第182話 虚実古樹の私と、ポストスクリプト
街を照らす月光は厚い霧でまさしく霧散して、狂ったような暗い光が微かに光る。まるで、地表との関わりを避けるように。それも仕方の無いことかもしれない。
腐ったような、臭いがした。
いや、『腐ったよう』ではない。腐った臭いがする。人の死骸が溢れかえり、それを埋める土地もない。仕方なしに黒くなった死体が積み重ねられ、腐った匂いを放っており、死体の山にネズミや蝿がそれに群がり、至る所にウジが湧いている。下段に関しては、最早原形を留めていない。腐った液が染み出して、石畳の上を伝う事で、町全体が腐敗しているような印象になっていた。
流石にこれを吸血する気にはなれないな、と思わず顔をしかめる。
「これは……想像以上に酷いね。」
町を歩きながら、私がそう呟いた。
マリアから報告は聞いていたが、中々の惨状だ。ここに来るまでに、何度かヴァンパイア・ハンターらしき神父とすれ違ったが、私達に気が付くような素振りすら見せなかった。今は吸血鬼よりも、前代未聞の大病こそが彼等の敵なのだろう。
城に籠るのも飽きて物見遊山感覚で来たが、どうやら認識を改めなくてはならないようだ。
「左様でございます、主よ。このまま病が蔓延し続ければ、私を含めて貴方様の眷属の多くが飢えて死ぬ事になります。」
私の横で歩きながら。そう言ったマリアの顔は酷く暗い。元から死体と変わらない青白い顔が、更に青ざめていた。吸血鬼になってなお、死ぬことに怯えているのか、と半ば呆れる。そもそも、もう死んでいるというのに。
「確かに、君の言う通りだ。まさか、ここまで人間が死ぬとはね。大分前にも似たような病気が流行った事はあったが、その時でさえここまで酷くはなかった。君の家畜達は、まだ無事なのかい?」
「はい。流行る兆候が見えましたので、外の人間を家畜化することを控えおりましたので。ですが、一度数を減らさなければ、病が蔓延する危険性が高まるでしょう……。」
そう言いながら、彼女は肩を落とす。どうやら、マリアの顔が暗い理由は死への恐れだけではないらしい。他の吸血鬼や人間の死に対しても何やら心を痛めている。まあ、彼女らしい。卓越した視野を以て合理的な判断をするくせに、その根底は慈愛に満ちている。
「まあ、その辺りは君に任せるよ。何なら、減らす個体はエリザベートかヴラドに売りつければいい。きっと今なら相当吹っ掛けることが出来るだろうさ。」
エリザベートとその眷属は私達の十倍以上人間を食らうし、人間を殺し過ぎるわけにもいかない現状では、マリアの家畜は同じ大きさの金塊とでも交換するだろう。ヴラドも同様だ。勢力を伸ばして多くの眷属を抱えた今の彼は、食料の確保に喘いでいるはずだ。
「そう仰ると思いまして、数日前、御二人の城に家畜をお送りいたしました。ですが……。」
「まあ、君なら既にしてそうだなと思ったよ。何かあったのかい?」
歯に何かが挟まったような物言いをするマリアに私は訊ねる。どうやら私に相談があってわざわざ町に連れ出したらしい彼女がこうもあっさりと外に出してくれるのはおかしいと思ってはいたけれど。
「エリザベート様は、聡明な判断をされておりました。ですが、問題はヴラド様なのです。主よ。」
両手を祈るように重ねて、レース生地で隠されているその目は縋るように潤んでいる、ように思えた。
「おいおい、まさか、それを私に、『何とかしろ』とでも言うんじゃないだろうね?」
「『何とかしろ』ではなく、『どうか誤った道を進んでいる貴方様のご友人にお力添えをしていただけないでしょうか?』と嘆願をした次第でございます。主よ。」
「同じじゃないか。大体、彼は真祖として自分の眷属を従えているんだ。間違っていようが、それは彼が歩くと決めた道だ。私がどうこうする事は出来ないし、その権利もない。そうだろう?」
言われなくても、そのくらい彼女でも分かっているはずだ。そもそも、彼が何を間違っているのかすら、私には分からない。もし何か言いたいのならば、マリアから言えばいい。信頼はされているだろうし、それなりに耳を傾けるはずだ。
「……仰る通りでございます。ですが、それでもお会い頂きたいのです。」
どうやら、マリアは相当参っているらしい。珍しく強引に私を動かそうとはしない。もしくはそれも作戦である可能性もあるが、私としてもヴラドに会う事自体はやぶさかではない。
「それは構わないよ。彼と会うのも久しぶりだ。10年ぶり位かな。元気そうかい?」
なんの気なしの私の問いかけに、マリアは俯きながら答えた。
「……ヴラド様は、病に侵されております。」
「……は?吸血鬼が、病?そんな訳ないじゃないか。」
黒死病でだって死んだ者は1人もいない。それなのに、真祖である彼が病だなんて。マリアの『千里眼』も曇ったのか、と私は彼女をマジマジと見つめる。
「ですが、確かにその体は蝕まれているのです。」
一息置いて、マリアは続けた。
「心の、病なのです。」




