八、それは嵐のように
リュリの居場所を探し出せなかったアルフレッドは、北の泉のほとりで途方に暮れて座っていた。
北の泉を中心に探索したものの、かつて一度だけ連れて行かれた妖精の小屋へは決してたどり着けなかった。
あのときは快諾した目隠しも、今となっては後悔の種の一つだ。
「くっ……」
ため息の代わりに、自分を詰ってしまいそうになるところを、アルフレッドはすんでのところで飲み込んだ。
その顔に浮かぶ眉間の皺はいつもながら深い。頭痛を誘発しそうなほど緊張し、力んでいる証拠だ。
アルフレッドにその苦悶を刻み続けてきたのは、捨てきれぬ片思いと、嫡男としての身の振り方、いつも思い通りに生きられない自分とその境遇への憤りだった。
リュリとの出会いで幾分か和らいできたそれらの悩みも、突如降りかかった災難――女王との縁談のせいで、なかったことになりつつあった。
要するに、これまで以上に強大な困難が彼に襲いかかってきたのだ。
「魔術師ジークフリートの来訪。そこから時を待たずして仮面舞踏会。ユーシィの欠席……。全部、仕組まれていたってことじゃないか……!」
アルフレッドは、苛立ちに雑草をむしった。新鮮な青臭さは、彼の心を和ませなかった。
「俺は、いつも誰かに踊らされるばかりなのか?」
波立つ問いを草ごと泉に投げる。しかし、泉はちゃぷんと、鏡のように美しい湖面で草を抱きとめただけだった。清らかな音に混じって、あの、花の揺れるような愛らしい笑い声が聞こえた気がした。
「もしかして、リュリ?」
アルフレッドは青くなった。
美しい歌声を持つ葦の精が、彼女を恋う牧神を怖がるあまり、湖に入水したという古い物語を思い出したのだ。
そう思うと、彼の背中に寒いものが駆け抜けた。
優しい風のかなたから、清らかなフルートが歌っているのが聞こえてくるような気までする。
リュリが本当に妖精ならばやりかねんと、アルフレッドは大急ぎで泉を覗き込んだ。藁にもすがるような気持ちだった。
アルフレッドが急いで顔をつけて覗き込んだ泉の底には、差し込んだ陽光がきらきらと模様を描いていた。淡水魚もその鱗を見せつけるようにゆったりと泳いでいる。水草が優雅に体を揺らしている以外、泉の底には何もなかった。
「ぷは……」
彼が顔を離した揺らぐ空色の中に映り込んだのは、見慣れた己の顔だけだった。それは焦りと無念とをないまぜにしきれない、なんとも哀れな表情をしていた。
「……もう、本当に妖精になって、二度と会えないんじゃ……」
アルフレッドの喉は、気付けばからからに乾いていた。銀鼠の瞳も同じだった。
「リュリ……」
二度とあの笑顔を見られないのか。
言い知れぬ虚しさが、捨てきれぬ失恋よりも深く、彼の心をえぐった。
水の滴る頬を拭わないまま、茫然自失とするアルフレッドの耳に、風をかき乱す羽音が届いた。真っ黒なカラスが一羽、彼の目の前に降り立ったのだ。
そのカラスの瞳は翠色をしていたので、彼はまたしてもリュリのことを思い出した。そしてその翠の瞳を持つ白い妖精を逃がしてしまった自身の過失についても。
目の前のカラスがアルフレッドをじっと睨みつけながら歩き、すっと飛び立つと、先ほどまでアルフレッドが寄りかかっていた木の枝にとまった。その目はずっとアルフレッドから離れない。
「お前……。もしかして、リュリについて知っているのか?」
妖精のような現実離れした存在の少女、それがリュリだと思っているアルフレッドには、カラスと彼女が友達でも不思議ではないと思った。
そして、カラスもカラスで、否定をする風でもなくじっとアルフレッドが立ち上がるのを待っているようだった。
アルフレッドはおもむろに立ち上がると、愛馬エヴァンジェリンにすぐに戻ると声をかけ、カラスの居る方向に歩きだした。
すると、カラスはどんどんと先の方へ飛んで行っては、アルフレッドが見失わないように枝にとまるのを繰り返した。
アルフレッドは走り出した。
大人の男性の脹脛まで成長しきった雑草が、彼の足を幾度となく捉えたが、彼は転びそうになりながらも駆ける速度を下げなかった。その様子を見て黒いカラスもいちいち枝にとまることをやめ、空中に羽ばたいていた。
日の光が届かないような密林を抜けると、開けた場所に出た。そこには一メートルを越える花や小さな草花の有る畑があった。その畑の向こうに、とてつもなく太い幹を持つ大樹があった。
