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二週間前。

 

「今日は、勉強会を開くわよ」

「勉強会、って言っても、いつも通りだけど……」


 七月に入って梅雨が明け、いよいよ夏本番といった季節の頃。

 あれから、僕は毎週末オープンキャンパスに足を運んでおり、モデルの撮影が重ならなければ楠木さんや、様子を見に来たついでのひめ姉と共に行くこともあれば、僕一人で赴くこともあった。

 母親代わりのひめ姉からすれば、随分と遅く来た『はじめてのおつかい』らしく、その程度で感激されるくらいにはひめ姉の中で僕は子供だったのだと実感した。

 それに関しては悔しいとか恥ずかしいと言った思春期の感情を抱くのではなく、それだけひめ姉に心配をかけていたのだと思うと、進路のことも相俟って、色々と自己を顧みることが多くなったような気がしていた。


 しかし、いつまでも進路のことばかりに気を取られている訳にはいかず、僕も楠木さんも二週間後に迫った期末テストという難敵の対処に追われることになるのであった。


「明日から二週間、部活禁止になるでしょ。そうなったら部室が使えなくなるのだから、私達は何処で勉強しろっていうのよ」

「ああ、場所の確保って話か……」


 既に志望校が決まっている楠木さんと、志望校の選定に頭を悩ませる僕にとって学校の成績は進路に直結してくる。

 ただでさえ二か月前に行われた中間考査では僕が一つ、楠木さんに至っては四つもの赤点を頂戴してしまったがために、ここで粉骨砕身の勢いで踏ん張らねば、そもそもの話、志望校に手を伸ばすことさえも難しくなってしまう可能性すら出てくるため、僕達は宮野先生からキツく釘を刺されてもいた。


 それを目前に控えた今、僕達に課せられた指令が、二週間の部活禁止令であった。

 僕達にとって唯一と言える学校内における居場所である部室。

 今ではすっかり二人でお昼ご飯を食べて、放課後に時間を潰す格好の場所となりつつあるこの場所を、学校側の規則によって封じられるというのだ。

 こんな横暴が許されてなるものか、と徹底抗戦する気概を見せた楠木さんであったが、学校長への直訴に辿り着く以前にこの部活の顧問である勅使河原先生によって楠木さんの声は閉ざさざるを得なくなってしまうのであった。


『……でも、映像研究部は廃部予定で、何の活動もしていないでしょう?』


 同席した僕ですら思わず勅使河原先生の言葉に激しく同意するように首を縦に振りたくなるほどのド正論。

 この部室の存在意義である映像研究部に僕が在籍していられるのは、言わば勅使河原先生の温情。最後の一年で新たな部活に入るのも厳しいだろうと判断され、最後の一年を親しみある部室で過ごしてほしいという情けの名の下に存続を許されているだけであって、この部室を僕達の温室にしてたまり場にしていいという訳ではないのだから。


 あくまでも勅使河原先生はこの学校の養護教諭として、生徒には平等に接さなければならないのだから、僕達だけに特別に部室の使用許可を出すわけにはいかないと分かっているから、楠木さんはそれ以上言葉を口にすることなくすごすごと引き下がる他無かった。

 本来であれば廃部が決定している映像研究部に彼女が入部すること自体、時折保健室にて楠木さんの面倒を見ていた勅使河原先生の計らいと言う名の特別扱いであったため、楠木さんは勅使河原先生に強くは出られないのであった。


「流石に、扇風機じゃ乗り切れなくなってきたしね」

「本当よ」


 それに加えて、この部室にはエアコンが付いていない。

 そのため、窓を全開にして使い古された扇風機で暑さを凌いでいたのだが、流石にそろそろ限界が来そうであった。帰る頃には汗ばんでいるというのは楠木さんも嫌だろうから、丁度良い機会でもあったのだ。


「それで、一緒に勉強できるような場所を探そうと思うのだけれど」

「一人でやるんじゃ、駄目なの……?」

「それだったら、誰が私に勉強を教えてくれるのよ」


 あのオープンキャンパスの日以来、楠木さんは何をするにも一緒にやろうとするきらいが見え始めており、特に勉強面に関しては以前よりも取り組む姿勢が前向きになったのは良いものの、却って一人では勉強しなくなりつつあるのは問題であるように思えていた。


「楠木さん、家だとどうやって勉強してるの?」

「……してない」

「え?」

「してないけど。だって、ここで十分やってるでしょ。帰ったら軽く運動してるだけよ」

「えぇ……」


 楠木さんの口から放たれた驚愕のカミングアウトに、僕は言葉を失う。

 如何に自分の学力が向上しているのを実感しているとは言え、それではあまりにも、期末テストというものを舐めているようにしか思えなかったからだ。


 中間テストが五科目だったのに対して、期末テストは十二科目。

 倍以上に増えるのだから、単純計算でも勉強時間が倍以上にならなければ事足りるはずがないというのに、楠木さんの全身から溢れてくるようなその自信はどこから来るのかが分からなかった。


