12
進路。
日本人の大多数が消えてなくなればいいと願う悪魔の曜日、月曜日。
頭上で僕らを見下ろす太陽は、週末が充実していればいるほど憂鬱さと鬱屈さが増すような光を降り注ぐ。その光を忌々しく思いながら登校、あるいは出勤をしていく人々の姿というのは、まるで野に放たれた動く屍の如く。
表情を無にして社会の歯車になる大人達の背中を見て今さらになって大人になることへの恐怖を抱いてしまうのだが、いずれは僕もあそこの仲間入りができるのだろうか。
あのひめ姉ですらも、仕事に行くのが嫌というくらいだ。僕は果たして大人になることができるのだろうか。そんな大人になることが将来の夢なのだろうか。そんな漠然とした不安に朝から駆られたのも、カバンに入った進路希望調査の提出期限が今日までだから。
大きすぎる主語は争いの火種になりかねないのだが、言いようのない不安に襲われた気を紛らわせるための方便である、と言えば許してくれるだろう。
「……ジメジメしてきたな」
シャッ、と自転車の車輪がアスファルトを傷付ける音を奏でながら頬を撫でる風に、僕は独り言ちる。
春らしい陽気は気が付けば過ぎ去っていて、ふとした瞬間の気候に目を向ければ、もう梅雨の時期が間近に迫って来ていた。
春になったら軽く走ったりなんてしようかな、なんて考えていたのが嘘のようで、あっという間に移り変わる季節に僕は毎年決まって置いて行かれている。
「気が重いのは、週末が楽しかったからなのかなぁ」
学校へと向かうペダルが重く感じられるのは、週末が充実していた証拠。
土曜の夜にひめ姉がやって来てからというもの、ひめ姉に遊ばれて一緒に遊んで、たくさん笑った。他人からすれば厄介とも思えるひめ姉の絡みも、極めて人間関係の薄い僕からすれば貴重な人とのふれあいイベントであるからして、母親代わりではあっても確かに姉と言う存在であるひめ姉との時間は嫌いではなかった。
ひめ姉が顔を見にやって来る週明けと普段の月曜とでは毎度のことながら比べるまでもないくらい学校へと向かう足の重さが違ってくる。その上、昨日にはまさか楠木さんと偶然出会うなんてイベントもあって、充実度で言えば今までと比べても明らかに一入だと言える。
あの日、ひめ姉にトイレに行くよう言われた後、「戻ってよし」の許可が送られてくるまでひたすら、僕はトイレの前で壁に寄り掛かって待ち続けていた。店員さんやトイレを利用する人に変な目で見られて大変だった、と家に帰ってからひめ姉に伝えると、ひめ姉はお腹を抱えて笑っていた。笑い事ではないというのに。
だが、その前の昼食処でひめ姉のアドバイスによって進路希望調査に自分が将来どうなりたいのかという希望を掛けるようになったのは紛れもなくひめ姉のお陰である以上、抵抗の余地なく抱き締められて「ごめんねぇ」と言われたら許す他なかった。
「おーし、お前らおはよう。テストが終わって気ぃ抜いてるところ悪いが、来週から体育祭の準備が始まるからな。今週中に種目決めをやりたいと思うが、実行委員は問題ないかー?」
「委員会が水曜に集まるので、それ以降でお願いしまーす」
「おし、分かった」
転校する前の学校だと体育祭は秋の行事というイメージが強かったのだが、九月や十月の開催だと三年生の受験と被ってしまうため、高校生活最後の体育祭への参加が厳しくなってしまっていた。
それが今の高校だと体育祭は夏前の開催で、受験に影響を及ぼすことなく進んで最後の思い出作りができるようになっていた。
その代わり、秋の終わりに開かれる文化祭では受験にだだ被りなため、三年生が出来ることは限りなく少ない。そのため、この高校では文化祭は一、二年生が主役で催され、三年生はそこに彩りを加える程度の役目であったり、これまで参加できなかった催しを存分に楽しむためのもの、という認識だった。受験勉強の息抜きだったり、受験を突破した者が楽しむ娯楽の場、と言えるようなものであった。
故に、体育祭は実質的に三年生全員が心置きなく参加できる最後の行事であるため誰もが熱意をもって挑むのだが、クラスで浮いた存在である僕からすれば、とにかく目立たず、いかにして足を引っ張らないかどうかが最大の課題であった。
そんな三週間も先の心配を他所に、僕には目先の不安である進路希望調査の提出、という迫る不安に駆られている間に一日の授業は瞬く間に終わりを迎え、気が付けば七限も終わりの時間。
