第140話 出会った時と同じ、月の下で②
ワンピースのスカートをつまみ、恐る恐る、波の引いた所に彼女は一歩踏み出す。水分を含んだ砂は、水分を吐き出しながら彼女の足の形に沈んだ。
その新鮮な感触に目を輝かせて、こちらを振り向いた、その瞬間、再び波は槿の足元まで押し寄せて、彼女の足首までを呑み込んだ。引く潮が砂ごと槿を海に引きずり込もうとする。
だが、軽い砂しか運ぶことが出来きずに微動だにしない槿の足は引きずり込まれた砂でわずかに埋もれた。私は身震いをしながら、そんな初めての海に心を弾ませる槿を一部を除いて砂浜から眺めていた。
「ねえ、涼!凄いよ、足が埋まった!」
「そうか、良かったな。」
「涼も、海に入ればいいのに。」
「入っているだろう、ほら。」
そう言って彼女の足元に目線を送る。槿は意識していなかったのかもしれないが、彼女の足の下に置いてあるそれも私の一部だ。部分的には私も海に入っていると言えるだろう。
「確かにこのサンダルも涼かもしれないけれど、現状を『涼と一緒に海に入った』ってするのは、ちょっと違う気がする、かな。」
「言っただろう。私は海が嫌いなんだ。一部入るだけでも十分に嫌な気持ちになれる程度には。」
「私がお願いしても、嫌なんだ。」
「ああ、その通りだ。」
波が槿の足に纏わりつくたびに身震いがする。背筋に何かが這っているような不快感。これを全身で感じるのは、槿の頼みとはいえ、出来れば断りたい。
私の答えに少し拗ねたような様子で槿は膝を伸ばしたまま、波を蹴り飛ばすように脚を動かす。
「もう少し海の方に行ってくるね。」
つまんだスカートから見える彼女の華奢な脚が不安にさせる。
「…………大丈夫か?」
「心配なら、一緒に来てくれてもいいよ?」
いつものように薄く儚げな笑みを浮かべた槿は、綺麗だった。
夜の海に一人、白いワンピースと銀色の髪を靡かせた槿は月よりも輝いて見えた。妖しくて、存在するのかすら怪しい程、美しかった。
なんてことの無い彼女の様子に。不意に目を奪われていると、そんな私に微笑みかけた後、誘うように海の奥へと足を進める。
足首程の深さから、ふくらはぎの中ほど、膝下と、徐々に海が槿を隠していく。
「槿!」
そのまま槿が海に呑まれて消えてしまうのではないか、思わずそんな不安に駆られた私は、彼女の名前を呼んだ。
「え?ーーーわっ!」
振り向いた槿はバランスを崩して倒れそうになる。私は全力で波の上を駆けて、海に沈みそうになる槿を支えた。
「槿、大丈夫か!?」
私は必死に槿に叫んだ。私の腕にもたれ掛かるような姿勢の彼女は少し驚いたような顔をした後、またいつも通り微笑んだ。
「やっぱり、来てくれた。」
「…………わざとだったのか?」
私のその問いかけに、槿は悪戯っぽく笑う事で答えた。安心した私は、それにつられるように声を上げて笑った。
今度は槿が私のその声につられて、彼女も声を上げて笑う。
夜の海に、私と槿、2人の笑い声が響いて、波のように消えていった。
ーーーーーー
「ねえ、涼。」
あの後、私と槿はまた砂浜に戻った。座りながら、初めて海に来た感想や、他愛のない話をしていると、槿は私にそう切り出した。彼女の髪先と服は海水で濡れてしまっていた。
「そろそろ、おしまいにしようか。」
槿が、海の方を見ながら静かにそう言った。
「……そうだな。これで、最後だ。」
「それでね、いい方法思いついたんだ。」
指を組んで、腕を前に伸ばしながら彼女は続ける。目線は、海を向いたままだった。
「さっきと同じくらいの所に2人で行って、あなたの本当の名前を呼んで、お願いするの。『私をずっと、死んでも抱き締めて、そのまま動かないで』って。それと同時に、私は倒れこむ。15cmあれば人は溺死出来るらしいから、私はそのまま死ねるし、涼は私を離すことが出来ないから、いつか陽の光で最期を迎えられる。どう、かな?」
槿は、いつもと変わらない笑顔で私に提案する。まるで、旅行先を決めるかのような気軽さで。
「槿、そうじゃない。私が最後と言ったのは、そういう事じゃないんだ。」
「え?」
彼女は、本当に命に未練がないのだろう。だから、私の為に平然と命を差し出そうとする。きっと私は、槿のそういう所にも惹かれていたのかもしれない。
死にたがりの癖に死ぬのを恐れる半端者の私には、持ち合わせていない強さだから。
きっと私は、そんな槿に甘えていたのだろう。けれど、それは最後だ。
槿は望まないのかもしれない。それでも、私は。
「槿、蓮花と、桜桃姉妹の所に戻ろう。俺は、君には、生きて欲しい。生きて、幸せになって欲しいんだ。」




