第112話 虚実古樹の私から⑨
マリアとの出会いは、今から50年くらい前。雪の降る夜の事だった。
数日前に吸血をしたばかりで腹も膨れていたし、別に出歩く必要もなかったけれど、なんとなく、街を歩きたい気分だった。
スラムの方はあまり歩いたことかないな、という完全な物見遊山で、大した意図は無い。本当に、偶然だった。
大通りから外れて、細い路地を通ると、大きなスラムがある。外壁は至る所が崩れていて、寝静まったと言うよりは、獣が姿を潜めているような、そんな不気味な静けさだった。
生憎吸血鬼の私はほとんど視認されることが無い。だから悪党に絡まれるみたいな楽しい事は全くなく、ただ何やら喧騒が聞こえれば覗きにいったりと、本当にスラム見学、といった心地だった。
ふと、崩れた教会が目に入った。少し前に壊れたばかりのように見える。私達吸血鬼のような化物が壊したか、あるいは金目の物があると見越した強盗が皆殺したか。
どちらにせよ、ざまあない。神なんて適当なものに縋るからそうなるんだ、という気持ちで私はその教会を眺めていた。
「申し訳ございません。」
ふと、足元で呻くような声が聞こえる。横目で見たが、人間にしてはどこか違和感のあるシルエットをしている。私に話しかけているのではないだろう。
そう思い無視していると、再度、
「あの、申し訳ごさいません。」
という、声が聞こえる。
どうやら私に話しかけているようだと気が付いた私は、そこで初めて声の方に顔を向ける。
恐らく人間の女がいた。恐らく、というのは女の方ではない。恐らく、人間という意味だ。
両手足が黒く腐り、肘、膝より先は無くなっていた。
眼球は溶け落ちて、身体中には疱瘡と、至る所が爛れて出血と膿になっている。銀色の髪は、至る所が禿げていて、臭いもひどい。死んでいないのが奇跡なくらいだ。
辛うじて、彼女が着ている服装がシスター服だと言うことがわかった。けれど、それも土やら彼女の体液で汚れていた。
「もしかして、私に言っているのかい?」
私が見えているのか、と私は驚いた。
「ええ、そうです。よかった。」
顔をこちらに向けないで、彼女の口元が笑うかのように歪んだ。その声は嗄れていて、恐らく喉も爛れているのだろうという事が分かる。
「私の話を聞いてくれませんか?」
聖十字教団の連中に頼まれる事と言えば『死んでくれ』か、『殺さないでくれ』と言われる位で、『話を聞いてくれ』と言われたのは初めてだった。
「構わないよ。中々楽しそうだ。」
私は本心からそう言うと、彼女はまた微笑むように顔を歪めてぽつりぽつりと話し出した。
「私は、この教会のシスターでした。恵まれない人達への施しと、主の教えを広める事が、私の仕事でした。」
「私は、誇らしく思っておりました。しかしつい数日前。『除霊派』のエクソシストが、聖戦と称して、この教会を襲撃しました。」
「私達『啓蒙派』は、ほとんど奇跡が使えません。一方的に彼らに蹂躙され、殺され、嬲られました。」
「私は、『死にたくない』と必死に叫びました。そんな私を見て彼等は笑いながら、私の手足を引きちぎり、その上で『腐敗の神罰』を私にかけたのです。」
よくある話と言えばよくある話だ。いつからか聖十字教団の奴らは勝手に派閥を作り、『自らの方が正しい』と、他派閥の奴らを殺している。
それを聖戦と名乗っているらしいが、なんともまあいかにも人間らしい正当化だ。私に話しかけ同種で殺しあっている時点で何も正当性などないように思えるが。
私は気まぐれに吸血鬼を殺すが、正当性が無いことは充分に自覚している。それはそれとして楽しいのが悪い。
「確か、『腐敗の神罰』は『起日譚』の奇跡だったかい?」
「よくご存知ですね。自らの美貌にかまけていたアガドに神が与えた罰の事です。」
「お褒めに預かり恐縮だね。こう見えて信心深いんだ。まあ君からは見えないだろうが。」
そう言って笑いながら、私は内心あきれ果てる。『起日譚』の奇跡ならば、かなり上位のエクソシストしか使えないはずだ。そんな奴がわざわざ嬲る為だけに出向くなど、本当に愚かだ。
おかげで私のような化け物は鬱陶しい奴らに絡まれずに済んでいる、というのはありがたくはあるが。
「そうかい。それで、私は君の無くなった手の代わりに祈ってあげればいいのかい?」
私の皮肉に、彼女は小さく笑う。
「私は、この腐りきった身体のおかげで、数日スラムに放置されましたが、幸い犯される事はありませんでした。つまり、今も処女だ、という事です。」
彼女はそんな事を言ってくる。意図が読めず、彼女の顔をまじまじと見るが酷くただれており、表情がほとんど読めない。
「それはあれかい?『せめて最期に天国を見せて欲しい』ってことかい?確かに、私は女泣かせではあるけれど。」
「地獄行きでもいいから、生きていたい。神を捨ててでも。それが、最期に私に残った願いなのです。そして、余命幾ばくもない今、奇跡的にあなたが来た。」
なるほど、彼女が私を知覚出来た理由がわかった。彼女は、どうやら、私に用があったらしい。
見えないその瞳で、何故私に気付けたのかはよく分からないが。
「私を、吸血鬼にして下さい。そして、永遠の命を。」
その言葉に、彼女の強い熱がこもったのが伝わる。信仰を捨ててでも生きていたい、悪魔に魂を売るには、これ以上ない台詞だ。
「いいだろう、と言いたいところだが、残念ながら私は2人眷属がいる。だから、賭けをしようじゃないか。私が君を連れて歩く。その間にーーー。」
私の眷属を見たら、君を吸血鬼にするよう命令する、と言おうとしたその時、上空から、大きな羽ばたきの音が聞こえた。
「エディンム様!お久しぶりです。こんな所にいるなんて、珍しいですね。」
確か、第2眷属の……
「イライシャ、だっけ?君って、眷属っているかい?」
「ええ。イライシャ・エンです。いますよ。第3眷属が1人。」
思わず、彼女の方を見て、私は手を広げる。
「奇跡じゃないか。逆に、私が信仰しようかと思ってしまうよ。」
「は?」
来たばかりで全く状況が理解できないイライシャは、私に訝しげな眼差しを向ける。
「すまないね。これも神の思し召しさ。『イライシャ、彼女を吸血鬼にしろ。』」