「……怒ってるの?」

「怒ってないよ」

「うそよ。怒ってるじゃない」

「怒ってないって。また補習になったら、大変だろうなって思ってただけ」

「……手伝ってくれないの」

「僕の手を頼るより、赤点を取らない方がいいと思うんだけど」

「だって……」


 最近、楠木さんは以前よりもよっぽど顔色が豊かになったように思える。

 以前に遊佐さんや陸上部の彼に同意を求めて尋ねてみたことがあったのだが、二人は「分からない」と答えるばかりであったが、僕の目には表情豊かな楠木さんが映っているのでどう考えても見間違いなどではないと思うのだが、果たして。

 今も、叱られた子供みたいに僕の方から目線を逸らしているのは、何か言い出しにくいことがあるというのが丸分かりであった。


「そもそも、楠木さんは期末テストはモデルの仕事の存続がかかってるんでしょ? 赤点一つも出さないって、そんな簡単なことじゃないよ」

「分かってるわよ。でも」

「でも?」

「……家だと、集中できないの」


 確かに、家だと漫画や小説、ゲームやテレビといった誘惑が無限に存在しているため、僕もその間の手を振り払って勉強机につくのに苦労している。

 その悪魔のような誘惑に加えて、暇をしているひめ姉が重なった日には沼に引きずり込まれるような思いをせざるを得ないのだが、断腸の思いで机に齧り付いたことは幾度となくあった。とは言え、最後には結局、抵抗も虚しく屈することになるのだが。


「だから、その……連ら──」

「それなら、ご褒美を作ると良いよ……って、なんか言おうとしてた?」

「……なんでもないわよ」

「そ、そう……? なんで怒ってるの?」

「怒ってないわよ」

「怒ってるじゃん」

「怒ってないって言ってるでしょ!」

「ご、ごめん……」


 楠木さんの消え入りそうな声に気が付かずに僕が言葉を被せると、彼女はすっかり出鼻をくじかれてしまったかのように不貞腐れてしまう。

 慌てて機嫌を取ろうと試みたものの、楠木さんはすっかり気を悪くした様子で体を横に向けてしまっており、僕の声も届かないような雰囲気を醸し出す。


「……テストは、どうやっても結局は本人の頑張り次第なんだよ。僕がいくら頑張っても、楠木さんの点数が良くなるわけでもないんだ」


 聞く耳を持たない彼女を前にしても、僕は健気にも話しかける。

 僕以外の音は、扇風機を回すモーター音くらいのもので、聞き流されているとしても、耳を傾けてくれていなくとも、僕はこの言葉を楠木さんのために必要なことだと思うから口にしていく。


「楠木さんが勉強できないことくらいは、僕はとっくに分かってるよ」

「……うるさい」

「やっとこっち見てくれた」

「……あんたに言われなくても分かってるわよ、私が頭悪いことくらい。真面目に授業受けて、ノートも取って、他の人と同じように勉強しても、周りみたいに出来が良くならないの。この学校だって、入れたのが奇跡みたいなものなんだから。でも、だからって諦めたくなんかないの。だから、あんたに少しでも教えてもらえれば、何とかなると思っただけなの。でもそれも、あんたの顔を見る限り、願いは叶わないみたいだけどね」


 いつになく弱々しい楠木さんはどこか投げ槍にそう言い放つ。

 僕の中ではずっと強い人、今も僕達を斜陽にて照らす太陽の如き人だと思っていたが、彼女もまた、ただの一人の人間に過ぎないのだ。

 ただの人間であるならば、心の栄養が偏れば弱るのは至極当然の流れであり、楠木さんは今、メンタルの面で非常に弱っているのだろう。そうでなければ、彼女が人前で弱音を吐くはずがない。

 二ヶ月近い付き合いがあるのだ。楠木さんが人前で弱音を吐くことが絶対に有り得ないことくらい、十分に理解している。常に全方位に攻撃性を向けるウニのような彼女にとって、そこが最後の防波堤であることを僕は知っている。

 だからこそ、こうして僕の前で弱音を曝け出したのは何かしらの意図があってのことだと思っていたのだが、実際に彼女が落ち込んでいる姿というのは、見ている僕の胸が苦しくなる程の哀愁を漂わせているのに耐えきれない、というのが正直な本音だった。

 そんな姿を見るくらいならば、いつもみたいにキリっとした眼光で毒を吐いている姿の方が、何十倍もマシに見えてくるくらい、楠木さんの物悲しい横顔と言うのは見てられなかった。


