37
勉強しない会。
翌日。
テスト二週間前の時点で部活禁止の令が出され、部室の使用禁止が各教員によって全生徒に通達された。
この学校では全員が全員、何かしらの部活に所属する必要があるためその影響は全員が受けることになるのだが、かと言ってこの学校は大して部活に力を入れているわけではないため、悲観する声はそう多くはない。むしろ、勉強に集中できるようになるため、普段から部活に力を入れていない者ほど歓迎する声を上げている始末。
ただ、悲観する声の中に楠木さんが入っていることを知っているのは僕だけであり、隣で愚痴垂れている陸上部の彼のように不満な様子を一切表に出さない楠木さんからではその事実を読み取ることは至難の業と言えよう。
それでも、前方の席で宮野先生の話に耳を傾けていた楠木さんは言葉には出さずとも溢れ返った不満のようなものを漂わせながらペンをカチカチさせていたので、僕の目から見れば彼女が不満げであるのを隠そうともしない背中を見れば一目瞭然であった。
そんな彼女は今日、家にやって来る。
昨日、自分であんなことを言った手前申し訳ないのだが、友達を家に呼ぶという僕の「友達憧れ行為」においてトップ10にランクインするような出来事が目の前に迫っていた僕は昨日一切勉強することなく家の片付けに追われた。
しかし、その成果は見事なもので、家は玄関からリビング、トイレにお風呂、一年の内に数えてみれば半年も使われていない父さんの寝室や書斎、僕の部屋に至るまで一切の埃が落ちていないまでに完璧に掃除をすることができ、お菓子も飲み物も用意したため楠木さんを迎える準備は完璧であった。
まぁ、実際は日頃から汚すようなことも無ければ掃除もこまめにしているつもりだから大したことはしていないのだが、一度手を付け始めたらここも、あそこも、と気になって終わり所を見失ってしまったのが答えであり、勉強前に身の回りを掃除したくなるという気分を早めに味わえたので今後二週間はきっと気になることすらないことだろう。
結局、その日の授業内容の復習さえもすることなかったのだが、これもまたテスト勉強の一環ということで許されないだろうか。
ちなみに、楠木さんが勉強をしに来るという旨をひめ姉に伝えたところ、なぜかひめ姉ではなくひめ姉の彼氏である正紀さんから「苦しんでるよ笑」という意味不明なメッセージが送られてきたのだけは訳が分からなかった。
「一緒に帰れば良かったじゃない」
「目立ちそうだったから……」
「私と噂されるのは嫌なんだ」
「そういう意味じゃないよ。僕の所為でまた、楠木さんに被害が及んだりしたら嫌だ、ってだけ」
放課後。
僕の委員会活動の終わりを待ってから、僕と楠木さんはテスト勉強のために一斉に帰路につく生徒達の目を盗むようにして人気のない学校近くの公園で待ち合わせをして、僕のマンションに向かって並んで歩く。
口ではそう言ってみたものの、実際は変な噂が立つことを避けたい、というあくまでも自分本位な考えを優先したが故の行動であった。
僕が楠木さんの友人であることは体育祭で周知の事実となり、クラスでも簡単な会話の一つや二つを交わすようになったとは言え、それを誰も口出ししてこないのは、僕が周囲から認められたからというわけではない。僕を受け入れている楠木さんに何も言えないだけで、僕が楠木さんと関わっているのを容認されているわけではないという事実を決して忘れてはならず、勘違いして図に乗るような行為は僕の足元を掬う真似になることを念頭に置いておかなければならなかった。
『調子に乗るなよ』
移動教室の際、一人でいた時に影に追い詰められて釘を刺された言葉が、今でも脳裏に過る。
その言葉にどんな意味があるのかは分からない。けれども、クラスの中で底辺を這う僕と、現役モデルという極上の肩書きを持つことに加えて孤高である楠木さんの距離が詰まることを不釣り合いだと感じて、不愉快だという感情を抱く人がいるのが分かっていた。
楠木さんと一緒にいるから、彼女が常にどんな視線に晒されているのかを分かっている。
好機の視線に混じって、数多の好意が寄せられているのに、彼女は気付いていて無視している。何故なら、楠木さんはそれら全てが邪な好意であることを知っているから。だから彼女は注がれる視線の多くに対して鈍感であるよう努めているのだが、鈍感であるが故に、彼らの好意が翻った感情が僕に向けられていることに、気付いていない。
むしろ気付かないでいてくれる方が僕としては心休まるもので、その視線の意味も妥当であることが分かるが故に、僕はそれを甘んじてそれを受け入れていた。
