13
失言。
「あと二教科、だな。どうだ、終わりそうか?」
「どうして僕に聞くんですか……」
「そりゃあ、楠木の成績はお前にかかってるからだな」
「重荷過ぎますって……」
「そうです。私は自分の実力で成績を伸ばしてみせますから、ご心配なく」
部活動の残りを一時間も残したところで、みっちりと教えたお陰か楠木さんは無事に二つ目の補習課題を終わらせることができた。
このまま順調に行けば残る二科目の補習課題も、提出期限の金曜日までには終わらせられるはず。
ようやく補習課題が終わる見込みが出てきたからか、それが自信の裏付けになったのか楠木さんは胸を張って得意げな様子で言い切ってみせる。
だが、それを見る宮野先生の表情はお世辞にも明るい様子とは言えなかった。
「あー、そのことなんだがな、楠木。次の期末テストで一つでも赤点があった場合、お前に出していたアルバイトの許可を取り下げるかもしれん」
「え!?」
「学生の本分は勉強だ。特に楠木は去年から赤点が目立ってたし、三年になってから変わると思ってたんだが、三年になって一発目のテストでこれだからな……。一応、文武両道というわけで、次のテストで赤点が一つでもあった場合、お前のアルバイトの許可申請を取り下げるかもしれない、とだけ言っておく」
「そんな……」
宮野先生が口にしたのは、忠告。
楠木さんに沸いて来た自信を上から蓋をするかのような、大人としての忠告は先生としても不本意なのか、微妙な空気が漂う。
そんな中に居合わせる僕は居心地が悪いのなんのって。
さすがの宮野先生も、溢れ返った空気の前では「言うタイミング間違えたか」と思わざるを得ず、楠木さんと二人して苦虫を嚙み潰したような顔を見せるのだが、職員室においてそんな気まずい空気を入れ替えてくれるのはいつだってあの人だった。
「はいはい、宮野先生。コーヒーでも飲んで落ち着いて下さいな。二人には、はい。これでも飲んで」
「あ、ありがとうございます」
我が校の天使。
ナイチンゲールもかくやと言わざるを得ないような聖母。
そして我らが映像研究部の顧問である勅使河原先生が、不穏な空気を察知してか、ふくよかな笑みを湛えて割り込むように飲み物片手に立ち入ってくるのであった。
勅使河原先生が僕達に差し出してくれたのは、ヤで始まるあの乳酸菌飲料だった。
「期末テストはまだまだ先でしょう? 今から追い詰めるようなこと言っちゃ駄目ですよ。最近の子は繊細なんですから。でも、後で言われるのもそれはそれで嫌だものね。今から覚悟決める時間をくれた、って考えれば、前向きになれるかしら?」
「……はい」
勅使河原先生の言葉に不服そうにしながらも、反論する余地など無いのを理解しているからか、楠木さんは頷く他無い。
補習課題が終わったとしても、勉強という選択肢が消えないことが確定したことを至極悔やんでいるかのように見えたが、勅使河原先生の「気を付けて帰るのよ」の一言で渋々と職員室を出て行く。
その背を追うように僕も動き出そうとしたのだが、僕の背中は宮野先生によって引き留められてしまうのだった。
「楠木、怒ってなかったか? まぁ、突然あんなこと言われれば気を悪くもするよな」
「え? いや……納得は、してるんじゃないですかね?」
「そうか? いや、そうだといいんだけどな」
「……補習課題の時みたいに──いや、やっぱり、なんでもないです」
「……先生がお前に頼まないのか、って? まぁ、補習課題に関してはやらなきゃならない事だし、たまたまお前が、涼村が同じ補習対象者だったから頼んだ訳で、今回のテストの成績もアルバイトの許可申請取り下げの件も、楠木自身の責任だ。お前に頼むようなことではないよ」
それなら、彼女一人で呼び出して一人に聞かせればよかったものを。
僕がいる場面で話されたら聞かざるを得ないし、今更聞かなかった振りもできない。
「……今、それなら自分がいないところで言ってくれ、って思わなかったか?」
「ぅぐ……!」
「ははは、図星か。涼村は何も考えていないようで、考えていることが表情に出るから分かりやすいな。でもまぁ、涼村には聞かせておいた方がいいと思ってな。……先生の方から勉強を教えるように強要することはできないが、もしも楠木の方から頼まれたら、出来る範囲でいい。力を貸してやって欲しい。頼めるか?」
「……僕の性格、分かって言ってますよね」
「バレたか? ほら、楠木が待ってるぞ。ちゃんと送ってってやれよ」
なんだか上手いように宮野先生の手のひらの上で転がされたような気がしないでもないが、長いものに巻か続けてきた人生を生まれてこの方生き続けてきた僕にとって、教師という目上の立場の人にこの僕が「嫌です」と歯向かえるはずもなく、唇を尖がらせてすごすごと職員室を後にしていく。