 彼女にはやはり、いつか見たとびきりの笑顔の方がよく似合う。

 だからこそ、その笑顔を取り戻すべく、僕は舌の上で転がした言葉を選んでぶつけるみたいに吐き出していく。


「でも、楠木さんはまだ諦めてない」

「……」

「諦めるなんて、楠木さんなら絶対にしない。僕の目には、まだ前に進もうとしている楠木さんが見えてるから。その姿が見れただけでも、僕には十分、君に手を貸す理由ができる。何せ、僕は楠木さんの一番のファンだからね。それが見れなくなるなんて、絶対嫌だもん」

「……ふん」

「無理して素直になる必要なんてないよ。楠木さんは楠木さんのままで最後まで足掻く方が、よっぽど輝いて見えるから」

「なにそれ。むかつくんだけど」

「そう、それ。楠木さんは、そっちの方がずっと魅力的だよ。弱ってる姿なんて、大事な人にしか見せちゃ駄目だからね」

「あんたにしか見せないわよ。こんな、情けない姿。あの女に見られたらどれだけ笑われることか」

「遊佐さんなら、鬼の首取ったみたいに色々言ってきそうだよね。……僕で良ければ、いくらでも受け止めてあげるよ」

「あんた、自分で何言ってるかわかってるの……? はぁ……何様のつもり、だっ、ての!」

「ぁ痛ァッ」


 呆れたような表情を見せてこちらを向いた楠木さんが放ったのは、返す刀の言葉ではなく、殺意マシマシの強烈なデコピン。

 こつん、と鈍い音を立てた僕の額を抱えたのたうち回る僕を見て愉悦を表情に浮かべた楠木さんの目にうっすらとだがやる気の炎が宿ったのを確認できた僕は、立ち上がって彼女に手を差し伸べ握手を求めた。


「──目指すは赤点ゼロ宣言! 一緒に、頑張ろう!」

「補習仲間は、卒業かしら?」

「ぅおっ」

「それで、ご褒美は何をしてくれるの?」


 楠木さんが僕の手を取ったのを確認した直後、油断し切った僕の体を引き寄せることくらい彼女の力でも容易いようで、僕は引力に従うかのように体が倒れて行くのだが、僕と楠木さんを隔てる机が邪魔をしてそれ以上前には倒れられない。

 けれども、僕の上半身だけは座ったままの楠木さんと同じ目線にまで倒れ込んでしまい、彼女の声が耳元で囁かれるなどとは思ってもいなかった僕は、鼓膜を震わす楠木さんの声に思わず飛び退いてしまうのだった。


「ッ!?」

「そんなにびっくりしなくても」

「す、するよ!? するに、決まってるよ……」


 ぱちくりと瞬きを繰り返す僕を見て、一瞬呆気にとられた姿を見せた楠木さんだったが、何故かにんまりと口元を緩めて笑って見せた。


「涼村くん、あんた……耳が弱いのね?」

「っ、そ、そんなはず、ないけど?」

「そう? それじゃあ、確かめさせてもらっても、いいわよね」

「よ、よくない! 全然良くないよ!?」

「それじゃあ、もしも期末テストで赤点を免れたときのご褒美は、それにしようかしら」

「な、なんで僕がご褒美を上げる側に……!? 自分で用意するといいよ、って話だったのに!」

「あーぁ、ご褒美が無いんじゃ、やる気でないかもしれないなー。あんたの好きな、モデルの私もいなくなっちゃうかもなー」

「ぐっ……なんて卑怯な……! 自分が人質の価値があるからって、余りに横暴では!?」

「だって私、女王様、なんでしょ?」

「そうやって呼ばれるの嫌がってたのに!」

「これはもう、決定事項だから。あんたの耳を触る。ふふっ。やる気出てきた気がする」

「なんだか腑に落ちないんだけど……」


 あれだけ呼ばれるのも嫌だと言っていた『女王様』のように、サディスティックな一面を見せた楠木さんは、そう言って笑みを深めた。

 言葉にした通りに、僕としては余り腑に落ちない結果ではあったものの、当初の目的であった楠木さんの期末テストへのやる気問題が解決したのだから喜ばしいはずである。


「そう言えば、なんの話してたんだっけ」

「勉強会の場所選びね」

「それなら、楠木さんが良ければ僕の家なんかどうかと思ったんだけど……」

「私は問題ないけど」

「でも、今の流れからだとなんだか心配で」

「……意識してんの?」

「それはもちろん、するに決まってる。僕だって男だし……。いい加減、楠木さんは自分がどれだけ魅力的かを分かった方がいい」

「あら、私の魅力は私が一番分かってるけど? 逆に、あんたが一番分かって無さそうだから、尚更行きたくなってきたわ。明日からは、あんたの家で勉強しましょ」

「えぇ……。普通、今の話聞いてそうなる……?」

「決定事項だから」


 何故か強硬派へと移り変わった楠木さんを見て、僕は彼女のやる気を削ぐのも無粋だろうと思って口にはしなかったものの、ひめ姉に連絡を入れることだけは忘れないよう心に決めるのであった。











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