僕と楠木さんは、釣り合っていない。
もしも口に出したならば、僕を受け入れてくれている楠木さんの価値観を否定することに繋がるから例え口が裂けたとしても言えたものではないが、その意味が数多く込められた周囲からの視線を浴びせられている僕は、それを深く理解していた。否、誰よりも僕が一番、そう思っていた。
そしてそれを盾に、誰しもが憧れて止まない完全無欠の女王様に付き纏う邪魔者を排除したかったのだろう。
その邪魔者が、自分よりも遥かに弱ければ尚の事。
現状に不満を抱く多くの生徒の代表として先陣を切ったのは、遊佐さんと一緒に楠木さんを脅しにかかってきた中の一人であり、最後まで謝罪を拒んでいたあの男子生徒だった。
彼はあの一件がきっかけとなってすっかり問題児の仲間入りを果たしており、その腹いせとばかりに一切の躊躇なく遊佐さんの在らぬ噂を広めた張本人として有名な彼が、もしも僕の態度に不興を買われた場合に楠木さんにどんな被害をもたらすか、分かったものではない。
例えそれが単なる被害妄想だとしても、僕にとって彼女が再び傷付けられることだけはどうしても避けなければならない事態であり、もしも僕の所為でそうなった場合、僕は今後一生自分のことを許せないだろう。
だからこそ、僕は口を噤む。
そんな事があったという事実すらひた隠すように。
自分の心を押し殺して、彼女の友達として、少しでも長い時間居られるように。
「さっさと行くわよ」
「コンビニでも寄る?」
「準備は出来てるから、寄り道なんていらないでしょ」
「そ、そう」
公園から歩く道すがら、今日の授業内容の復習する範囲を確認し合ったりする間、僕はずっと彼女の顔色ばかりを窺ってしまっていた。
幸いにも、僕の方にちっとも視線を向けようとしない楠木さんは、そのことに気付いてすらいないようだった。
それが良いことなのか悪いことなのか、今の僕には判断できそうもない。
夕方と呼ぶにはまだ早い帰り道。
いつもより長い道のりを、僕は友達の隣だというのに静かな相槌を返すばかりで表情を強張らせたまま、楠木さんをマンションまで案内するのだった。
「ど、どうぞ」
「お邪魔します。……綺麗にしてるんだ」
「掃除したからね」
「お父様は、いらっしゃらないの?」
「父さんは三日に一回帰って来ればいい方かな。でも忙しそうにしてたから、次に帰るのは週末かも」
「そ、そうなの」
「……母さんのことは、聞かないんだね」
「え?」
「いや、普通は両親のこと聞くものかと思ったけど、楠木さんは父さんのことしか聞かなかったから……。変な意味じゃないよ? きっとひめ姉から聞いたんだろうな、って。それだけ」
自分でも分かるくらい、精神が窶れている。
家に帰ってきて、緊張の栓が緩みでもしたのか、些細なことに気を取られて少しだけ棘のある口調だったことに気が付いたのは、楠木さんが僕の言葉に眉を顰めた後だった。
こんな重箱の隅を突くような言動が望みだったわけではない。
楠木さんに嫌な思いをさせるために、連れてきた訳じゃない。
それが分かっているのに、僕は取り繕うための言い訳を口にすることができずにいた。
これ以上、楠木さんの顔を見ていられなかったから。僕は情けなく、彼女に背を向けることしか、できなかった。
だというのに、
「……部屋、案内して」
「っ、え……あ、うん……」
楠木さんは背を向けた僕の手を取って、先を促す。
夏も本番が近いというのに、氷のように冷たくなった楠木さんの指先が、まるで僕の心臓に届いているみたいに感じて、僕は息を飲む。
それでも、断ることができずに息も出来ないような空気の中、繋がった手が離れることはないまま、僕の部屋へと踏み入れるのだった。
「……」
「……の、飲み物、いる?」
「いらない」
「そ、そっか」
部屋の真ん中にある背の低い机で向かい合うように勉強しようと画策していたものの、楠木さんは部屋に入るなり「男の子の匂い」とだけ呟き、僕が座った対面ではなく、何故か隣に腰を下ろした。
結ばれた手を離す機会を完全に見失った僕は、クッションを差し出したり飲み物について尋ねたりしても楠木さんの考えていることが何一つ分からないまま目線を彷徨わせることしか出来ないでいると、ここは自分の部屋のはずがまるでどこか知らない場所に放り出されたみたいな感覚が湧き出てくる。
そんなふうに一人困惑しかけていると、楠木さんがようやく口を開いてくれる。重苦しい空気は、変わらぬまま。
「私は、男性が苦手……いいえ。嫌い、と断言できるわ」
「そう、なんだ」