結局、プライベートで出会ったからと言って関係が深まった訳でも無い僕と楠木さんの二人は、部活以外で関わる機会は全くなく、今日一日、目が合うことすらないまま、そして僕は授業にろくに集中できぬまま帰りのホームルームの時間がやってくる。
帰りのホームルームでは宮野先生からいくつかの連絡事項を聞かされて、日直の一声で蜘蛛の子を散らすみたいに生徒達は放課後という自由に向かって走り出していく。蜘蛛の子を散らしたことなんてないんだけれども。
「涼村、ちょっと」
「あ、はい」
生徒の多くが思い思いの放課後に想いを馳せる中、宮野先生は僕を名指しして招き寄せる。
呼ばれた理由は分かっている。進路希望調査のことだ。
「どうだ、書けたか?」
宮野先生の問いかけに僕が少しだけ緊張した面持ちで頷き返すと、先生は緊張することも無い、と言うかのように軽く笑って肩を叩いた後「ついてこい」と言われ、僕はカルガモの子供をリスペクトするみたいに先生の後をついて行く。
「どれ、出してみろ」
先生の後について行った先は、三年生御用達の進路指導室。
そこで膝くらいの高さしかないような椅子に向かい合って座り、僕は鞄から進路希望調査の紙を取り出した。
「流石に、大学は決まらなかったか」
「ご、ごめんなさい……」
「いや、別に怒ってるわけじゃない。先生だって、今すぐ教師を辞めた後のことを提示してみろって言われても無理な話だ。たった一週間やそこいらで答えが出せる程、誰も彼もが将来のことを考えられているわけじゃあない。それは涼村以外のの連中も同じだ」
「で、でも、僕以外の人は……」
「まぁ、そうだな。進路希望は提出し終わってるってことはつまり将来のことが定まってるともいえるが、それはあくまでも現段階での話だ。これから模試の判定やら何やらで進路を変えざるを得ない連中は必ず出てくるし、大学への進学から就職、専門への道に歩む連中も出て来るだろう。だから急がなくてもいいんだが、これはあくまでも、自分で将来を考えられるよう、方向性を決めるためのものだったりする」
「そう、なんですか」
「あぁそうだ。自分が何をしたいのか、何に興味があるのか。それを考える時間ってのは人生の中でそう多くは無い。こうして機会を与えて、自分の将来を見つめさせる。見据える機会を与えるのが大人の仕事だ。それが進路希望調査の意義って訳さ。……まぁでも、楠木みたいに明確に将来のビジョンが見えてるやつも一定数居るんだけどな」
進路希望調査の意義、なんて考えたことも無く、今語られた内容も宮野先生個人の考えなのだろうが、それでもひめ姉の話を聞いていたからか、腑に落ちるような内容でもあった。
宮野先生はどれどれ、と言って空欄の希望欄の更に下、備考欄に目を這わせる。
そこにはひめ姉のアドバイスの下、僕が興味のある学問を自分なりに書き出してみたものが記されていた。
ただ羅列しただけではなく、きちんとどの学問が自分は興味があるのかを記したのだが、先生の視線が動くのにつれ、僕は緊張で汗ばんだ手のひらを、制服のズボンで拭う。
緊張する理由は、次に先生の口が開かれた時に何を言われるのか気が気でないから。
否定されたらどうしよう、受け入れられなかったどうしよう。
そんな後ろ向きな思考ばかりが頭の中を駆け巡る。
こればっかりは染み付いた性根、治すべき性格であると分かってはいるが、長い月日で染み付いた汚れは一朝一夕で落ちる程簡単では無い。
自慢ではないが、僕のネガティブセンスはクラス1だと自負している。
「……そうだな」
「っ」
進路希望調査書に目を通した宮野先生が目線をそれに落したまま口を開いた瞬間、余計な思考を挟んでいた僕は驚きの余り肩を跳ねさせる。
それを指摘されることにすら恐怖を覚えるのだが、幸いにも先生は調査書から僅かに目線を上げるだけで済んで、僕は先生に知られぬようほっと胸を撫で下ろす。
「うん、良く調べられてるじゃないか。文化人類学に、民俗学か……確かに、大学で絞るよりも、興味がある学問で絞る方が見つけやすいよな。大学はなぁなぁで行くような場所じゃない。高校までの『学びに来ている』だけではやっていけない場所だ。自分から学びに行かないと、誰も教えて何てくれないからな。興味を持てる学問でこそ、大学は本当の意味で門扉を開いてくれる、ってわけだ。これは、自分で考えたのか?」
