かつて潰えた理想の先へ
忘れようとしている自分も、忘れてもらいたかった自分も、忘れられない過去も……すべて、取り戻してしまった。
体はさらに強くなったのに、心はあのときのままちっとも変わらない。変えられない。変わろうとしていない?
いいえ、それでも私は前に進もうとしている。
いいえ、進ませてもらっている。
いいえ……私も彼の歩みを助けるんだ。
そして私たちはまだ見ぬどこかへと進んでいく。
しっかりと、足取りを確かめながら。
……どこまでも深い森の霧、ほんの数メートル先すらよく見えない、しかしいる、奴らの気配がある、包囲されているのだろう、隙を見せたらやられる、どうする? どこへ逃げたらいい……?
闇雲に走れば茂みに足を取られ幹に衝突する、いや、そうだ樹木に上ろう、それがひとまずの安全策だ……。
太い幹に飛びつき急いで上る、上る、枝に手をかけたがひんやり柔らかい……って、蛇の体だ!
「うおおおっ?」
すぐさま手を離したのは馬鹿だった、落下の予感! すぐに背中一面への衝撃がっ……!
「ぐううっ!」
くそっ運が悪い、いや待て、急速に気配がっ?
「あちっ!」
なんだっ、風とともに左腕に何かがっ?
いや……ない。
なぜか……俺の、前腕がないいっ……?
なっ、なくなっている、血が、噴水のように吹いて……。
「……うわあああっ!」
叫びと同時に足がっ! 今度は足までもがやられたっ……?
ヤバい、ヤバいどころじゃない……! すでに、吐息が聞こえる、ま、真っ黒な獣たちに囲まれている……。
こ、これは……。
こんな最期、か……。
首が……息が、痛みが、身体中が……。
押し潰されて、引っ張られていく……。
「ぐぁあああああっ……!」
……あっ?
ああ……?
ああ……。
……なんだ、ここは……。
グゥーの、ギャロップ、だったな……。
……まだ、生きている……。
大丈夫だ……体は、ぐちゃぐちゃになっていない……。
しかし心臓が……恐ろしい速さで脈打っている……。
身体中、汗だくだ……。大雨に打たれたかのように……。
あれは、いままでのは、夢、だったのか……?
なんて、夢だ……。
……いや、本当に夢だったのか? 夢なら覚めれば徐々に色褪せるものだが……いま見たものは、何かそう、実体験そのままとしかいえないほどに鮮明過ぎる……。与えられた痛みすら生々しく、体が覚えちまっている……。
疲れがまるで取れた気がしない……。
「どうですか……?」
ふと背後から声がした、マル姉さんだ……。
「怖い体験を存分にしましたか……?」
……ああ、そうか、これがあのがおーっの効果か……! いっていたな、明日にでも分かると……!
おかしいと思ったんだ、あんなかわいいだけのやり方で強くなれるなんて……!
うおお、マジかよ……! そんなに簡単に強くなれるわけがないとは思っていたが、ここまでのものとはっ……!
「め、めちゃくちゃ怖い夢を見たさ……! これがあのがおーっの効果なのかっ?」
「……そうです、わたくしも散々、偉大なるがおーさまにがおられたでがおー……」
そしてマル姉さんはばったりとまた寝始めるが、
「待てまて、これってもしかしてけっこう続くのかっ?」
「……フスカさまがうぎゃおーしたので、毎日続くがおー……」
「マジかよ、毎日死ねってかっ?」
「……安全に死ねるがおー……」
「いや、毎日襲われろって話なのかっ?」
「そうだがおー……」
「だめだろあんなの、どうにかしてくれよっ!」
「フスカさまがそうしたなら、弟子たるがおーらはがおるのががおだがおー……」
くっ、二度寝しやがった……! なんか肝心の師匠の姿がないし……! つーか寝ぼけてがおがおいっているが、これ周囲にがおーっをぶちまけているんじゃなかろうな?
それより師匠か、その辺にいるんだろうか? 外へと出てみると、少し離れた木陰に師匠とエリの姿があった。なにやら深刻そうな顔で話をしているな……と、師匠がこちらを見やり、手招きをしてくる。
「……おはよう。どうかしたの……?」
「うむ、エリがな、お前たちのグループより外れるという話だ。いわく、鳥が出せなくなったそうだ」
なにっ……?
「な、なんで……」
……いや! 昨夜の、カムドの話でかっ!
