第135話 飛花落葉だったあなたと、ポストスクリプト
彼女を抱きしめたまま、私はこの数週間の事を、全て話した。
思いついたまま、頭が整理できていないままに言葉としてこぼれ出たそれは、文脈も事の前後も支離滅裂で、理解できないものだったのかもしれない。それでも、槿は黙って聞いてくれた。
槿の首に牙を突き立てそうになったこと、一日しか眠れなくなった原因は鬱なのだと央に明かされたこと、最近、幻聴が聞こえていたこと、人の食事を摂れるようになると信じていたこと。
それら全てを彼女に話した。少しだけ沈黙が続いて、
「それで、涼は今、どうしたい?」
槿が、それを破る。耳元から聞こえる彼女の声は、優しく響いた。
「…………分からない。許されるなら、また君をこうして抱きしめたい。けれど、そう遠くない日に、きっと私は、その気持ちと吸血衝動の境が曖昧になる。…………それが、怖い。」
「…………そう、なんだ。」
「けれど、これから人間を殺してしまったら、もう君に会う事は、許されない気がする。」
これまで、私は何人も人を殺してきた。だから、今更こんな事を言い出すのは、私のエゴであるのかもしれない。けれど、私はこれ以上誰かを殺したくはなかった。
「人も殺したくはない。死にたいが、君と一緒にいたい。けれど、その2つはきっと両立しない。私は、自分がどうしたいのか、どうすればいいのか、それすらも分からなくなってしまった。」
「…………私と一緒なら、どうかな?」
槿のその言葉の意図が分からず、私は彼女の肩に手を置いたまま、少し離れて、槿の顔を見る。彼女は、どこか嬉しそうに目を輝かせていた。
「ずっと、思っていたんだ。こんな夜が最期だったらいいなって。涼と一緒なら、あなたの為に、私の命が使えるのならば、とても素敵。」
心の底から嬉しそうな笑顔で、彼女は言った。
「今日、私と最期を過ごしてくれる?」
彼女は、私への同情でそう言っているわけではないことが分かった。きっと、それも本心なのだろう。
槿は、きっと自らの命が、大したことのないものだと、そう思っているのだろう。
自分にとっては大したことがないけれど、相手にとっては大切に見えるものだから、自らの要望を通したい時、何かを伝えたいときに、気軽に差し出す。アイリスを納得させた時も、私が椿木に催眠をかけた事を言及した時も。
私にはそれが悲しかった。けれど、きっと、これも私が愛した彼女、月下槿の一部なのだろう。
だから、私はーーーー。
その時、強引に扉が開く音がして、私は振り返る。憤怒の形相をした連花が、肩で息をしながら槿の部屋に入ってくる。
「どういうつもりだ、月下槿!!」
槿と何か約束を交わしていたのか、それとも話を聞いていたのか、私には彼の言葉の意味が、定かではない。だが、私の行動は決まっていた。
「すまないな、連花。これで最後だ。」
槿を抱きかかえて、私は窓の外に飛び出す。連花はすぐに『連なる聖十字架』を振るおうとしたが、槿に当たることを躊躇する間に、私は羽根を広げ、夜の空に飛び去った。
今日は、雨が降っていない。そんなことに、私は今更気が付いた。高度を上げて、建物が眼下にしかない高度を上げて、私はそこで制止する。
「強引で申し訳ないが、久しぶりにするのも悪くないだろう、『夜の逃避行』も。」
私の腕の中で、槿は小さく笑った。
「クリスマス以来だ。今回は、普段通りの口調なんだ?」
「…………あの時は、色々と上手くいっていて、気分が高揚していたんだ。今とは真逆だな。」
自虐的に私は笑う。不思議と、この数日ずっと感じていた倦怠感も、幻聴も聞こえない。
夜の空に、私は彼女と2人きりだった。ほとんど満ちた月だけが、私達を見守っていた。
「槿。どこか、行きたいところはあるか?」
私がそう訊ねると、彼女は少しだけ悩んだ後、
「そうしたら、海に行きたい、かな。今まで一度も、海で遊んだことがないから。」
「わかった。海だな。」
高度を落としながら、私は海岸に向かう。
景色は、星は、光の筋となった。
「ありがとう、涼。この綺麗な景色をまた見ることが出来て、凄く嬉しい。」
「…………感謝しなければならないのは、私の方だ。」
冬の空のように澄んだ空気が通り抜ける。私と槿の、最後の逃避行が始まった。