ならばこの繋いでいる手はなんだ、と口にするのも憚られ、僕は改めて自分がいかに彼女に異性として認識されていないのかと思い知る。
だけれども、大前提として僕達は友達だ。
彼女が僕に異性として求めていないのであれば、僕は彼女の望む姿を演じるのみ。
それも、さっきの出来事で最早絶望的かと思われたし、この会話もきっと、この関係を終わらせる内容なのかと耳を傾けていたところ、信じがたい話が僕の耳に飛び込んでくるのだった。
「私が男性のことが嫌いな理由は……私が昔、父親に暴力を振るわれていたから」
「ッ」
繋がった彼女の指先に力が込められたのを感じた直後に放たれた、衝撃の事実。
楠木さんの口から吐かれた言葉に、僕は声を奪われ、喉から空気が漏れる音だけを残して頭の奥から凍り付くような感覚を覚える。
どうして今、その話をするのか。
彼女にとって思い出したくもないような話を、僕がさせてしまっているのか。
そんな怖い顔をしないでほしい。
そんな悲しい顔をしないでほしい。
楠木さんには、僕の傍でなくてもいいから、ただ笑っていてほしい。
そうすれば彼女はきっと、一人じゃなくなるから。
彼女の笑みは、必ず人を惹き付ける。
楠木さんの隣にいるのは僕じゃなくていい。僕なんかよりもよっぽど釣り合う人がいるはずだから。
そう強く願っているのに僕は今、彼女に悲愴感漂う表情を浮かべさせている。
握り合った手を離したくないと強く思ってしまっている。
僕は、一体何処まで自分自身に落胆すれば気が済むのか。
今ここで舌を噛み切って死ぬべきだ、とすら思える反面、彼女の話は最後まで聞かなければならないと不思議とそう思ったことで、僕は黙って楠木さんの言葉に耳を傾ける。
そうして語られたのは、楠木さんの過去。
僕のような贅沢な悩みとは比べ物にならない程に愛に飢えた、楠木陽葵という少女として在るべき姿を隠さざるを得なくなる程に恐怖を植え付けられた過去の話だった。
「──だから私は、男性が嫌い。コーヒーも、飲めないの」
僕は楠木さんの中に、一本の芯を見てきた。
決して揺るがない、彼女の覚悟を示すような、強くて逞しい、彼女の芯。
それは紛れもなく存在するのだろうが、今の話を聞いて確信した。
楠木さんには、その一本の芯しか無いのだと。
彼女の根底には、成人男性への恐怖が淀んでおり、女王様として振る舞うのは、異性から身を守るためともう一つ、恐怖を隠すための鎧としての役割があった。
「……」
だから、この話をしたのには何か別の理由があるはずだ。
例えるならそう、彼女が恐怖する異性である僕との、関係を破棄するため。
そうとしか考えられないのだが、恐怖する対象として見られているのであれば、第三者のいない空間で二人きりになるだろうか。こうして、繋がっていられるだろうか。
僕にはもう、楠木さんの考えていることが分からなかった。
「……辛いことを思い出させて、話させてしまって、ごめんなさい。もし……もしも、楠木さんが望むなら、僕は君の前にはもう姿を見せないって約束するよ。それでも、それでも僕は、君のことを──」
だから、言い出しにくいのであれば僕の方から切り出すべきだと口にしたところで、楠木さんが僕の言葉に割って否定の声を上げる。
「違うっ。嫌なんかじゃ、ないの。むしろ、逆……」
「逆?」
「初めてなの。男の人と、こんなに一緒にいても怖い気持ちになったりしないのは。だから、涼村くんだけは、特別なの。このまま……、私は、涼村くんとは、このままでいたい。ダメ……?」
「だ、駄目なんかじゃ、ない」
きゅっ、と更に握る力強くなった楠木さんの手に熱が宿っていくのに視線を落とすと、楠木さんは反対側の手でネックレスを弄っているのが見えて、先程までささくれ立っていた心が不思議と穏やかになるような心地を覚えるのであった。
その後、しばらくの間はこうして手を繋いでいるだけの無言の時間が続いた後、そこから更に僕達は普通に会話ができるようになるまで時間がかかって、ようやく話せるようになった頃には二人とも繋いだ手にしっとりと汗をかき始めていた。
それからようやく会話ができるようになると、楠木さんが僕の事情を知ったのは出会ったばかりの頃、ひめ姉に連れ出された際にばったりと出会ったあの日には、既にひめ姉の口から聞かされていたという話を聞いて、初めに抱いた陰険な疑問も腑に落ちる。反対に楠木さんの事情をひめ姉は知っているのだという。