勅使河原先生は一度空気をリセットするためだけに口を挟んだだけで、それ以降は最後まで微笑んでいただけだった。
職員室を後にする際も、背中を押してくれるような微笑みを受けて廊下に出ると、そこには壁に寄り掛かって待つ楠木さんの姿。
「……なんか話してたの」
「い、いや、特には……」
「あ、っそ」
職員室を出てくるのが遅かったことを特に追及することなく、楠木さんは下駄箱にまで歩いて向かう。
自転車を取りに行った僕を正面玄関で待っていた楠木さんと合流して、恒例となった帰り道を、二人で歩いていく。
いつもなら終始無言のまま駅まで歩いて会話なんて発生しないのだが、今日は違うようだった。
「進路は、決めたの」
日中が汗ばむ陽気とはいえ、陽が落ちれば街中を駆け巡る風も少しは肌寒い。そんな季節の夜道で、楠木さんは前を向いたまま、声の調子からして不機嫌さが拭いきれていない様子で静かに尋ねてきた。
「まだコレ、って決めた訳じゃないけど……。でも、進路希望調査には、ちゃんと書いて出してきたよ」
「そう。それも、姫和さんに手伝ってもらったの」
「う、うん……。ひめ姉に、色々聞いて」
「どんな」
「え? えぇと、僕のなんでもないような、夢も、周りの皆が持っている夢と、同列に語ってもいい、誇ってもいい、とか。大学は、身構え過ぎずに、もっと気楽に選べばいい、とか……」
僕もまた、楠木さんの顔に視線を向けることなく、自転車を押しながらアスファルトの地面を見つめながら、ひめ姉から聞かされた言葉を選んで口にする。
それらは、僕が将来の夢なんかを持っても良いのか、と悩んでいた僕に自信をくれた言葉であると同時に、苦悩から救ってくれた言葉だった。
だがそれは、僕だけに当て嵌まる言葉でしかなく、彼女の不興を買う言葉であることにはまるで気が付かなかった。
「……何それ」
「え?」
不意に吐き出された彼女の低い声に、僕はのんきにも呆けることしか出来なかった。
「何それ。何なのよ、それ……っ!」
「く、楠木さん……!?」
「……必死になって将来の夢を考えて、行きたい大学も、資料からなにまで揃えてようやく自分の将来を見つけ出した私が、バカみたいじゃない! 気楽に選ぶ……? 私は、自分の将来の夢も、大学も、必死になって選んでるの!! それを、あんたみたいにのんきに生きてるようなやつの夢とも言えないような夢と、私が必死になって捻り出した夢が同列だなんて……ふざけたことを抜かさないでよ!! 反吐が出る!!!」
「ち、ちが……」
「自分の将来を他人に決めて貰ってるようなあんたに何が分かるの!? 大学進学は、私にとって大切なの! 一生に一度しかないの! 夢に近付けるんだから、身構えるに決まってる!! それを……私の夢を、否定するようなこと、言わないでよ……っ!!」
「そ、そんなことを、言いたかった、訳じゃ……」
夜道を照らす街灯の下、金切り声を上げて怒り心頭といった様子の楠木さんの顔を、僕は見上げられなかった。
逆鱗に触れたなら謝ろう、そう思ったのだけれども、話を聞いてもらおうにも彼女の声に竦んだ身体はまるで言うことを聞いてくれない。
俯いた僕の目が映すのは、彼女の固く握った拳と苛立ちを隠せない彼女の足元のみ。
楠木さんの罵声を浴びる中、僕は人通りの少ない道で良かった、なんて場違いで勘違いな考えを頭に過らせるのだが、彼女の声に涙が混じり始めた時に、僕はようやく頭を上げることができた。
彼女は小さな涙を目に湛えたまま、喉につかえた言葉までもを、吐き出していく。
「……あんたなら分かってくれると、勝手に思ってた。でも、一緒に居たのは、こんな惨めな思いをするためなんかじゃ、ない……!」
違う。そんな思いをさせたかったんじゃない。
僕は、ただ……。
そこから先の言葉が、出てこない。
言わなければならない。口にしなければならない。そんなこと、誰に言われるまでもなく分かっているのに、僕の頭は新しい言葉を思いついてくれない。心が、言葉を用意してくれない。
「あ……」
結局、僕は情けない声を一つ吐いただけで終わって、今度こそ楠木さんの顔を見ることができなくなってしまった。
いつもそうだ。
楽しい気持ちも、悲しい気持ちも、苦しい気持ちも、嫌な気持ちも、喜ばしい気持ちも、暗い気持ちも、何一つとして上手く口に出来たことがない。
だから適当にヘラヘラ笑うだけで相手の意見に流されてばかりいるお陰で、気が付けばあっちにもこっちにもそっちにも良い顔をするだけの、ハリボテのような人間が出来上がる。
