第132話 狂い回る歯車
教会から逃げて、自らの本能から逃げようと夜の空に逃げた。
逃げて、叫んで、けれど、すぐにどこにも行き場がないことに気が付いた。羽根を畳んで、出来るだけ人間から遠い、高いビルの屋上に座り込む。頭は重くて、垂れた頭はそのまま地面に落ちてしまいそうだった。それで死ねるのならば、そうしたかった。
そこからでも、地を歩く人間が鮮明に見える。声が聞こえる。人間の匂いが、むせ返るように鼻腔を満たす。
どこにいても、喉は死灰らしく渇いて、口腔は槁木らしく自らを潤すものを求めた。心はそれを拒むのに、身体は血を求めていた。気が狂いそうだった。
どこにも行くことが出来なくて、どこにいても欲に溺れそうになる私は、せめて人間が視界に入らなくてもいい場所に、自らの部屋に逃げた。
何も、考えたくない。それが、自室に帰った私がまず考えた事だった。
ベッドの下にしまっていた、埃の被った棺桶を引っ張り出して、全てを遮断するようにその中に身を隠した。
重い蓋を閉めると、外界と完全に遮断されたからか、人間の気配は多少薄まったような気がした。けれど、その隙間を埋め尽くすように、槿への罪悪感とより純粋な飢えが心を蝕む。
外に出て、人間を殺せ。血を啜れ。槿を殺すよりはマシだろう。
「………うるさい。」
それしか、喉の渇きを満たすものは無いことくらい、お前にもわかっているはずだ。
「まだ、分からないだろう。」
日が入らない棺桶の中で、鳴り止まない幻聴と私は話続けた。そうする事で少しだけ、喉の渇きから気が紛らわれるような気がした。
完全に遮断された空間の中で、存在しない何かとひたすら話し続ける。完全に時間の感覚が狂って、もはや進んでいるのか、止まっているのかもわからなった。
瞼は重いのに、寝てはいけないような気がした。今、何かが切れてしまっては、それが何かの最後のような気がしていた。
だから、幻聴と話し続けた。何度も途切れそうになる意識を繋ぎ止めながら、
私は、
幻聴とーーー
ーーーーーー
胸から、灼けるような痛みがした。私は目を覚ます。
痛い、痛くて、苦しくて、喉が渇く。腹が減った。
最早身体には力が入らない。棺桶の蓋を、気が狂いそうになりながら開ける。頭が重い。瞼が重い。意識が遠い。
吐かなくては。何を?ああそうだ。昨日は人間の食事を食べていない。だから、これから血を吸いに行かなくては。
違う。駄目だ。これ以上そんなことをしたら、もう私は自分を許せなくなる。そうだ。このまま耐えれば、餓死できる。それで、死ねる。
死ぬのは怖い。槿に、会えなくなる。嫌だ。けれど、もう、どちらにせよ彼女には会えない。
頭の中はまとまらない。泥の中をもがくように、這いながら玄関に向かう私は、もはやどうしたいのかすらわかっていなかった。生きていたいのか、死にたいのかすらも。玄関まであと数mという距離まで来たところで。
鍵が、回る音がした。
私の部屋の扉だ。珍しい事もあるものだ。いや、そんなわけがない。私の部屋に訪問客が来たことなどなかった。合鍵など、誰も持っていないはずだ。
ドアノブが降りて、扉が開く。外気に乗って、人間の匂いが流れ込む。
部屋の中に入ってきたのは見たことのない人間だった。
身体のすべてが逆立つ。飢えた私の身体には、蠱惑的なまでに魅力的に見えた。
私は素早く立ち上がって、その人間の肩を掴み、部屋の奥まで引きずり込む。不思議なほど、抵抗の意志は見られない。その勢いのまま地面に押し倒す。
頭と肩を抑えて、首筋に牙を突き立てようとした。その時、微かに残る理性が働いて、その人間を押し飛ばした。
「ハァッ!…………ハァッ、ハァッ!!」
息が乱れる。牙が疼く。血を吸って楽になってしまいたいのに、この数か月が、私にそれをさせてくれない。
最後の力を振り絞ったのか、私はその場に倒れこむ。もう、力が入らない。大体、目の前の人間は何なんだ。
私が押し飛ばした後、虚ろな目をしたまま一切動く気配が見えない。殺してしまったのかと思ったが、呼吸がしているのが見えた。
何故、彼女はこの部屋に入ることが出来た?何故、入ってきた?欲望に飲まれかけた回らない頭で必死に考えるが、何も思い浮かばない。
「おや、随分辛そうじゃないか。」
聞き慣れた、嘲笑うような声が聞こえた。
倒れたまま、その声の方を向く。彼が、央が玄関から入ってきていた。彼から漂う死の匂いが、明かりの付いていない部屋の闇を深くした。
「な、何故………」
掠れるような声で、私はかろうじてそう訊ねた。
「この部屋は、元々私が契約した部屋だろう?だから私の部屋でもある。部屋に入るのに君の許可はいらないのさ。鍵なんて、簡単に作れるしね。」
そう言って、自らの身体を鍵に変えてみせる。
「ああ、そっちじゃないか。」
彼の声には、愉悦が漏れていた。
「お腹が、空いただろう?丁度今日、人間が一匹、樹海に迷い込んでいてね。私は優しいから持ってきてあげたよ。君の『ご飯』だ。」
目の前の悪意は、顔を歪めて笑う。
今日は、木曜日だったのか。だから、彼がいるのか。
私の回らない頭は必死で現実から逃れようとした。だが、もうそれが無理な事を、本当は分かっていた。




