第115話 桃李満門だった私達から④
ただでさえ光が射さない教会の森は、月が覆われているような日はほとんど何も見えない。まさに『一寸先は闇』といった具合に。
私は一心に『連なる聖十字架』を振るう。涼との模擬戦ではカバーを外すわけにはいかないから、こうして何も付けずに振るうのは1人でなければできない。
手首を返し、手元から加速された十字架は、暗い闇に微かに残る光を集めて銀鉤の一閃を描く。触れた雨粒が、高い音を立てて弾けた。
降りしきる雨が、私の身体を濡らす。雨は嫌いじゃない。様々な恵みをもたらすし、冷たくて、心地いい。身体が冷えると、冷静にものごとを考えられるような、そんな気もする。
涼は、何かを隠している。恐らく最近の彼の変化について、つまり『睡眠リズムの変化について』だろう。
私は他人の感情の機微についてあまり気が付く方ではない。それでも分かったのは、そのくらい彼の態度が分かりやすかった。
その話をした途端に泳ぐ目と、罪悪感を感じる態度。恐らく確信に近いところまで辿り着いている。だからこそそれを言わない事に後ろめたさを感じているのだろう。
恐らく、あの様子からして問い詰めた所で彼ははぐらかすだろう。結局私は1人でその正解に辿り着く必要がある、という訳だ。
苛立ちをぶつけるように、力任せに『連なる聖十字架』を振るう。少し軌道が歪んだのか、著しく速度を落とす。
聖具に怒りをぶつけるものではないなと自省し、顔にまとわりつく雨粒を手ではらい、息を整える。
冷えた頭は、昨日、常磐司祭とした話を回想した。
ーーーーーー
「最近、よくこちらにいらっしゃいますな。今日もこちらで?」
教会の掃除をしていた常磐司祭の手伝いが一段落ついて、少し伸びをしていると常磐司祭はそう私に話し掛けた。
最近、涼との模擬戦、及び監視を兼ねて住居棟の2階で連日過ごしていた。エディンムとその眷属に関する書類に関しても天竺葵大司教に許諾を得てこちらに送って貰っている。
いくら今は関係が改善され、彼が友好的な人物であるとはいえ啓蒙派の彼からしたら自らの教会に求道派の私が連日のように入り浸るのは良い気がしないかもしれない。
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。ただ、……少し理由がありまして。」
そう言って彼に納得してもらうしか無かった。吸血鬼と休戦協定を結んでいることは極秘事項だ。無用な混乱を招くことがないよう、誰にも話すわけにはいかない。
「ああいえ、そういう訳ではなく。」
慌てたように、常磐は顔の前で払うように手を動かして私の話を否定する。
「もし今日暇でしたら、一緒に飲まれませんかとお誘いしようと思ったのです。何度かお会いした事はありましたが、あまり2人でお話する機会はなかったでしょう。」
そういう話か、と私はほっと胸を撫で下ろす。
「是非、そういう事でしたら。私も一度常磐司祭とお話をできる機会があれば、と思っておりました。」
「またまた。連花司教は社交辞令もお上手ですな。きっと啓蒙派でも大成されたでしょう。」
そんな事は、と愛想笑いをする。実際社交辞令なのだが、あながち社交辞令でもない。
彼くらいの歳でここまで求道派に友好的である事は珍しいし、役職が上とはいえ歳下の私にもここまで丁寧に対応をしてくれる人も稀だ。前から気になる人物ではあった。
そして、その日の夜。近くのスーパーで買ってきたものをつまみに、この前の花見よりも落ち着いたペースで呑みながら、常磐司祭と私は2人で食事をとる事になった。
話の内容は、別に大したものではない。お互いの聖書の解釈についてや信仰とはどうあるべきかという話から、歳を取ると体力が落ちるだとかそういう大した事もない話まで、ざっくばらんに和気あいあいとした雰囲気で話していた。
そんな時、玄関のドアが開く音がした。微かに外の雨音が聞こえて、すぐにまた戸が閉まると共にその音は聞こえなくなる。
「来客ですかな?」
少し中腰を浮かせて玄関に向かおうとする常磐司祭を手で制止する。
「足音からして涼でしょう。槿さんの部屋に向かいますから、放っておいて問題ありませんよ。」
「足音で分かるのですか?流石ですな。」
驚嘆の表情を浮かべて、常磐司祭は再び椅子に座る。
「ええまあ。五感には多少自信があります。」
そう言って、残っている唐揚げを一口で頬張り、ワインで流し込む。
私の話に感心するように首を何度も頷いた後、常磐司祭は少し憂うような表情をする。
「岸根さんとは、あまり話したことはありませんが。……彼は、少し危ういですな。」
「……危うい、とは?」
彼は少し考える様な顔をして、言いづらそうに口を開いた。
「目が、酷く暗いのです。まるで、先に何も望みがないかのように。そういう目をした人は、死を望むことがままあります。ですがそれは誰も望まない結末でしょう。」
涼の自殺願望に、彼は気が付いたらしい。彼も私のと似てに人の心に鋭い方では無いと思っていたが、そういう訳でもないようだ。長く生きているだけある。
「彼からそういう話を聞いた事はありませんね。一応私から少し話をしますが、恐らく気のせいだと思いますが。」
彼が涼に積極的に関わらないよう、やんわりと否定する。
「もちろん、そうである事を私も望んでおります。ですが、心の片隅に置いておいてくださいますか。先輩の助言として。」
「ええ。人生の先輩の助言として。」
常磐司祭は頭を掻きながら、少し恥じるようにはにかみながら言った。
「いえ、そうではなく。」
持っていたワイングラスを置き、左腕の神父服の袖をめくる。私は、それを見て思わず目を見開いた。
「こちらの先輩として、です。」
彼の枯木のような手首には、いくつもの古傷が残っていた。何本も、何十本も横に伸びた、一見ミミズ腫れのようにも見えるそれは、過去に彼が死を望んでいた事を雄弁に語っていた。