知っているなら教えてくれても、と思う反面、調子の良いひめ姉は一見口が軽く見られがちだが実際はそうではないということを知って、楠木さんのひめ姉に対する評価が上がったのを見て、身内が褒められるのは悪い気がしない僕は、ひめ姉が話したということはそれなりの理由があるからだと勝手に納得するのであった。
「そ、そろそろ、勉強しよっか」
「そう、ね……」
「の、飲み物取ってくるよ」
そう言って立ち上がる際、何故だか楠木さんの名残惜しそうな息遣いが聞こえたものの、それを確かめるのはなんだか狡い気がして振り返ることができず、僕は自分の部屋なのにそこから逃げるようにしてリビングへと移動する。
しかし、二つのコップを用意したところでお茶かジュースかどっちがいいのか聞き忘れていたためそそくさと自室に引き換えしたところで、僕は驚きの光景を目の当たりにしてしまう。
「楠木さん、お茶とジュース、どっちが……ぁ」
「………………お茶」
「な、なんか、ごめん」
「お茶!」
部屋を出る際はクッションに腰を下ろしていた楠木さんの姿だったのだが、彼女の予想よりも僕が早く引き返してしまったからだろうか、彼女がベッドに腰かけて倒れているという、いつだって怠けた態度を取ることのない彼女にしては有り得ないような恰好で出迎えられ、彼女の腕には枕が抱えられているのを僕は見なかったことにした。
そんなだらけきった姿を見られた楠木さんの顔が沸騰するみたいに赤くなっていく一部始終を視界に収めながら、改めて飲み物を取りに向かった僕が再び戻ってくると、今度は楠木さんは何事も無かったかのようにテーブルの対面に腰を下ろしていた。
「勉強、しよっか」
「何笑ってるのよ」
「笑って、ないよ?」
「笑ってる!」
「さっきまでのが嘘みたいな空気で、ちょっと耐えられなかった」
「はぁ、あっそ」
先程までの息の詰まるような空気が嘘のように一変して軽くなった空気を胸いっぱいに取り込んで、僕は教科書とノート、それから筆記用具と勉強に必要な道具を広げていく。
「そんな笑うんだったら、今日はあんたの勉強が進まないくらい聞いてやるんだから」
「そんなにあるの?」
「いくらでもあるわ」
「自慢できることじゃないと思うけど……」
そんな会話を繰り広げながら、放課後からかなり時間が過ぎた頃、ようやく僕達は当初の目的でもあったテスト勉強を始めるのだった。
お互いに、片方の手には相手の体温を記憶しながらの勉強ではあったが、初めての勉強会なるものにしては思いの外、短い時間ながらも捗るのを実感するのであった。
「……そう言えばさっき、あんた何を言おうとしてたの」
「さっき?」
「私のことを、みたいなこと、言ったでしょ」
「言ったね」
「その先を聞いてるの」
「うーん……秘密、じゃ駄目かなぁ」
「……あっそ」
「そんな顔しないでよ」
「別に」
「じゃあ楠木さんは僕のこと、どう思ってるの? 教えてくれたら、答えてあげてもいいけど」
「あんた、本当に良い性格になってきたわね」
「そんな褒めなくても」
「褒めてないわよ。皮肉ってんの。いいわよ、教えてあげる。私は、あんたのこと──」
会話の片手間、復習を続けていく中で唯一手が止まったのはこの瞬間であり、お互いの目線が交差した直後のことだった。
「ただいま~! ゆーちゃん、ひまりちゃんまだいる~?」
ガチャリ、と鍵を回す音が聞こえたかと思うと、どっしりと重たい玄関のドアが開かれて、聞き慣れた明るい声が飛び込んでくる。
「……ぷっ」
「ふふっ」
たかだかそんなことで、僕達は何故だか笑えて来てしまって。
「ゆーちゃん? あ、いたいた。やっほー、ひまりちゃん」
「お邪魔してます」
「二人とも、仲良しさんだねぇ。あっ、もしかして私、お邪魔だったかな?」
「そんなことないよ。というか、僕がひめ姉呼んだんだから邪魔だなんて思わないでしょ」
「姫和さんを……?」
「ひめ姉ってこう見えても頭いいんだ。だから、今回のテストはひめ姉の手を借りようと思って」
「最初は断ったのよ? でも、ゆーちゃんがどうしてもって言うから……」
「そんなこと言ったっけ?」
「い、いえ。私も嬉しいです。姫和さんから教われるなんて」
「嬉しいこと言っちゃっても~! ご飯食べていく!? あ、でもお家の人に言ってないものね。それはまた次回にしましょ。ひとまずは、どれくらい出来ているのか、見せてちょーだいっ」
部屋に飛び込んで来たひめ姉は僕が呼んだ頼もしい助っ人であり、登場して早々に出鱈目なことを言いだしそうな雰囲気ながら、僕達は外が暗くなる前まで勉強に励むのだった。
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