第四面 鳥籠の愛
美晴を部屋に送った後、神夜は控えていた苑寿と刀喰の報告を聞いていた。
「美晴様の身体に、多くの痣や傷が見られました」
「身体の至る所に散っており、中にはまだ新しいものも」
神夜の指が、机の表面をかつりと叩く。
裏山で出会った際、美晴は寝巻き姿の上、裸足で山の中を歩いていた。夜の山に入ること自体、危険極まりない行為だが──逆を言えば、それほどまでに追い詰められていたということでもある。
「ほんと、嫌になるよね〜。美晴の血族だから、一度は見逃してあげたけど……」
常に飄々としている神夜が、怒りを表に出すのは珍しいことだ。古くから仕えてきた苑寿と刀喰には、美晴の存在が神夜にとっていかに重要か、それだけでひしひしと伝わってくるようだった。
「苑寿、刀喰。美晴から目を離さないようにね」
「はい、主様」
「命に代えても、奥方様をお守りいたします」
深く礼をとった苑寿と刀喰は、美晴の側に控えるため、静かに部屋を後にした。
一人残った神夜は、お面を外すと、机の横に飾られた鳥籠を見てゆるりと目を細めている。
一年だけの契約結婚。
怯える美晴のため、神夜が用意した逃げ道だ。
期間が終われば、美晴は再び現世へと戻るつもりなのだろう。
だから神夜は、美晴が傷ついた羽を癒せるよう、何処よりも安心して休める場所を用意した。大切に守り、慈しみ、美晴が籠の中から出たくなくなるほど、一心に愛を注ぎ続ける。
そうすれば、美晴はいずれ──神夜を選ぶしかなくなるはずだ。
現世に合わせて昼夜を変えたことで、領域の空には月が浮かんでいる。
今頃は疲れて眠っているだろう美晴を思い、神夜は微かに笑みを浮かべた。
◆ ◆ ◆ ◇
「美晴様、おはようございます」
「本日の朝餉は米とパン、どちらになさいますか?」
「じゃあ……お米でお願いします」
あれから、早くもひと月ほどが経っていた。
苑寿と刀喰は朝から晩まで美晴の側に仕え、身の回りの世話を完璧にこなしていく。初めは何度も断っていた美晴だが、苑寿たちの猛烈な押しに負け、大人しく受け入れるようになった。
叔父夫婦の家では、ほとんどのことを美晴が行っていたため、未だに慣れない部分も多い。けれど、押しに弱い美晴ではどうすることもできず。せめてとばかりに、「奥方様ではなく美晴と呼んで欲しい」とお願いしたところ、苑寿たちは「美晴様がおっしゃるなら」とすんなり従ってくれた。
「おはよう〜。よく眠れた?」
「おはようございます。はい、ゆっくり休めました」
夫婦になった後も、神夜はこれといって態度を変えたりはしなかった。むしろ、美晴を気遣ってか、一人で休める時間を多く与えてくれている。
人払いのされた部屋でゆっくり本を読んだり、美しい庭園を眺めながら、静寂に落ちる水滴の音を聞いたり。
常に心が休まらず、消耗ばかりを繰り返していたあの頃とは、何もかもが正反対だった。
神夜が美晴に求めたのは二つだけだ。
一つは、食事を一緒にとること。
もう一つは、神夜が現世にいる間、決して屋敷から出ないこと。
それさえ守っていれば、美晴は残りの時間を好きなように使うことができた。
「もしかして、まだ眠たい?」
「え……あ、その……すみませっ」
不意にかけられた言葉は、核心を突くものだった。動揺のあまり舌を噛んだ美晴は、痛みで涙目になっている。
屋敷で暮らすようになってから、美晴はどれだけ寝ても寝足りないと感じる時があった。理由は分からないが、我慢できないほどではなかったため、美晴もそこまで気にしていなかったのだ。
「今日のお昼は、部屋で食べられるようにしようか」
