第17話「泥だらけの姉」
朝の畑に、ほんのりと炭の匂いが漂っていた。信次郎が昨日焼いたもみ殻の炭を畝に混ぜ、様子を見ていたのだ。
《大地との対話:農地解析》
――酸素濃度:中程度。微生物活性:中。通気性:良。
(……おぉ、通気性と酸素濃度が改善して、微生物の活動が活発になってきたようだ。効いてるな。)
畝の表面に指を近づけると、かすかに温もりが感じられる。
土の奥で、何かが静かに動き出しているような気配があった。
「どうだ?成果はあったか」
背後からリナの声がする。ユウナも一緒に来ていて、帽子を押さえながら信次郎の背中をのぞき込んでいる。まだ朝の風が冷たく、髪がふわりと揺れた。
リナは、真剣な眼差しで畝を見ていた。信次郎は、その視線に応えるように、こくりと頷いた。
「土に空気が入って、微生物が元気になった。ありがとう、リナの竜喉炉のおかげだ」
リナは少し言葉に詰まり、目をそらしながら「……当然の結果だ」とそっけなく返したが、耳のあたりがほんのり赤く染まっていた。
「土がね、元気になったみたい!」
ユウナがぱっと顔を輝かせ、畝にしゃがみ込んで両手を広げた。
その表情は、まるで旧友に再会したかのような、うれしさと懐かしさに満ちていた。
土をそっと撫でるその手つきには、小さな命を扱うような優しさがあった。
その様子を見て、リナは少し驚いた顔をしたあと、ほっとしたように息を吐いた。
まるで土が語りかけてくるような、不思議なやり取りに、リナは自分にはない感性を見た気がした。
「……そう。なら、効果はあったのね」
畝の隅では、マンドラゴラが気持ちよさそうに、葉をゆったりと揺らしていた。陽だまりの中、まるで大の字で昼寝する子どものように。
ユウナもその姿に笑い、「よかったね」と小さくつぶやく。まぶしそうに目を細めたその顔には、どこか優しさとぬくもりがにじんでいた。
「さて、今日には帰る予定だ、他に何か手伝うことはあるか?」
その言葉を聞いたユウナの肩が、かすかに揺れた。
笑みを浮かべたまま、ふと目元に光がにじむ。
「うん……ありがとう」
(俺もさみしい。……いや、ゴーレムがいなくなるのは少しほっとする。あの視線、地味にプレッシャーだったからな。でも困る、困るけど……)
「そうだ、納屋を拡張して地下倉庫をつくってもらえると助かる。あとは、馬糞発酵用のスペースだな。期間ごとに場所をわけたいな。新たに炭も置く場所がいるな」
「わかった」
その後、リナはゴーレムに命じて、土を深く掘らせ始めた。信次郎も手伝い、地下へ降りるための斜路と、湿気抜きの煙道を作っていく。道具や設計はすべてリナが指示し、信次郎はただ、必死に動いた。
午後、ユウナが昼ご飯を運んできて、目を丸くする。
「わあ……お姉ちゃんがこんなに泥まみれなの、久しぶりに見た」
「ふむ、必要だからやってるだけだ」
ゴーレムに命じているだけかと思いきや、リナ自身も地面に膝をついて設計図を広げたり、泥を払いながら測量したりと、いつのまにかあちこち泥だらけになっていた。
それでも彼女はどこか楽しそうで、信次郎に作業を指示しながら、ときおり笑みすら浮かべた。
夕方、作業がひと段落し、三人で納屋を眺める。
「ありがとう、リナ。助かったよ」
「私にできることは、これくらいだからな……力になれてよかった……」
リナは少しだけ自嘲するように微笑んだ。
それを見ていたユウナが、ぽつりとつぶやく。
「私も、お姉ちゃんみたいにできればな……」
その言葉に、リナは一瞬だけ目を見開き、ユウナの顔を見つめた。
まさか自分が、そんなふうに思われていたなんて——。
すぐに表情をやわらげ、そっと微笑んだ。
「私はユウナのように、土や植物の気持ちがわからないからな。だから魔法学校に行く決意をした。お父さんとお母さんが大切にしていた畑だからな。きっと、あの畑に一番似合うのは、おまえのやり方だ。信次郎も、きっと支えになってくれるはずだ。」
(あれ、おれ頼られちゃってる?お姉さまの信頼獲得?)
そして、泥のついた眼鏡を、そっと外した。
レンズを丁寧に拭く仕草のあと、信次郎と視線が合う。
レンズ越しの光が消え、素顔がはっきりと現れる。
その瞳は、どこか遠くを見ているようで、それでいて、まっすぐ信次郎を射抜いていた。
普段は見えなかったまつ毛の長さ、淡く揺れるまなざし、ふとした影のような切なさ――。
まるで別人のような、その静かな美しさに、信次郎は息をのんだ。
ドクン、心臓が大きく波打つ。
(……うぐっ、心臓が止まるかと思った。あれ、俺……今まで何を見てたんだ?え、めっちゃかわいいんですけど、いやいや、これは浮気ではない、ちょっとびっくりしただけ)
信次郎が黙ったまま固まると、リナはふっと笑った。
そして耳元でささやく。
「……ユウナとのこと応援してる。優しくしてやってくれ。意外と繊細だからな」
リナの声がふっと近づいたかと思うと、その吐息が耳にかかり、くすぐったいような熱が走った。
「……え? あ、うん……」
その瞬間、全身の毛が逆立つような感覚が走り、心臓がばくばくと鳴り響いた。息が詰まりそうになって、思わず肩が跳ねる。
「なに? どうしたの?」
ユウナが心配そうに二人の顔をのぞき込む。
「……こいつに、ユウナに何かしたら、ゴーレムパンチをお見舞いすると言ったんだ」
何も言えなくなった信次郎の横で、ユウナはなぜかスコップを手に、にっこりと笑っていた。
(……こっちの方が怖いんですけど)
やがてリナはゴーレムにまたがり、ゆっくりと出発した。
平地を進むその背中を、ユウナはじっと見つめている。
笑ってはいるけれど、その目には涙がたまっていた。
声をかけようとして、けれど何も言えず、ただ小さく手を振った。
信次郎も隣でそっと手を上げながら、胸の奥がきゅっと締めつけられるようだった。
(……行っちゃうのか)
ゴーレムの姿が次第に遠ざかり、やがて小さくなっていく。
背中が視界から消えるその瞬間まで、二人は黙って見送っていた。
しばらく沈黙が続いたあと、信次郎は静かに息を吐いた。
胸の奥に、何か温かいものが灯ったような気がした。
(……よし)
納屋でもうひと仕事するか。
なんだかやる気がみなぎっている気がする。
馬糞の山を鍬で切り返し、発酵を促す。
そして、ふらふらになりながら、気合いで最後のひと作業を終えた。
(……よし、あとは寝るだけ……ん?)
(あ、俺の寝床がない)
その夜、ユウナが、小さな毛布をそっと掛けてあげた。疲れて寝落ちしている信次郎の顔を少し覗き込んで、安心したように微笑んだ。




