第156話 桃李満門だった私達と椿木
今日が土曜日だからか、ゴールデンウイークだからか、まだ午前中だというのにやたらと多くの人が歩いていて、空は私の鬱屈した心とは相反するように晴れていた。
目の前の道をどこに行くでもなく、ただ適当に曲がったり直進したりしながら、先程の一果と二葉との会話を思い返す。
確かに、今すぐ涼を殺すのは得策でない。それは分かる。彼を殺せば、エディンムを自由にしてしまう。涼が彼のブレーキとなるというのは、12月の時点で理解していた。だからこその休戦であったし、彼が好戦的な吸血鬼でないことも、とっくに理解している。
それでも、彼が吸血鬼であることには変わりない。確かに、『涼が人の血を吸わないで生きることが出来れば』とは私も思った事がある。けれど、それは所詮空論でしかなく、いつか彼を殺さなければいけない、というのには変わりない。
少し開けた道路に出ると、街路樹が陽光に照らされて、誇るように青々とした緑を私に見せびらかしている事に苛立ちを覚えて、私は深くため息を吐く。植物に八つ当たりをするような精神状態は、とても健全とは思えない。
そのことに気が付けたおかげで、自身を客観的に見ることが出来た。
二葉に言われる前から、『私が涼を殺せるのか。』という事は、私もずっと考えていた。それに対する問い掛けが『出来る。』という事は、いつも変わらない。けれど、その答えを出すまでにかかる時間は段々と伸びていて、段々とその言葉の持つ厚みは減っていった。
何より、何度もその事に対しての自問自答を繰り返す時点で、本当は私も分かっていた。
「あれ、連花さんじゃないですか!」
見知った明るい声が聞こえて、私が思わず振り向くと、椿木小春が私に向かって、満面の笑みで手を振っていた。彼女がいる場所が花屋の店頭であることに気が付くと、いつの間にか川崎駅の近くまで歩いていたことが分かった。
短かい髪を後ろで束ね、ジーンズと黒のTシャツに赤紫のエプロンを付けている。エプロンには白い角が丸い文字で、『フラワーショップ なつ』と書かれていた。
彼女が、小さな身体を大きく動かして、私に手を振っているのを見ただけで一瞬先程までの悩みが消し飛んでしまいそうになる。
なので、私は愛想笑いを浮かべて、小さく会釈をしてその場を去ろうとしたが、雨に濡れた子犬のような悲しげな表情を浮かべたのを見て、慌てて彼女の方に駆け寄ると、急に晴れたように彼女の顔が明るくなる。敵わないな、そう思いながら、私の顔は無意識のうちに綻んでいた。
「珍しいですね!連花さんがこのあたりにいるなんて!」
背の低い彼女は、下から私を見上げるようにして、嬉しそうにそう言った。感情が表に出やすくて、本当に犬みたいだ。ないはずの尻尾が左右に大きく振れているのが見える。
仕事中なのに、私の相手をしていていいのだろうか、とも思ったが、どうやら店内にはお客さんらしい人は見えない。休日の、それもゴールデンウイークだというのに、こんなにがら空きでやっていけているのだろうか、と余計なお世話を焼きそうになる。
「確かにそうですね。こちらにいる時は、教会か椿木さんのご実家の農園くらいですから。」
「連花さん、友達いないんですか……!?」
同情するような表情を浮かべる椿木に。さり気なく痛いところを突かれる。だが、確かに少ないが、一応いるにはいる。2人程。現在その2人と意見が合わず、教会から飛び出してきたわけだが。
「こっちには2人、います。」
せめてもの強がりで、まるで他にもいるかのような言い方をしてしまう。嘘ではない。少しだけ誤解を招くような言い方をしてしまっただけだ。
「そうなんですね!岸根さんと、もう1人いるんですか!?」
「今、3人に増えました。」
「え!?そんなにいるんですか……!?凄い……!!」
椿木は心底驚いたように、目を見開いて口を手で抑えるようにした。その様子は心底驚いているようだった。
「3人でそこまで驚かれるとは……。」
思わず苦笑いを浮かべる。どれだけ交友関係が狭いと思われていたのか。まあ、実際は2人なのだが。
「3人て凄いですよ!私もこの間、ようやく3人出来たばかりなので尊敬します!」
時折出てくる、彼女の底抜けに明るい裏から漏れる闇が気になるが、デリケートな話題かもしれないし、何より本人がその事を話したくない可能性の方が高い。だから私は、彼女が話したくなるまで、特にその事には追及しないようにしていた。
「でも、そうしたらなんで今日はこっちまで来たんですか?何か用事とか?」
小首を傾げながら、椿木は訊ねた。相変わらず、気になることがあれば、一切駆け引きなどをせずに直接聞いてくる。そんな彼女の純真さも彼女の魅力だ。だが、その問い掛けで現実に引き戻されたように、また鬱屈した感情が芽生える。
「まあ、少し気分転換に散歩をしていたまでです。」
愛想笑いを浮かべて、私は曖昧に誤魔化す。嘘はついていない。そもそも、詳細は彼女に話せる内容でもない。
「……なにか、嫌な事でもあったりしたんですか?」
心配そうに私の顔を覗き込む椿木に、私は思わず何故分かったのか、とどきりと跳ねた。
「やっぱりそうなんですね。何があったんですか?」
「……大したことではないですよ。……少し、友人と意見の相違で喧嘩してしまいまして。まあ、友人とは一果と二葉なのですが。」
「大したことじゃないですか……!!」
椿木は青ざめた、この世の終わりのような顔をして、わたわたと慌てたように手を動かす。何故か私以上に悲観している椿木に私は思わず吹き出した。
「笑っている場合じゃないですよ!友達とすれ違うのって、凄い辛いじゃないですか!?」
その椿木の言葉に、私は一瞬驚いて、笑うのを辞めて、思わず彼女の方を見た。椿木も私の様子に驚いたようだった。
「……ど、どうしたんですか……?」
「いえ。……その通りだな、と。流石、椿木さんです。」
私は、心が落ち着いていくのを実感した。何が何だかわからない、という表情で小首を傾げる椿木を横目に、私は1人納得した。
そうだ、その通りじゃないか。私が辛いと思っているという事は、そういう事じゃないか。
「椿木さん。ありがとうございます。貴方のおかげで、これから友人と仲直りする決意が付きました。」
「どう、いたしまして……?」
相変わらず、いまいち何が原因でそうなったのか分からなそうではあったが、椿木はすぐに笑顔に切り替えて、
「もし、私に出来ることがあったら言ってくださいね!」
と言った。
「そしたら、1つだけ。お願いしてもよろしいでしょうか?」
「はい!」
「仲直りするには、一歩踏み出す勇気が必要だと、私は考えています。」
「確かに!私もそう思います!」
「ですので、その勇気を出す為に、あなたの事を、これから『小春さん』とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「はい!………………えぇぇ!?」