「い、いえ……。姉さんに、アドバイスを貰って……」
「お姉さんか。確か、去年三者面談に来てくれた人だよな? それなら、お姉さんにも涼村の進路は理解を示してくれているんだな?」
ひめ姉が僕のことを否定する時は、きっと僕が人としての道を逸れようとした時だけだろう。
それ以外だったらひめ姉はなんでも背中を押してくれるし、なんだったら同じ道を進もうとすらしてくれる。
そんなひめ姉に育てられたお陰で、僕は無事に性根が捻くれて、後ろ向きに前向きになってしまったのかもしれない。だけども、それでひめ姉を恨むことなんてない。ひめ姉が僕の中に介在してくれていなければ、今頃はもっと卑屈で後ろ向きどころか地面に穴を掘り続けるような性格をしていたかもしれないからだ。
ひめ姉は親代わりというか、先生がいうように三者面談にも親の代わりとして参加したり、中学生の頃は授業参観にだって自分の大学の授業を休んでまでも来てた記憶がある。
「は、はい。これは、姉と一緒に考えたものです」
「そうか……。とりあえず、直近の模試の結果と、来週に待っている模試の結果次第でこれらの学問を扱う大学をいくつかピックアップしておく。勉強は疎かにするなよ? 今日もどこか上の空だっただろ」
「はい……」
今日の進路についての話に気が逸れていたのは事実であったが、補習課題を終えて気が抜けていたのもまた事実。それを見抜かれたかのような忠告に、僕は萎れた花のように頷く他無かった。
これで話は終わりか、と思って時計の方を見ると、間もなく部活の時間も残り一時間になりそうな頃。そう思って立ち上がろうとした時、宮野先生はこれまでよりもワントーン声を落として言葉を放つ。
「……涼村。お前の家庭の事情は、理解しているつもりだ。だけれども、大学の候補が出てからでもいい。保護者には、きちんと話をしておけ。難しいようだったら、先生からも口添えするが……」
「あ、はい、分かりました。でも、ご心配には及ばないと思います。父は僕に無関心なだけで、僕のこと、嫌いじゃないと思いますから」
「それは……」
「失礼します」
「あぁ……。あ、楠木の補習課題、よろしくな」
「はい」
何か言い渋る様子の先生を置いて、僕は進路指導室を後にする。
その何かが何かは分からないけれども、僕は部室に向かって逸る足を抑えきれずに早足で廊下を駆け抜けていく。視界の横で通り過ぎていく見慣れた外の景色なんて見向きもしないで。
「お、遅れました!」
人気がないお陰で廊下に良く声が響く技術棟にある部室。
そこに駆け込んだ僕は、部室で待つ人に目掛けて開口一番謝罪の言葉を発する。
「遅い」
そこで返ってきたのは、西日が差し込む部室の中で不満げに頬杖をつく楠木さんの退屈を極めたような声音で、僕は思わずもう一度同じ言葉を繰り返しそうになる。
「謝らなくていいから。さっさと座れば?」
棘のある口振りは彼女の通常運転で、僕が気に病む余地などないくらいきっぱりと自分の意見を口にできる彼女は、やはり格好良く見える。
思わず背筋をピンと伸ばしてしまいそうな声に言われて、僕はそそくさと机を向かい合わせただけのテーブルに腰を下ろす。
「ここ、分かんない」
「うん? ……あぁ、これは」
部室にやって来て早々、楠木さんは僕の肩からカバンが下ろされるのを待つ間もなくペン先で問題を指し示す。
彼女は頭が固い、と正直に口にすると怒られるためこの思いは胸に秘めたままにするが、心の中ではいくらでも唱えられる。楠木さんは、頭が固い。
分からないところが一つでも出るとペンを止めてしまう。そして一度手が止まると、他の問題から手を付けるなんて思考は生まれず、分からなくなった問題が解けるようになるまで必死に頭を捻るのだ。
かと言ってそれは決して彼女の要領が悪いというわけではなく、ただ頭が固いだけ。分からないところが一つでもあると自分を許せないというか、自分に特別厳しいのであった。
それは彼女の美点でもあり、欠点でもある。
こと、勉強においては不利どころか、手枷足枷を嵌めているようなもの。もう少し柔軟に対処できるようになれば、とも思うのだが、彼女はきっとそれを認めないだろう。
「どう? 理解できた?」
「……分かった。ありがとう」
そうして今日も彼女の補習課題を手伝って、放課後の時間を過ごすのであった。