アルフレッドはその光景に呆気にとられながら、その周りを少し歩いてみた。その花畑はその大樹の周りをぐるりと囲むようにして作ってあるようだと気付いた。大樹に立てかけられた梯子をなぞるように見上げると、その太い枝のうえに器用にくくりつけられた小さな小屋があった。
少し目を凝らすと、その小屋の持つ小さな扉の前に白くたなびく光の筋を見つけた。
リュリだ。
そう思ってアルフレッドは花畑を手でかきわけて大樹のもとへ急いだ。背の高い植物に視界を邪魔されて、なかなかうまく進めない。
そのとき、彼の上空を何か白いものの影が横切った。
アルフレッドが大樹の麓にたどり着くと、小屋へと続く梯子の横に栗色の髪を持つ青年がぼんやりと寄りかかっているのに気づいた。
青年もアルフレッドに気付いたようで、一瞬目を丸くした後、そのリラックスした服装を急いで整え、気をつけをした後に勢いよく頭を下げた。アルフレッドも目を丸くしてそれを見た。
体躯の良い男性二人の間を小さな影が通った。この沈黙を破ったのは青年の方だった。
「若君、先日はとんだご無礼を! 申し訳ありませんでした!」
威勢の良い若者にアルフレッドはたじろいだ。
ほんの少し訝ると、彼の言う先日というのがはたしていつのことだったかを頭の中から導き出すことができた。
「お前は、この間の衛兵か? 名乗りを上げた? 舞踏会のことは気にしなくていいぞ。それよりもなぜ……」
「ここへ来たのか、ですか、アルフレッド・ボーマン殿?」
アルフレッドと青年が対話するその上から、何者かが声をかぶせてきた。きりりと冷たい氷の矢のようなテノールだった。
二人はその声が聞こえた方を見上げると、そこには仮面をつけて異国の衣装をまとった黒髪の男と、力なく彼に抱きかかえられているリュリがいた。
それを見て先に激高したのは、青年兵士の方だった。
「お前は誰だ! 妖精ちゃんを放せ!」
青年の言葉を軽く鼻で笑いとばし、仮面の男は飄々と続ける。
「キミは、城下町の衛兵ルロイ・トマジですね。あなたこそ、彼女にどんな用事があってここに来たのですか? ……と、問い詰めたいところですが、またの機会にしましょう」
「ジークフリート! リュリに何をした?」
アルフレッドが声を張ると、仮面の男――魔術師ジークフリートはひとつ含み笑い、嬉しそうに答えた。
きらりと彼の翠の瞳が閃くのを見て、アルフレッドの頭に何かが引っ掛かった。
「憶えていただけて光栄です、未来の王配陛下。ご心配には預かりません。リュリにはちょっと眠ってもらっているだけです」
王配陛下という単語に、アルフレッドは露骨に嫌な顔をした。それを知ってか知らずか、ジークフリートはくすくすと愉快そうに微笑んでいる。
「魔術師さま? 女王さまの? なんで? いいや、この際誰だって! 妖精ちゃんを傷つけるのは、トマジ家を代表してオレが許さないぞ!」
細い体から大声を張り上げるルロイ・トマジを一蹴する。
「その口を塞ぎましょうか、トマジ君? それに、誰にも僕たちを止める権利はない。もうすぐ僕たちは結ばれる。永遠にだ! アルフレッド殿、二週間後の結婚式が楽しみですね、お互い……」
彼はそう言うなり、自身の長いマントを自身とリュリに巻きつけると、その場から跡形もなく消えてしまった。
「へえ! 妖精ちゃんは若君ともお友達だったんすね!」
「……まあ、な」
大樹の麓に残された男二人は、北の泉に戻る道中、お互いの情報を共有し合った。それは、攫われてしまったリュリを助けるために協力し合うという前提のもと行われた。
主たる話題は、アルフレッドとリュリの関係、ルロイとリュリの関係、そしてアルフレッドのことをなぜルロイが知っているかの三つだった。
ルロイはアルフレッドに対し、なぜか体を縮こまらせてへこへこしていた。
「オレ、伯爵さまに助けてもらったんです、五年前に」
「五年前……。兄貴、いや、伯爵が助けたと言うと……国境警備隊か?」
眉をひそめるアルフレッドに気付かず、ルロイは続ける。彼のその顔も翳っていた。
「そうです。〈孤児院事件〉のとき、国境警備隊の中に放火犯がいるって噂になって。そのとき伯爵さまが、『何とかしてやる』っておっしゃってくれて、それでオレたちみんな、城下町勤務になったんです。……でも」
