第175話 桃李満門だった私達と拳と平手
先程までの楽しそうな様子は一変して、つばきちはひどく怯えた表情をしていた。周りにいた人々も、彼女達3人が発するあまりに異様な空気に遠巻きになっている。
『ねえ、あの男何?』
『な、仲良くしてくれてる人で……。』
『うーわ!流石相変わらず男漁りだけは上手いねー!』
『ち、違っ……!』
『なに、言い訳すんの?糞ビッチのくせに?さっきの男に教えてあげようか?『小春ちゃんは、誰にでも股を開くビッチです』って。』
『そんな事、してない……!』
『だからぁ、敬語。忘れたの?『あんたは誰よりもカスなんだから、皆に敬語で喋るように』って、教えてあげたよね?』
それ以上、聞いてられなかった。こいつらを、今すぐぶん殴る。こいつらはそうされるべきだ。きっと主もお許しになる。
私は肩をいからせながら下卑た笑みを浮かべる2人の所に向かおうとして、数歩歩いたその時。スマホが振動した。こんな時に誰だ、と苛立ちを覚えながらスマホを見ると、二葉の名前が表示されている。
二葉からもこの状況は理解できているはずなのに、この状況で電話を掛けるなんて、いったいどういう意図なのか、と苛立ちながらも、何か意味があるかもしれない、と微かに残った冷静な部分が訴える。
仕方なく私が電話に出ることにした。
「なに?これからあいつらぶん殴るつもりなんだけど。」
苛立ちながら、一応声を潜めて電話口の向こうにいる二葉に伝える。だから、早く切るね、という意図を込めて。
「気持ちは分かるのです。私だってそうしたいと思います。でも、駄目なのです。」
思わず、耳を疑う。双子の妹の気持ちがここまで理解できなかったのは、初めてかもしれない。
「はあ?なんで?主がお許しになるならあんな奴ら、殺して然るべきでしょ。」
「忘れたのですか?私達は2人のストーカー中なのですよ。」
「だから?もういい?」
こうしている間にも、彼女が2人から酷い言葉を浴びせられているのが見えた。二葉は見ていないから『駄目だ』なんて言えるんだ。この場にいたとしたら、絶対そんな事は言っていない。目の前の光景への怒りの矛先が、あまりに無責任に思える。二葉に向く。
「私達が尾行していたと気が付いたら、今のハルは、私達が彼女を馬鹿にするためにそんな事をしたと思うかもしれないのです。」
二葉の言葉に、私はハッとした。二葉は続けた。
「確かに、私も彼女達をぶん殴ってやりたいです。でも、私達はスッキリするかもしれないけれど、きっとハルは嫌な思い出のままなのです。もうすぐめーちゃんが戻ってくるから、手出しは駄目です。」
その声が、震えている事に気が付いた。二葉も本当はあの2人が許せないのだと思う。けれど、つばきちの為にその気持ちを抑えている。
そのことに気付いた私は少し冷静になって、もう一度彼女の言葉を反芻した。
二葉の言う通りだ。もし偶然出会ったのならば、きっと私は2人をぶん殴っていたと思う。けれど、後を尾けていた以上、きっとどれだけ偶然を装ったとしても違和感が生まれる。そこに彼女が気付いたら、酷く傷つけてしまう。
歯を食いしばり、爪が食い込むほどに、拳を握りこんだ。助けてあげたいのに、それが出来ない無力感を覚える。
『ていうかさ、昔教えてあげたよね?『不快だからさっさと死ね』って。』
『……っ!!』
イヤホン越しに聞こえる言葉に殺意が沸く。彼女達が、本当につばきちを恨んでいるようなら、ほんの僅かでも同情出来るところがあったかもしれない。
けれど、2人の顔は明らかに虐めることを楽しんでいた。見下すような、嘲笑うような笑顔。
もしかしたら何かきっかけがあったのかもしれないけれど、今彼女達が感じているのは、自身より弱い人を虐げる快楽だけだった。到底、許されていい事じゃない。
まだれーくんが戻ってこない事に苛立ちと、何もできない不甲斐なさにやきもきとする。
『あのさ、こんだけ言っても分からないの?さっさと消えろって言ってるんだけど。』
『分かるわけないじゃん!こいつ馬鹿だし!アハハハ!』
私のそんな思いとは裏腹に、2人の悪辣さは増していった。周囲の人々も、2人のあまりの醜悪さに顔をしかめている。そして、遂に耐えきれなくなったつばきちは、目に涙を溜めて、2人に背を向けてどこかに走り去った。
彼女が遠くなるのと同時に、あの2人の声も聞こえなくなる。ただ、醜悪な笑みだけが遠くから見て取れた。
「……ねえ、つばきちを追いかけるのは、れーくんの仕事だよね?」
私は、電話越しの二葉に訊ねた。
「……もちろんなのです。」
「じゃあ、さ。」
私は、再び二葉に訊ねる。
「つばきちから離れた、あいつらをぶん殴るのって、誰の仕事だと思う?」
「もちろん、二葉の仕事なのです。」
怒りの籠った口調で二葉は答えた。
「私の分も、お願い。」
先程まで会話に参加してこなかったつっきーも、明らかに苛立った口調で言った。
「……殺さないようにな。」
犯人に同情するように涼は口にした。
3人の言葉を聞き切る前に、私は2人の元に駆け出して、拳を振り上げる。2人が気付くか否かのタイミングで、私はその手を思い切り振って、『消えろ』と言った方の頬を平手打った。辛うじて残った理性が、拳だと殺しかねないと判断して、私の手を拳から平手に返させた。
それでも、目の前の女の身体が倒れこむには十分だった。床に勢いよく倒れ込む友達を見て、『馬鹿』と言った方は目を見開いて、身体が硬直したまま微動だにしなかった。その右頬に、私はまた平手打ちを食らわせると、彼女も倒れこむ。
「お前らが死ね!!」
そう言い放った私に、数秒放心したような表情をしていたが、すぐにふらつきながらも立ち上がり、食ってかかってきた彼女達と、私は激しく言い争いをすることになる。
れーくんが戻ってきたのは、されにそれから1分程した時だった。




