第133話 流れ出る血潮
「……放っておいてくれ。」
私は彼にそう懇願した。最後の力を振り絞った身体は、もはやほとんど動かない。彼が目の前の人間を連れて帰れば、きっとそれで死ねる。
殺してくれと頼むのは、恐怖で出来ない。けれど、人を殺したその顔で、槿には会えない。だから、もう、このまま、1人死にたかった。これ以上、耐えれなかった。
その言葉に、彼は不愉快そうに眉を歪め、嘲笑の笑みを浮かべる。
「へえ?『愛しの君に合わせる顔がない。放っておいて、殺してくれ』って?いいじゃないか。素敵だ!自分の命より、彼女の方が大切なわけだ!」
わざとらしく、声を上げて笑う。だが、その声はどこか震えていた。
「今までだって散々人間の血を啜り殺してきたじゃないか!別に今から一人増えたところで一緒さ、そうだろう?」
「どうでもいい。もう、疲れた。」
彼は、一層大きな声を上げて笑った。それが虚勢めいていて、虚しく響いていた。
「実はさ。少し君が血を吸わないかもしれない、とは思っていたんだ。」
ひとしきり笑った後に、彼はつまらなそうにそう呟いた。
「どうやら、あの女との勝負は、私の分が悪いみたいだね。まあ、それに関しては私にとっても都合が良いけれど。」
「…………あの女?」
私は、その言葉に反応した。彼と関わりがある人間なんて、連花と槿くらいだ。消去法で槿という事になるが、何故そう言うことになっているのかすらも、
「おや、聞いてないのかい?」
意外そうな顔で、彼は私を見つめた後、見下すように口角を上げた。
「駄目じゃないか。長く人間関係を続けるコツは、相互理解だよ。相手が何を考えているのか、相手が何をしたいのか。それと、自分がどうしたいのか、何を考えているのか、しっかりと話し合わないと。」
そう言いながら彼はしゃがみこんで、倒れている私の髪を掴んで、無理やり頭を持ち上げる。彼の声は余裕を取り戻していた。
「そうじゃないと、取り返しのつかないことになるよ?例えば、『愛しの君がこの後化け物に殺される』、とかね。」
「ふざ………けるな…………!!」
私は必死に腕を動かして、彼の胸倉を掴む。
彼は驚いたような顔で私の目を見つめて、すぐに、今まで見たことがないほどに恍惚とした表情を浮かべた。
「ああ………!!いい目だ、いい目だよ!それだよそれ!僕が一目惚れしたのは、君のその目だ!」
「そんな事はどうでも……いい、槿に近付くな……!!」
「いやぁ、残念ながら、それは出来ないなあ。けれど代わりに、ご褒美をあげよう。君と、あと女へのご褒美だ。」
そう言うと、彼の右腕が黒い霧に包まれて、再び手の形を成した時に、彼の手には、何かが握られていた。
透明なビニールのパウチに、鮮烈なまでに赤い血液が詰め込まれたそれ。
「あ、ああ……!」
「輸血パックさ。私としても、君に死なれては困るんだよ。これなら、血を吸った人間も死なないし、君の心も痛まないだろう?」
彼は、笑いながら私に差し出した。
渇望に、彼への怒りを忘れた。彼への怒りで抑制出来ていた吸血本能は、あまりに濃厚な血液の存在感に我を忘れて、彼の腕からそれをひったくり、牙を突き立てる。ぷつ、という小気味いい感覚で、ほとんど抵抗はなく牙は突き刺さった。
温度が低いのもあるのか、粘度の高い赤い液体が、牙を通して体内に入り込む。
喉を鳴らす度それは体内に流れ込んで、砂漠に水を撒くように、私の身体はそれを吸収した。
そして、訪れる、満ち足りたような多幸感ーーー。
それが、訪れなかった。過去に吸血をした際は、罪悪感と、それと同等の多幸感に満たされた。それが、無い。
力が入らなかった身体は動くようになった。けれど、何かが満たされない。渇きは満ちた。けれど、心には飢えが残る。
「ククッ……。」
彼は、動揺きた表情の顔の私を見て、愉快そうな表情で、必死に笑いを堪えていた。
「い、いやぁ。君もダメだったかぁ。…ッ、実はさ、私も試したんだよ、それ。そしたらさ、どうやら、フフッ、これ、成分を調整されているみたいで、通常の血液とは違くてさ人に入れる時に、必要な物だけ入っているらしい。……ッ、フフフッ。フハハハハ!!」
遂に彼は、腹を堪えきれずに笑い出した。
「アハハハハ!どうやら君に、本当に必要な物は入っていないみたいだねえ!これで分かったろう?君は化物なんだよ!人間の餌を食べた所で人間になれるわけが無いじゃないか!!」
「ッ!だ、だが、確かに食事の量は減っていた!」
「そりゃあそうさ、胃の中で圧縮される訳だから、減ったように見えるだろうね。もちろん、私達の胃袋は言葉の通りただの『袋』だから、消化なんて出来ないけれど!まさか、フフッ、それを消化と勘違いしていたのかい?」
そんな、まさか。
私のその表情を見て、彼はまた高笑いを浮かべた。
「す、睡眠はどうなんだ?ヴラドは、人間の生活にーーー」
「はあ?ヴラドは真祖だよ?彼が人と過ごしたいなんで思う訳ないだろう。ちょっとは考えなよ。ただのメランコリーさ。鬱だよ、鬱。」
嘘だ。頭ではそう思っていた。だが、確かに彼の言葉の通りならば、辻褄が合った。
そんな、私が希望だと思っていた物が、ただの精神の不調だったなんて。
「まあ、いいじゃないか。色々やって、諦めがついただろう?アミューズは楽しめたかい?オードブルからポワソンはいらないだろう?メインディッシュはいかが?」
彼が視線を送った先には、先程の人間。彼のかけた催眠のせいだろう。私が押し飛ばしたあとも、そのまま倒れ込んでいた。
駄目だ。駄目だ!そう思っても、飢えた心は惹かれていく。一歩一歩、私の足は近づいていく。
だが、3歩進んだところで私は辛うじてその欲望に抗えた。駄目だ、これをしてしまったら、私は槿に、彼女達に会えなくなる。
そうだ、槿に会いに行くんだ。そうすれば、きっと耐えれる。大丈夫、それで大丈夫だ。
私は、窓の方を向いて、ここから逃げ出そうとした。
「ああ、言い忘れていたよ。」
彼の声に、私は振り返る。彼の顔は、今まで見たことが無いほどに、邪悪に歪んでいた。
「随分、男前になったじゃないか。ほら。」
そう言って、彼は手鏡を私に向ける。そこには、何も映らない。
すぐに私は部屋から飛び出す。彼の高笑いが、夜の空に響いた。
吸血鬼は、吸った血液によって、姿を変える。私は今、どんな顔をしている?槿は、私に気がついてくれるのか?




