第136話 桃李満門だった私達から⑨
時を刻む張りの音と、3人の呼吸音。それ以外の音は、一切聞こえない。
アニメのキャラクターの本やゲーム、それにCDにぬいぐるみ。二葉のものに囲まれたこの部屋で、私と一果、二葉は息を殺して、隣室の住人の動向を探っていた。
隣室の住人、つまり月下槿の動向を。
彼女に、私は『岸根涼が部屋に来た場合、すぐに私に知らせろ』と伝えた。そして、彼女はその言葉に首を縦に振った。
だが、彼女が素直にそうするとは、私は思えなかった。昨日の彼女の目は、覚悟を決めた目をしていた。私達と対立しようとも、涼を守る、そういう強い目だった。
「正直、全く気は進まないのです。こんな出歯亀みたいな事を聖職者3人でするなんて。」
集音器を槿の部屋に押し当てながら、二葉は文句を漏らす。片耳は、収音器に繋がったイヤホンをつけている。
「私も、本来はこんな事はしたくはありません。相手が人間同士の恋であれば、ですが。それに、下手をすると、死体がもう一つ増えることになります。私はそれだけは避けたい。」
「それは、どういうーーー。」一果がそう訊ねようとした、その時。
「ーーー涼が来ました。窓から入ってきたみたいです。」
二葉の声が、それを制止する。私と一果は、示し合せたかのように唾を呑み込む。
「会話をしていますが、こちらに来る様子はないのです。ーーー涼の声は、少し遠いのです。恐らく、部屋の外ですね。ーーーえ、だ、抱き着いたのです!一果!むーちゃんが!」
嬉しそうに一果の方を振り向いた二葉は、私と一果の冷めた目を見るなり小さく咳払いをして、すぐにまた収音気に耳を当てる。
二葉は優秀だが、どうも情に流されやすいというか、甘すぎるというか、そういう一面がある。人としては悪いわけではないのだが、エクソシストとしては致命的だ。私は深くため息を吐き、気持ちを切り替えた。
「ここしばらくの出来事を話してます。こちらに連れてくる様子はないのです。」
「僥倖ですね。私も聞きます。」
空いているもう片耳のイヤホンを耳に嵌めて、私も隣の様子を盗み聞く。これで、彼が人を殺したのか、そうでいないのかが分かる。私達が問い質すより、余程素直に答えるだろう。
涼の独白からは、水を堰き止めていたダムが決壊したような、そんな語り口だった。嘘を偽る余裕すらなく、ただ想いと、最近の出来事が口からあふれてくるような、そんな印象だった。
そして、その言葉の節々から漏れる、
『許されてはいけない』
『私が悪い』
『都合よく』
という、自らを責めるような言葉。
確かに、その通りだった。彼は吸血鬼で、あまねく彼の行動は、人に害をなすことに帰結する。だが、それで心が病むほどに追いつめられるのは、少し哀れではあった。
そして、涼の話から分かったこととして、彼は人を殺していない、という事が分かった。私は、胸を撫でおろし、自らのその行動が、人死にが出なかったことに対する安堵なのか、涼を今すぐに殺さずに済みそうなことに関しての安堵なのかが分からず、それが分からない自分に苛立ちを覚えた。
「やっぱり、涼は人を殺していなかったのです。あのヘタレ吸血鬼にそんな大層なことが出来るわけがないのです。」
あくまで収音器から耳を離さずに、二葉は嬉しそうに悪態をついた。
「ねえれーくん。そしたらさ、涼って…………。」
一果も同様に安堵したのか、普段通りの口調で私に話しかけた。
「職務中は連花司教とーーーまあいいでしょう。そうですね。一旦、保護という形にしましょう。」
その言葉に露骨に安堵した様子の一果を尻目に、私は私は収音器から耳を外し、言葉を続けた。
「ただ、吸血衝動が出てしまった以上、私だけの一存でこれ以上の判断をするわけにはいきません。彼を保護したのち、天竺葵大司教に指示を仰ぎます。」
「あー良かったー!昨日から凄い空気重かったから、殺すってなるのも流石にしんどかったし。そしたらタイミング見てさっさとつっきーの部屋行って仕事終わらそー。」
一果も乗り気ではなかったようだが、あくまで職務として割り切ったように見せていたらしい。あまりの態度の急変に私は苦笑する。
「ですから、あくまで天竺葵大司教に指示を仰いでからだとーーー二葉?」
私は収音器に耳を当てたままの二葉の顔がこわばるのを見て、一度話を止める。
「めーちゃん、むーちゃんが。」
二葉のその言葉を聞いて、私は急いで収音器に耳を当てる。
『今日、私と最期を過ごしてくれる?』
壁越しに聞こえたその言葉に、私の背筋に冷たいものが走った。
「急いで隣の部屋に!!」
慌てて扉を開け、そのまま私は隣の部屋に駆け込む。
肩に手を乗せた姿勢で、涼と槿は、驚いたような表情で私を見やる。
「どういうつもりだ、月下槿!!」
もう私には、君達と事を構えるつもりはない。確かに君の行為は許されるものではない。だが、それを裁くつもりもない。だから、2人で死のうとなんて、する必要はない。
私の伝えたかったそれは、言葉にはならなかった。
「すまないな、連花。これで最後だ。」
愛おしそうに槿を掲げて、涼は窓の外に飛び去る。迷いが消えたかのように、彼の動きは素早かった。『連なる聖十字架』を取り出すが、ここで彼だけに当てることが出来たとしても、もし槿が落下したとしたら、無事ではすまない。
私は、羽根を広げ、夜の空に消える2人に、なにも出来なかった。
歯を食いしばり、私はすぐに2人に指示を出した。
「一果、二葉!二手に分かれて捜索します。一果と二葉は共に繁華街の方を。移動中、二葉は病院、椿木さんの家などの彼らにゆかりのある場所に来ていないか、確認をお願いします!車は私の物を使用してください。」
「「はい!」」
緊張の面持ちで、2人はそう頷いた。私達の行動に、1人の人間の命が懸かっている。自ら捨てようとしている命でも、それを見過ごすわけにはいかない。
急いで住居棟を飛び出して、正門に向かっていると、正門前、教会の敷地内に、人が居るのが見えた。
こんな時間に、誰だ?無視をして通り過ぎるつもりで足を進めた。近づくにつれて感じる、異様な気配からその男の顔を見て、私の足は止まった。
「な、何故、何故、貴様がここにいる!!」
「やあ、ごきげんよう。皆々揃ってお出かけかい?気を付けた方が良いよ、この辺りには、吸血鬼が出るらしいから。」
馬鹿にするようなにやにやとした下卑た嘲笑と、笑った口元から見える牙。場所に見合わない、タキシードを着た、金髪の、一見年下の青年に見えるその化物は、エディンムは、強い死の香りをまき散らしながら、嘲るように、口を開いた。
「寂しくてね、来てしまったよ。私とお話しようじゃないか。」




