痛だった美晴にとって、結婚は終わりのない地獄へ向かう切符のようなものだ。けれど、胸に抱えた兎のお面が、美晴の心に仄かな希望を灯してくれる。
──神夜となら。
不意に浮かんだその言葉が、美晴の足を一歩前に押し出していく。
「……お世話になります」
「これからよろしくね、僕のお嫁さん」
宝物に触れるかのように、神夜がふわりと美晴の手を取った。
何となく、美晴はこの瞬間の記憶が一生色褪せないような──そんな気がしていた。
◆ ◆ ◇ ◇
何処からか現れたお面を被ると、「部屋まで送るよ」と話す神夜と共に、美晴は庭園の見える渡り廊下を並んで歩いていた。
「ねぇ、美晴。僕を見て、何か気づいたことない?」
「え……気づいたこと、ですか?」
お面の色が違っていたこと以外、神夜は出会った時と何も変わっていないように見える。特徴を聞かれているのかと考えた美晴は、ひとまず思いついた点を挙げていくことにした。
「背が、高いです」
「うんうん。他には?」
「お顔が……とても綺麗だなと、思います」
話してから、美晴は猛烈な羞恥心に襲われた。
染まっていく頬を見られないよう、急いで俯く。
「ありがとう〜。美晴は僕の顔が好きなんだね」
嬉しそうな神夜の声に、美晴はとうとう顔から火が出そうになった。
「実はね、美晴に合わせて、身体の年齢を二十くらいにしてみたんだ〜」
はたと止まった思考は、予想外の言葉によるものだろう。
数秒ほど経って、美晴は何とも言えない気持ちで口を噤んだ。
やはり、童顔というのは間違いではなかったらしい。
俯いたまま、美晴は心を落ち着けるためそっと目を閉じた。
機嫌の良さそうな神夜に、「変わっていない」と言えるほど、美晴の心は強くなかった。




