第128話 流れ出る血潮
また同じ事があるかもしれない。だからもう、電車を使う訳にはいかなかった。
私は初めて降りた名前も知らない駅を出て、ビルの谷間に隠れるようにして、足に力を込めた。
雨のぶつかる音風を切る音と共に雑踏は遠ざかり、私は雨空に孤独になる。雨音だけが、夜の空だけが私に寄り添った。
だから言っただろう。お前は化物だ。人間に適応できるわけがない。
また、幻聴が聞こえる。これも雑踏と共に置いて行くことが出来れば良かったのだが、当然そんな都合のいい事など私に起こるわけが無い。
羽根を広げずに、見た事のある景色を頼りに教会に向かって飛んでいく。
初めて槿に出会った時に、広範囲に蝙蝠を飛ばしたので、この辺りの景色にも見覚えがあった。
だからすぐに教会の方向が分かった。その方向に真っ直ぐ私は夜の空を駆ける。
しばらくして、教会に辿り着いた私は、体に付いた雨粒を払い、正面玄関から居住棟に入った。
すると、リビングの方から槿の声が聞こえる。珍しいな、そう思いながら私はリビングの扉を開けた。
「包丁を持つ時は、もう片方の手は猫の手にするんだけど、分かる?猫の手。」
一果がキッチンで、熱心に槿に教えていた。恐らく、包丁の使い方だろう。
「に、にゃーん?って、事?」
槿は首を傾げながら、少し開いた拳を顔の横に置いて、手首を少し曲げる。恐らく猫の真似をしているのだろう。
「全然違うけれど、可愛いからそれでいいのです。」
「いやダメでしょ。全然違うんだし。」
以前桜桃姉妹が料理をさせてくれないと嘆いていたが、何か状況が変わったのだろうかと疑問に思いながら、私は声をかけることにした。
「何やら、楽しそうだな。」
「わっ!……びっくりした。今日、早いね。」
驚いた様子で槿はこちらに振り向く。幸い、包丁は持っていなかった。槿にそう言われて時間を見ると、時計は夜の8時を指していた。
「……確かに、早いな。」
意図した訳ではなかったが、普段より2時間近く早い時間に着いていたようだ。また、睡眠時間が短くなっていたらしい。
「でも、ちょうど良かったかも。」
槿は自信ありげな表情で鼻を鳴らして、誇らしげに少し胸を張っているようだった。
「今、一果と二葉に料理、教わっているんだ。」
「『まずは包丁の使い方だけね』って言ったと思うんだけど……。」
少し呆れた表情で一果は槿を見つめる。
「でも、包丁が使えたら大体の事は出来るようになったって、言えると思う、けれど。」
きょとんとした表情を浮かべる槿を見て、今度は二葉が頭を抱える。
「なんでむーちゃんは料理関係だと途端にポンコツになるのですか……。」
その光景を眺めながら、微笑ましい気持ちになった私は椅子に腰掛ける。
「そういう事なら、私はここで見守っていよう。怪我だけはしないようにな。」
「大丈夫。包丁は、昔から見た事があったから。」
無根拠な自信を掲げ仮想的有能感を振りかざす槿を見て不安は増すばかりだ。本当に二葉の言うように、槿は何故料理に関連する事だとここまで抜けているか不思議だ。
それからも実践を交えた説明を受けながら、両脇を一果と二葉に見守られながら、ついに槿は何かを切り始めた。
サク、サクという水分を含んだ不慣れな切断音が、不規則なテンポで聞こえる。
背中で隠れてこちらからは見えないが、話している内容や音から、キャベツを切っているらしい。
しばらく席に座ったまま観察していたが、ここからは何も見えない。焦れた私は、こっそりと二葉側から槿の手元を覗くことにした。
私が近付いているのに気が付いた二葉は、少し槿から離れて私が入れる空間を開ける。
私は小さく笑い、その空間に、身体を入れる。真剣な表情で、槿は丁寧に何枚か剥がしたキャベツの葉に、ゆっくりと刃を入れていた。
自信満々だった割には丁寧な手付きで私はほっと胸を撫で下ろす。
槿は、今日は白いワンピースを着ていた。サラサラとした生地をしていて、恐らくこれも寝巻きなのだろう。
少し開いた首元からは細身だからか、鎖骨が浮き出て見える。白く陶器の様な肌は、牙を突き立てたとしたら抵抗なく突き刺さりそうだ。
その首からは赤い鮮血が溢れ出て、ワンピースと肌には細い血の痕跡が出来る。
私の渇きを唯一満たすその血液は、灰で出来た私の身体を巡りーーー
「え、いつの間にーーー、っ!」
槿の驚いた表情で、私は我に返る。が、すぐに彼女が口元に持ってきたその細い指に目が奪われる。
血が、流れ出ていた。牙か疼く。喉が、砂漠のようだ。
呼吸が乱れーーそこで、はっとする。
私は仰け反るように槿から離れて、乱れた呼吸を必死で整える。私は、今、何をしようとした?
何に、牙を突き立てようとした?
「え、え?どうしたの?涼。」
急な私の動きに、彼女は状況を整理できないような目付きで、左右を見る。
一果と二葉は、十字架を握り、私を、ああ。やめてくれ。そんな目で私を見ないでくれ。
違うんだ。そんな事はしない。すまない、ごめん、槿。
「なんでもない、なんでもないんだ。」
そう言いながら、私は彼女達の顔が見れない。分かっていた。分かっていた。私は、化け物だ。
「今日は、もう帰る。ごめん、槿。」
「え?涼?」
逃げる様にして、扉を開けて、私は夜の空に一人消える。
私の嘆く声は、雨に消えた。




