第195話 飛花落葉の私には。
それから、数週間後。
その日は、雲一つない、澄んだ夜空だった。半分だけ姿を見せた月は、いつものように淡い光を放っていた。
ここ最近、マリアは2日は眠るようになったらしい。吸血鬼にしては短いが、まあいない事はない。そのおかげか、以前よりは大分マシになった。少なくとも、寝不足で倒れることは今のところない。
相変わらず、起きている時間の多くはほとんどは黒死病に罹った死体の解剖と、家畜の世話に費やしている。家畜は既に数人を残すだけとなっているが、それでもマリアは、諦めていないようだった。
いつしか、私は暇な時はマリアが解剖しているのをただ眺めるようになっていた。
彼女は、いつものように死体を解剖していた。ただ、ここ最近のマリアは、何やら小さい死体を漁る事が増えていた。具体的には、鼠の死体を漁るようになっていた。それにどのような意味があるかは私には分からなかった。別に、興味もなかった。
「ああ、遂にーーー!!」
不意に、マリアは大きな声を上げた。両手を祈るように組んで目の前の私に祈るマリアは、飛び跳ねかねないばかりに身体から喜びがあふれている。
「何か、分かったのかい?」
「ええ!黒死病が何故ここまで流行ったのか、判明いたしました。」
「へえ、凄いじゃないか。」
私は驚いて、彼女の足先から頭を何度も見返す。全くの門外漢だったはずだが、よく解明したものだ。流石のマリアも感慨深いのか、祈る仕草がいつもより芝居がかっている。それもそうなるだろう。100年近く、ずっと研究に没頭していたのだから。
「一体どうやって分かったんだい?」
私は素直に疑問を口にした。
「実は、つい先日までは何も分かっていない状態だったのですが、ふと、『もしかしたら、感染の経路は別にあるのかもしれない』と思い立ち、市街や家畜小屋の周辺環境を調べ、鼠の体内の血液の中身を確認すると、感染した人間の体内に存在するーーー」
それから、マリアは長々とよく分からない話を続けた。彼女の瞳の輝きを見るに、ずっと100年間独り研究をしていたものだから、実は誰かと苦しみを共有したかったのかもしれない。
もう少し早く話を聞いてあげれば、少なくともこうして長時間話し相手にされる事もなかったのかもしれない、と私が柄にもなく反省する。
「ーーーと、いう訳でございます、主よ。」
マリアは話し終えると、晴れ晴れとした表情を浮かべていた。
「つまり、『吸血鬼の血によって姿を変える性質を利用して共通項を特定し、どうやら鼠に寄生するノミが吸った血液を介して感染している事が分かった』という事かい?」
いまいち理解は出来ていないが、どうやらそういう事らしい。そもそも吸血鬼の能力を菌の特定に使う事など考えもしなかった。
「流石でございます、主よ。」
ただ彼女が言った言葉を復唱しただけで褒められては居心地が悪い。祈る様な姿勢を取るマリアに、手で払うような仕草をする。
「だが、そういう意味では『犯人が吸血鬼』というのはあながち間違いでもなかったわけだ。」
「確かに、仰る通りでございます。」
私の冗談にマリアは口に手を当てて愉快そうに笑う。元々無愛想な方では無いが、明らかにいつもより機嫌がいい。余程黒死病の原因が分かったことが嬉しいらしい。
「これでようやく、黒死病の対策が可能となりました。後は、鼠が小屋に寄り付かないようにさえすれば、少なくとも残った家畜に感染することはないはずです。」
脱力して、力無く椅子に座り込むマリアを、私は暖かい眼差しで見つめた。『お疲れ様。』そう声を掛けようとしたが、割り込むようにマリアは続けた。
「これで、エディンム様と隠居する為の憂いが一つ潰えました。」
力無く微笑むマリアの、心底嬉しそうな顔が、幸せそうな顔が、愛おしかった。
「ああ、そういう話だったね、確かに。」
「左様でございます、主よ。終の住処は、実はもう心当たりがございます。」
いつになく、彼女は嬉しそうだった。マリアとヴラドといる時は、私は自分の生きる意味を忘れる事が出来た。
「へえ、どこなんだい?」
「城からは、然程離れておりませんここからーーー。」
彼女と、そうして2人で暮らすのも、悪くない。私は、確かにそう思った。いつか来るかもしれない、遠い死を、彼女と2人で待つ。穏やかに、静かに。
「そうか。意外と近いんだね。」
「この辺りは、深い森が多くございます。人間が開拓するまでに、恐らく数百年はかかるでしょう。」
「へえ、凄いじゃないか。」
けれど、その私は、きっともう二度と、遠い過去に見た、『あの光』に会う事は出来ない。空いた穴は、焼かれた脳は、焦がれた心を誤魔化して、私は悠久を生きる。
考えるだけで、ぞっとした。
「じゃあ、私から君に、いいものをあげようじゃないか。」
「そんな……、恐れ多くございます……!!」
「『マリア・ヴェール。黒死病対策の一切を禁じる。他人に伝えてもならない。』」
「『はい。』……え、?」
それだけは、どうしても受け入れられなかった。
「フ、フフフーーー」
私の高笑いが、石の壁にやたらと響いた。呆然とも唖然ともつかないマリアの顔が、絶望にもなれない彼女の顔が、見えた。
「私が君に与える物は、全て嬉しいんだろう?喜びなよ、君のために考えた、とびきりの罰だ!!さあ、ほら!!」
楽しそうに笑う、私の声が聞こえた。




