第158話 槁木死灰の私と連花①
目を覚ますと見知らぬ天井で、私が昨日教会で寝たことを思い出した。鉛のように重たい瞼と相反するように、頭蓋に詰まっていた泥が消えたかのように軽い頭を、上体毎持ち上げる。
カーテン越しに透ける微かな柔らかく白い光は、今が夜だという事を伝えた。
どうやら、私は寝ている間に殺されることだけはなかったらしい。槿に『2人で生きよう』と言っておきながら、私は心のどこかで自分は殺されるだろうと思っていた。だから、今も生きている、という事に安堵した。私は殺されなかったのか。
厚い本を閉じる音が響いて、私はその音の方を振り向いた。
「随分長い眠りでしたね。お姫様のキスでなければ目を覚まさないのかと心配しましたが、その必要はなかったようですね。」
どこか読み上げるような平坦な声が聞こえた。聖書を片手に、連花がソファに腰掛けている。本を持つ手は、音が聞こえるくらい、強く力が籠っていた。
「連花……。」
聞きたいことと、言いたいことが雪崩のように押し寄せて、なんと言えばいいのか分からない私は、ただ彼の名前を呼んだ。
「……今日は、日曜日です。あなたは3日も寝ていました。」
「そう、なのか。」
私は、そんなに寝ていたのか。普段ならばなんて事はないが、ここしばらく毎日のように眠っていた私は驚きを隠せなかった。そして、私が3日眠っていたという事は、当たり前だがそれだけの間、私は何の処分もされなかった、という事だ。そこまで考えて、1つの疑問が芽生えた。
「槿は、無事なのか?」
そう訊ねると、連花は呆れたような表情で私を見つめる。その表情は、どこか優しかった。
「あなた達カップルは、どうしてそう……。無事ですよ。昨日の夕食から、私達と食事を取っています。彼女には、これまで通りの生活を保障します。」
『彼女には』。つまり、私には何らかの処分がなされるという事だ。死の恐怖が脳に過る。背筋に流れる冷たい感覚から、逃げられないのに逃げ出したくなる。
けれど、それでも心のどこかでは冷静でいられた。私がどうであろうと、槿は、平和な余生を送れる。それで、充分じゃないか。
「……それなら、よかった。」
それは、私でもわかるくらい震えた、情けない声だった。それでも、私の本心だった。
「自分の身の安全も保障されていないのに、『よかった』ですか。随分、楽観的な思考をされているようですね。」
「よく眠ったからな。それに、槿が無事で、今も私が生きている、という事は、まだ私は生きる道が残されているのだろう?殺すつもりならば、いくらでも私を殺す事は出来たはずだ。」
「……その通りです。ですが、なんというか、あなたらしくないですね。あなたはもっと、すぐに諦めて、死ぬのに怯えているような情けない男だったと思っていたのですが。思っていたより随分前向きですね。」
驚いたように何度も私の足先から頭までを何度も見返す連花のあまりに失礼な言い草に笑ってしまいそうになる。が、彼の言っている事は何も間違っていない。
「確かに、私はそういう性格だ。すぐに諦めて、死ぬのに怯えて、その癖死にたがりの、どうしようもない化物だ。それでも、槿はこんな私でも、『最期まで
傍にいて欲しい』と言ってくれた。だから、せめてその思いには応えたいんだ。」
そんな事を言いながら、私は自分が死ぬかもしれない恐怖に怯えていたが。それでも、この言葉にも偽りはない。出来るだけ、抗うつもりだ。槿が私の元から居なくなってしまう、その日まで。
連花はしばらく押し黙った後、また平坦な声を口から出した。
「あなたは、変わる事が出来たのですね。」
まるで、『自分は変わる事が出来なかったのに』と続きそうな言い方をする彼の瞳は、迷いに揺れていた。
「根底は何も変わらない。先程も言った、どうしようもない化物のままだ。そんなにすぐに変わる事は出来ないさ。」
困惑するように、その栗色の瞳は私を見つめていた。連花今、私と向き合おうとしてくれている。向き合う為に、自分の心を曝してくれている。だから、私も自分を偽らずに伝える事にした。そうする必要があるように思えた。
「結局、私がどう思っていても、私が化物として生きた300年が消えるものでもない。……当然、犯した罪も。許される訳が無いのも、分かっている。だが、それでも逃げる事は辞めたんだ。」
連花は、しばらく黙っていた。私の方を向いて、その遙か向こうの何かに思いを馳せるような、そんな目で私を見つめる。
「涼。実は、あなたの処分は私に一任されています。私は、それをあなたに伝えるためにここで起きるのを待っていた。……ですが。」
そこで、彼は深く息を吐いた。纏わりつくものを払うように。
「あなたを目の前にして、私は揺らいでしまう。『本当に、それでいいのか?』と、こうしている今も、何度も自問自答を繰り返してしまうのです。結局、私は変わる事が出来ていない。」
連花が、何を言っているのかは分からない。だが、彼が苦しんでいる事は、苦悩している事だけはわかった。
「……少しだけ聞いてもらえますか。私の昔話を。私が、何に縛られているのかを。」
彼の瞳は、そこで真っ直ぐに私を見つめた。栗色の瞳は、少しパーマのかかった茶色い髪は、年相応よりも幼く見えた。
「私の両親は、吸血鬼に殺されました。」




