第113話 虚実古樹の私から⑩
「えー……分かりました……。」
明らかに気が乗らない様ではあったが、眷属である彼は私の命令には逆らう事ができない。それにしても、私にこんな態度を取るのは彼くらいだ。 彼は彼で愉快な奴だ。名前すら怪しかったが。
「ありがとうございます。イライシャ様。」
「気にしないでいいよ、命令だから。うわ、肌汚なー。」
イライシャは嫌々、彼女の首元に上と下の犬歯両方を突き立てると、彼女の身体が大きく跳ねる。
イライジャが嚥下する度、彼女の体は小さく悲鳴を洩らす。だが、段々身体の力が抜けていき、遂に最後の一滴を飲み干すと同時に、イライシャは牙を抜いた。
「何故この女を、吸血鬼にしようと?」
首元のジャボで口を拭きながら、イライシャは私に訊ねた。
「恵まれない人への施しさ。聖十字教団の信徒としてね。」
私の発言に眉をひそめるような表情をする彼を無視して、力無く死んだまま座り込んでいる彼女を眺める。
ピク、と小さく彼女の身体が揺れた。それと同時に、手足が再生し、徐々に手足として形を成す。爛れた肌は逆再生のように治っていき、滑やかな、血の通っていない真っ白な肌となる。
髪も生え揃い、溶けた眼球も再生する。彼女の目は、鮮血のような、真紅の瞳だった。
一度死んで蘇ったばかりの彼女は寝起きのような、少しだけ呆けた表情をしていた。そんな彼女に声をかける。
「おめでとう。今日が君の化物としての誕生日だ。気分はどうだい?」
マリアはそう声をかけた私を数秒ただ眺めた後、うっとりとした、大切な物を慈しむような、崇拝する者を崇めるような表情を浮かべた。
「我が主よ。貴方様のおかげで、私は再び生きることが出来ています。神が私に与えたものは、節制と腐敗でした。ですが、あなたは私に永遠を与えてくださった。」
「与えたの僕だけど。」
茶々を入れるイライシャを無視して、彼女は話し続けた。
「であれば、私の神は貴方様です。この血を、肉を、全てを捧げます。」
ボロボロのシスター服のまま、彼女は私に跪く。
面白い。私を畏れ敬うものは大勢いたが、神と崇めるものは今までいなかった。しかもそれが元シスターだと言うのは中々愉快だ。
「イライシャ、彼女を私にくれないか?代わりに第一眷属のオエノラをーーー」
君の下に付けよう、私がそう言う前に、イライシャは慌てたように手を前に差し出して、私の言葉を遮る。
「やめてください。そんな事をしなくても、私の眷属はあなたの眷属でもあるんですから。それに私はオエノラの従者です。」
「だから面白いんじゃないか。彼がどんな顔をするか、今にも見ものだ。」
いつも余計な事ばかりしやがって、と言いたげな表情をする彼を見て、私は少し満足した。
それに、今日は愉快な出来事があって少し気分が良いのでこれ以上彼を虐めるのはやめることにした。
「思っていたより、親しみやすい方なのですね。」
私とイライシャのやり取りを見て、マリアは小さく微笑む。
「どこがだよ。普通にやばい人だよ、この人。」
「君のそういう軽口を許してあげている所じゃないかい?多分ヴラドなら殺しているね。」
怯える表情を見せるイライシャをよそに、コホン、と小さく咳をして、私は話を戻す。
「ではマリア。『君は、その血も肉も、全てを捧げなくてもいい。好きにするがいい』。」
私のその言葉を想定していなかったのか、マリアは紅い瞳を見開いた。
「契約でも命令でも、君に何かを捧げさせるつもりは無い。けれど、私の下に付くがいい。私に尽くすといい。それはあくまで君の意思で、だ。」
この女がどのようにその信仰を私に対して見せるのか。私はそれが見たかった。けれどその間に契約などがあっては興醒めだ。
彼女の意思が悠久の退屈を埋める。そんな期待があった。 私の言葉を聞いた彼女は、一瞬放心したような表情を見せ、すぐにその表情は熱を帯びた笑みに変わる。
「主よ、その寛大な御心、身に余る光栄でございます。ですが、せめて貴方様への忠誠を誓う事を証明させて頂きたく存じます。お傍による許可を頂けますでしょうか?」
傍に、と言っても精々数m程度しか離れていないが、より近くによる、という事なのだろう。
「別に構わないよ。何をしたって。」
なんなら、殺そうとしてくれてもいい。当然殺し返すが。
「身に余る光栄でございます。」
そう言って彼女は立ち上がり、私の顔のすぐ近くに、その顔を寄せる。
思っていたより近いな。吸血鬼同士がこうして向かい合ってもその瞳にお互いは映らないのだな、とどうでもいい事を考えながら、ここから彼女が示す忠誠とはなんだろうか。そんな事を考えていると。
マリアの唇が、私の唇と重なった。
柔らかくしっとりとした冷たい唇に、流石の私も驚いて、キスをしている最中だと言うのに目を見開いて彼女の顔を凝視する。
少し顔を斜めにして唇を重ねている彼女も何故か目を開いており、目が合う。
数秒そのままの状態が続いて、彼女は名残惜しそうに目を閉じた後、灰が彼女の目の周りを多い、レースの布へと変身し、彼女の目を覆う。
彼女は私から離れると、先程まで着ていたシスター服は気が付くと脱ぎ捨てて、黒いドレスを身にまとっていた。
まだ吸血鬼になって数分だと言うのに、変身をここまで使いこなすのは、中々お目にかかれない。私は思わずほお、と感嘆の声を上げる。
「私が最後に見る光は、貴方様のみです。今後この瞳は最後まで開かれる事は無いでしょう。これが、私の貴方様への愛と忠誠の証明でございます。」
そう言って閉じた瞳で穏やかに笑う彼女と愉悦の笑みを浮かべる私をイライシャは交互見て、分かりやすく取り乱している。
かなり飛んだ彼女の行動に、私は期待以上のものを感じて、声を上げて笑った。
血の通っていない化物同士の口付けの余韻が、ほのかに熱を帯びているような、そんな気がした。




