第109話 降りやまぬ春雨
最近、雨の日が増えたような気がする。教会に向かいながら、私はそんなことを思う。
水分を含んだ空気は、灰で出来た私の身体に染みるようで、あまり好きではない。
霧雨の今日は特に最悪だ。傘を差していても風に流されて私にかかるし、それでいて吸血鬼にされた日を思い出してしまう。思い出したくもない、あの日を。
けれど、微かでも希望が持てている私の心は、そこまで重いものでは無かった。
1週間経った木曜日の今でも睡眠時間は変わっていない。毎日9時ごろに目が覚めて、その度に教会に行き、連花と模擬戦をして槿と少し話す。その繰り返しだ。
食事に関しても同様で、人の食事に適応できる可能性を信じ、彼らに気付かれないように毎日のように人間の食事をとるようにしていた。
変わらず食べた食事は後で嘔吐してしまうが、食事した後の方がする前よりも僅かだが量が減っている
ような気がして、もしかしたら消化する事が出来たのかもしれない、と淡い希望を抱く。
食欲に関しては一週間前とほとんど変わっていない。これ以上空腹にならなかったことを喜ぶべきなのか、満ちることがなかったことを悲しむべきなのか、悩ましいところだ。
駅に着き、傘に当たる雨音が聞こえなくなると私は傘を閉じた。改札を通ると、教会の最寄りに向かう電車に乗る。
飛ばずに、電車で向かっているのは、大した理由ではない。
もしかしたら、飛行能力などの吸血鬼の能力を使用しない方が、より早く人間に近づけるのではないか、という、ただそれだけの事だ。
電車に40分ほどで教会の最寄り駅に着く。最初に乗った時は利用方法などが分からなかったが、一度利用すればあとは大して難しくはない。
そこから15分歩くと教会にたどり着く。飛行するのと30分程度しか変わらない。であれば疲労がない分、電車も悪くない。
結局霧雨は止まないままだった。帰るころには止んでいればいいが、と少し憂鬱な気持ちで私は住居棟のドアを開ける。
今日は、開けてすぐに誰かがいる、という事はなかった。この一週間であったのは最初の槿の時だけだったし、まあ当然と言えば当然だ。
畳んだ傘を玄関に置き、耳を澄ますとリビングから何やら人の話し声のような音が聞こえる。
恐らく、声からして常磐と連花だろう。何を言っているのかまで分からないが、声の調子からして深刻な内容でも無さそうだ。
常磐にも連花にも特に用は無い。何を話しているのかは少し気にはなったが、特にリビングには寄らずに2階の槿の部屋に向かい、ドアを叩き、開く。
「最近、そっちから来ること多いね。」
そう言いながら、ベッドで上体を起こした姿勢で槿は微笑む。あれから、彼女の気が抜けた寝間着を見ることはなくなった。恐らく毎日私が来るからなのだろう。
私の為にそうしてくれているのは嬉しいが、反面気を使わせてしまっている申し訳なさがあった。あの服装も似合っていたが、それを言うと彼女の気遣いを無下にするような気がして私は何も言えなかった。
「知らないのか?普通窓から出入りはしないんだ。」
私はそう冗談めかせて答えた。
槿にも、私が電車で来ていることは秘密にしていた。意味がある事かも分からないし、何より否定されるのが怖かった。
勘のいい彼女の事だし、もしかしたら気が付いているかもしれないが、幸いまだその事を当てられたりはしていなかった。
「普通はそうだけれど、涼は普通じゃないから。」
「全くその通りだな。私は吸血鬼だ。」
ソファに座りながら、私は半ば自虐的に答える。
「そうじゃなくて。なんて言うんだろう?えっと……。」
そう言って槿は小首を傾げながら、頭を悩ませた。少しすると思いついたように頭を上げる。
「最初に会った時、涼は4階の窓から私に声をかけた、よね?」
「ああ、そうだな。」
そういえば、あの時は槿は病院にいたのか。たった4か月前なのに、数十年前のように思える。
この4ヶ月で、何もかも変わったように思える。少なくとも、300年間の間に槿はいなかった。
「多分、人間だったとしても涼は窓から声をかけてくる気がする。部屋の中に入るのは少し大変そうだけれど。」
そう言って嬉しそうに彼女は笑う。
「だとすれば、少なくとも君とこういう関係にはなっていないな。」
そんな人間が居たら間違いなく塀の中だろう。そしてその世界の私は今と同じ闇の世界の住人だ。自殺がしやすいという点でいえば幾分マシに思えるが。
「こういう関係って?」
槿は悪戯っぽい笑みを浮かべながら上目遣いでこちらを伺う。彼女が私に何を言わせたいのかは分かったが、なんというか癪だし、何より照れくさい。
「気楽に会話をする関係だ。」
そうやって私は誤魔化した。槿は拗ねたように私を睨むが、私は目を逸らした。そんな私を見て彼女は小さく笑った。
「きっと、同じ関係になってるよ。人間でも、吸血鬼でも。どんな姿でも、あなたなら私の日常を変えてくれるから。」
そういってたおやかに、儚げな笑みを浮かべる槿に目を惹かれながら、私がどんな姿でも、君は飛花落葉の君のままなのか、そう訊ねそうになる。
「…………そう、だといいな。」
けれど、私に言えた言葉はこれだけだった。私がそう言ったところで、槿が困ったように笑うだけなのは分かっていた。
その後何でもないような雑談をして、槿の部屋を後にして私は帰路に着く。
杏果雨は、まだ止んでいなかった。
止みそうにも、なかった。