「伯爵自身は帰ってこなかった……。そうか、そのために……」
兄は責任を取るために姿をくらましたのか、アルフレッドはそう考えをまとめると、少しだけ自身の肩が軽くなったような気がした。そして、兄はそういう器の大きさを持つ人間だったとしみじみと思い返した。
アルフレッドが、リュリの拉致による感情を表に出さぬよう、極めて水面下で感情を煮えたぎらせていたのに対し、ルロイの方は単純明快、苛立ちとやるせなさをその顔の前面に表し、口元を豪快に下げてアルフレッドに魔術師のことを話した。
「あいつ、女王さまの元摂政め! 舞踏会の度に貴族のお嬢さんたちを誑かしたりする、きざな野郎です。今は何をしてるかはわからないけど、城に居ることは間違いないです!」
あからさまに憤慨して見せるルロイを見て、アルフレッドは少し胸がすっとした。
しかし、このまま時間が過ぎるままにしておくと、リュリは本当に魔術師の花嫁にされてしまう。そう考えただけで、アルフレッドの胃が熱く痛む。陽の落ちてきた森の風が、首筋に冷たい。
苦い表情をするアルフレッドを見て、意を決したルロイが言い放った。
「オレ、妖精ちゃんを連れて帰ってきます!」
拳を握りしめて言う青年兵士に、アルフレッドも便乗する。
「ああ、取り戻しに行かなきゃな……」
じゃあこれから、とアルフレッドが言おうとするより先に、ルロイが彼に手のひらを突き出した。
「若君は、お屋敷に戻っていてください! 一人で行かせてください! オレ、妖精ちゃんのこと守りたいんです、この手で!」
髪より明るい金色の瞳を正義に燃やしたルロイを見て、アルフレッドは、自分に足りないものが何かを悟ったような気がした。
それに、狩人である為の弓矢と装備は全て屋敷の自室に置いてきてしまっていたから、このままではヴィスタ城に乗り込むことはできないと、アルフレッドは判断せざるを得なかった。
しかし、軽装なのはルロイも同じだった。
アルフレッドは彼の勢いが無茶ではないかと心配になって、苦言を呈した。
「そう言ってくれるのはありがたいが、相手は魔法のギフトをもっているんだぞ。お前の力で太刀打ちできるかどうか……」
「せめて偵察だけでも……だめっすかね? オレ、足早いですから逃げるにしても大丈夫ですし……。ね?」
「早いと言っても、限りがあるだろう?」
「ないっす! だってこれがオレの〈ギフト〉なんで!」
ルロイは、これ、と太ももを一つ打ち鳴らした。
「早いだけならいざ知らず、疲れるんだったら、やめたほうが――」
「疲れても休めばいい! だから!」
この通り、と両手を合わせるルロイに対し、アルフレッドは偵察だけということで彼の行動に許可を出した。
実際、自分自身がすぐにでも飛んで行けたらと思っていたが、陽が落ちる間際では、エヴァンジェリンに乗ってゆくことは難しいという現実もあった。
ボーマン家の屋敷からヴィスタ城までは馬を走らせて六時間、人間の足なら二日は見積もる距離だったから、今日これからの遠出はエヴァンジェリンに多大な負担になるだろうと予測された。
「じゃあ、いってきます!」
そう言って駆けだすルロイに、アルフレッドは慌てて声をかけた。
「お前、まさかそのまま行くつもりなのか!」
「そう、そのまさかですよ。走るのに邪魔でしょ? 城下町で知り合いの装備を借りればいい話なんで」
そう言うとルロイは白い歯を見せて笑い、北の泉から走り去っていった。
アルフレッドは、ルロイというリュリを救う同士を見つけたことに安堵をおぼえながらも、もし彼が負傷したらという一抹の不安も抱えながら帰路に着いた。兄の助けたボーマン領の人間ならば、それは自身にも責任があると考えながら。
鉄格子の門を開けさせ、エヴァンジェリンから降りると、アルフレッドの元に義姉が駆け寄ってきた。
こんなことは初めてだったから、アルフレッドは身構えた。すると貴婦人は、青い瞳に涙を浮かべながら彼の胸に飛び込んできた。
「あ、姉上……! ふざけるのも大概にしてください!」
突然の出来事にまごつくアルフレッドに、貴婦人はこう返した。
「いやですわ、あなた。ずっとお待ち申し上げていたのに……。どんな夢を見て帰っていらしたの? ユーシィと呼んでくださらないと……。もうわたくしたちは夫婦ではありませんか」