「平気です……! たしかに眠気はあるけど、本当に少しだけで……」
慌てて否定した美晴は、ふと我に返った様子で頬を赤らめている。
まるで、美晴が神夜と一緒にいたいかのようだ。
恥ずかしそうに俯く美晴に、神夜は普段よりも柔らかい表情で微笑んでいる。
「長い間、食事は一人でしてたから、美晴がいるだけで何倍も美味しく感じるんだ。食べてる物は変わらないのに、不思議だよね」
心臓がぎゅっと締め付けられるかのようだった。
一人きりのテーブルで、冷めた料理を口にする日々。
味気ない食事を、美晴は生きるための栄養として取り込んでいた。
神夜と同じだ。
美晴も、神夜と一緒に食べる時間が好きだった。
何てことない話をして、二人で顔を見合わせ笑う。
大して面白くもない美晴の話を、神夜はいつも楽しそうに聞いてくれた。
「私も……神夜くんと食べるご飯が、一番美味しい……です」
僅かに目を見張った神夜が、甘さを含んだ笑みを浮かべる。普段のあどけない笑みではなく、稀に見せる大人びた表情に、美晴は心臓がどきりと脈打つのを感じた。
「ええ〜、嬉しいな。僕たち両思いだね」
「……っ」
唐突な爆弾発言に、美晴がお茶を吹き出しかける。
結婚前とそれほど態度の変わらない神夜だが、夫婦になってからは、時折こうした発言をすることがあった。
「りょっ、両思い……!?」
「だって同じこと思ってたんでしょ、僕たち」
こういう時の神夜は、どことなく意地悪だ。
美晴の反応を見ながら、何事もなかったかのように引いていくこともあれば、こうして様子を窺ってくることもある。
揶揄っているようで、その実、何かを確かめているようでもあった。
「あ、そうだ。明日から少し現世に行かないとだから、またお留守番よろしくね」
面妖は守り神のような存在であり、神夜は裏山に自らの領域を繋いでいる。そのため、たまに現世へ行っては、守り神としての役目を果たしているらしい。
裏山の麓には、小鳥遊の屋敷が建っている。
無理やり連れて来られた美晴だったが、田舎特有の趣のある景色と、どこか神聖さを感じる裏山の空気だけは、良い記憶として残っていた。
「屋敷の中は自由に歩いていいけど、苑寿と刀喰を連れて行くようにね。美晴を一人で歩かせると、必ずどこかに怪我が増えてるから」
「すみません……」
このひと月で、苑寿と刀喰の過保護具合は凄まじいことになっていた。
書庫に行こうと部屋を出た美晴が、額から血を流して戻ってきたり。縁側を歩いていたと思ったら、次の瞬間には池の中で溺れていたり。
美晴の運動能力のなさは、一種の芸術並みだった。
今ある傷が癒える前に、新しい傷が増えていく美晴の姿を見て、苑寿と刀喰はとうとう美晴の近くに部屋を移し、万全の体制で世話をし始めた。
「私、昔から鈍臭くて……。身体が傷だらけで、驚かせてしまいましたよね……」
申し訳なさそうに目を伏せた美晴は、全て自分のせいだと言うように謝っている。
美晴の身体には、明らかに他者によってつけられた傷痕も残っていたが、それについて神夜が触れることはなかった。
「じゃあ、はい」
「……え?」
「これから僕といる時は、手を繋いで歩くのはどう?」
立ち上がった神夜が、美晴に向けて手を差し出してくる。
普段通りであれば、食事を終えた後は苑寿たちの迎えを待ち、神夜とはその場で別れていた。
おずおずと手を重ねた美晴に優しく微笑むと、神夜は「部屋まで送っていくよ」と口にした。
お面をつけた神夜は、素顔の時と少し雰囲気が異なって見える。
屋敷の眷属たちから突き刺さる視線に、美晴は思わず真っ赤な顔を覆いたくなった。