所詮はハリボテ。外面だけは良くても、中身までは伴わない。
そのせいで、誰からも「つまんないやつ」と認識され、いつかはそのレッテルが貼られ、誰も僕には興味を持たなくなる。そしていずれは、一人になっていく。
今まではそれで良かった。
去って行く人に、執着なんてしなかった。
今回もそれと同じことが起こっているのだが、どうしてだろうか。
僕は、彼女に誤解されたままでは嫌だと、このまますれ違ったままで終わることは絶対に嫌だと、強く願っている。
楠木さんの夢を卑下したわけではない。したかった訳でも無い。
僕はただ、楠木さんの、彼女の夢にひたむきな姿に憧れているのだと、それだけを伝えたいと願って立ち去ろうとする彼女の背を追うように足を動かし始めた──のだが、
「付いて来ないで!!!」
彼女の喝に怯え、僕は前のめりになった態勢のまま体は硬直してしまう。
結局、去って行く楠木さんの背中を追うことも、声を掛けることも出来ぬまま、僕は彼女の背中が曲がり角に消えていくのを黙って眺めていることしか出来なかった。
情けないとは正にこのこと。
そう思う他無く、僕は彼女の姿が消えてからもしばらく立ちすくんだままの状態で呆然としていた。
「……」
どうして僕はあんなことを言ってしまったのだろうか。
どうして彼女はあんなことを言ったのだろうか。
その場に立ち尽くしたまま、先の会話を振り返る。
反省の意も込めて自分の発言を思い出したり、彼女の言葉の意味を理解しようと試みるのだが、極度のストレスで疲弊し切った僕の脳は途中まで思考が進んだところで纏まりかけた答えを霧散させてしまう。
ひめ姉は、僕の夢も他の人の夢も同列だと語ったが、彼女はそうではなかった。
そこまでは理解できるのだが、まさか彼女があそこまで怒るなんて、想像もつかなかった。楠木さんの夢というのは、彼女にとって譲れないもの。譲ってはならない彼女の支えなのだとしたら、僕は確かに軽薄なことを言ったのかもしれない。
だがこればかりは聞いてみなければ……。
そんな思考ばかりが渦巻く頭の中、僕は自転車に跨ることなく、家までの長い道のりを歩いて帰るのであった。
「……ひめ姉には、心配かけられないし」
楠木さんと仲良くなったひめ姉に相談を持ち掛ける、という選択は浮かんだものの、僕のせいで一方的に悪印象を植え付けるような真似はよくないと踏みとどまった末に、僕が思い付いたのは、単純明快。
謝るしかない、という小学生でもわかる答えだった。
その上で、誤解を解く。
きっと、僕と楠木さんとでは、将来の夢に対するスタンスが違うはずだ。言うなれば、初心者と上級者。
楠木さんはきっと高校に入った頃から、もしかしたらもっとずっと前から将来への展望には目星をつけていたのに対して、僕は自分の将来を見据えるようになってまだ三日四日といったところだ。
その時間の差こそが、今回のすれ違いに当たったのかもしれない。
そう思って、帰る道すがら必死になって謝罪文を考える。
負けず嫌いで自分に厳しくて頑固な楠木さんのことだ。きっと納得させるのはかなり至難の業だと思うため、彼女の心に響くような文言を、なんて考えている内に、僕は普段よりも一時間近く遅く、家に帰るのであった。
「問題は、どうやって楠木さんと話すタイミングを作るか、だけど……」
文明の利器たるスマホは僕にとってはただの鉄くずであり、それに不便を感じたことなど無かったのだが、今だけは鉄くずであることを悔やむ。
どこかで聞いた、人間関係の拗れは時間を置けば置くほど修復が難しくなるという。
だからと言って、もし仮に楠木さんの連絡先を持っていたとしても、僕はメッセージを送る勇気はなかっただろう。そんな勇気があれば、普段から半日以上も時間をかけて悩んだりなんてしないだろうから。
無いものは無い。そう断じて思考を切り替えるのだが、明日、もしかしたら彼女は部室には顔を出さないかもしれない。
そうなれば、今後一生関わる機会を失ってしまうかもしれないではないか。
これまでは人が離れていくのが自然の摂理のようなものではあったが、何故か楠木さんに嫌われるのだけは回避したいと強く願う自分がいるのにも気付かぬまま、僕は明日どうやって楠木さんに謝罪する機会を得られるかを考える。
誤解を解く上で、そこが一番の難関だからだ。
そんなことを考えながら、僕は今日一日の終わりを迎える。
まさか明日にあんなことが起こるなんて、思いもしないまま、明くる日がやって来るのを静かにベッドの上で待つのであった。
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