「ままっ、待てまて、奴の話を真に受けているのかっ?」
エリは、こっくりと頷く……。
「いやいや、えっと、おかしいじゃないか、む、矛盾しているよ、ええっと……そう、アイテールの全貌が謎なのになんで奴はそんな根幹みたいな構造というか機能を知っている? 俺は与太話だと思うなぁーっ!」
「根幹ではないからだろう」師匠だ「伝承によれば、アイテールは賢人によってその姿を変えるという。その全貌は人類には記述できず、明らかにはならないとも」
「変える……?」
「人間用に機能するよう設定されているということだよ。機械を使用するのにその機械の構造を熟知する必要はあるまい。それと同様のことだ」
「それはそうかもしれないが……人間用だって?」
「うむ、それゆえに人間に近しい存在ほど強力かつ複雑な特異能力が発現しやすいとされている」
なるほど、確かに人とでかい獣じゃ膂力に天地の差がある。基本的にアイテール術が人間優位でなければその差は永遠に埋まらないだろう。
「しかし、人間っていってもいろいろいると思うんだけれど……」
「よく気づいた。人間の定義とは曖昧だ。単純に人体構造なのではないかとされているが、その構造もまた種族差、個人差があろう」
「いやそれよりエリだよ! なんでそんな……いや?」
……あれ、意外と悪くないかもしれないな? 魔術が使えないなら冒険には参加できないだろう。それはつまり危険から遠ざかることを意味する……。
とはいえセイントバードや治癒の魔術がないのはめちゃくちゃ痛いというか、俺の死に直結しそうな大問題のような気もするが……それはまあ、俺が気をつければいいだけの話だしな。
なんてこっちの話はいい、いま問題なのはエリの落ち込み方が半端じゃないってことだ……。そう、彼女はひとの役に立ちたいと思っているんだ、心情的にはかなり辛いことだろうな……。
「まあ……それなら、宿で待っていたらどう……」
……って、こんなときに通信だ……。
『ちょっと! 鳥女の鳥がどっか行ったんだけど!』ユニグルかよ『せっかくこき使ってやってんのにとんずらよ! 時間制限があるなら先にいいなさいよ! いえ、どうせもういいかとか思って解除したんでしょうね!』
なんだよ、いらないとかいって使ってんじゃん。
「違う違う、急に出せなくなったらしい……おそらく、精神的な問題だ、彼女も当惑している」
ひとつ間が空き、
『……そう、ならいいけどさ! でもこれで分かったでしょ、よく分からない魔術なんかより科学医療こそが真っ当な治療なわけ!』
「でもお前、クリエイションマシンだって魔術と関係あるみたいな話聞いたぜ? 大元は似たようなもんだよ」
『それがね、私のは違うのよ。なんかオールドレリックらしいの。つまり発掘品なんだって』
「発掘品……」
『クリエイションマシンでつくったのってわりと厳密に個数管理されてるらしいのよ。だから横流しはまずいってわけで、発掘品を売りつけてたってわけ! なんか高いと思ってたのよねー』
「へえ……って、長話している場合じゃない、そういうことでな!」
『あ、ちょっと……!』
通信を切るとエリが顔を上げる。
「……ユニグルさんですか? 鳥が消えたのでしょうね……」
「ああ、まあ、怒っていたから、相応に便利と思っていたんだろうさ……」
エリは……目に涙を浮かべている……。
「……でもまあ、これまでがんばってくれたんだ、少しゆっくりと……休んでもいいと思うよ」
「魔術が使えなければ私には……何もありません……」
「いやいや、そんなことはないさ……!」
「それに、何が正しいのかも……」
エリはふと、頭上を見やる。
「ですので、私は……」
つられて俺も見やると、頭上からまたもギャロップが姿を現わし……。
しかし、この気配はまさか……!
白いそれはゆっくりと着陸し、ドアが開くと……ニューと、ホーさんが出てきた……。
「まさか、エリ?」
「はい、相談をさせていただきました。すると、しばらく身を寄せてはどうかと提案していただけて……」
「うーん?」師匠が首をかしげる「お前は私の弟子であるはずだがな」
「足手まといになりますので」
「私がそういったか? マルはどうだ?」
「いえ、でも、私は……」
「ふん、黒い聖女か……」
ホーさんが近づいてくる……。
「先日はどうも……。お二人とも、お元気なようで……」
以前の調子に戻っている、な……。
「ええ……でも、あの、エリを連れていくんですか……?」
「いまの彼女では危険な冒険には同行できませんでしょう……。それとも、宿へと置き去りにしますか……? どちらも過酷なことではありませんか……」
そ、それは確かに……。
しかし、妙に得心のいかない感じがあるな……。彼女らには借りもあるがどうにも……。
「おはようございます、お兄さま」ニュー、だ「彼女は私たちが責任をもって預かります。問題ありません、お任せください」
なにか……なにかが……。
「……どこへと連れていくんだい? あのユーさんの家?」
「私たちの家へ、です」
「それはどこに?」
「お兄さまもしばらく一緒に住まわれますか? 歓迎いたしますよ」
「いや……俺は、いろいろと用があってな……」
「でしたら私たちにお任せを。エリさんもそれを望んでのことでしょうから」
それは、そうなのだろうが……!
「カムドのせいだ……! 余計なことを吹き込みやがって……!」
「ですがある意味、幸運であったのかもしれません。これが森の奥にて起こったことならもっと大事になっていたかもしれませんよ。安全な場所で判明してよかった。そう考えましょう」
前向きなのか、それとも庇っているのか。
だとしたら君たちも奴と繋がりがあるのか……。
「……ニュー。任せて、いいんだな?」
「ええ、もちろん」
「ニュー……俺は、エリが大事なんだよ。分かってくれるよな……?」
「……ええ」
ニューはじっと、俺を見上げる。
ホーさんは、エリと話をしている。
「あなたの自己評価はまるで道具ですね……。役立たずは捨てられる、そのような世界観にその身を置いている……。ですが、それは間接的に、自身とよく似た存在を否定することに繋がります……。見方を変えれば冷酷なことではありませんか……?」
エリはうなり、
「理屈では、そう、なのかもしれませんが……」
「あるいは自身を卑下、差別しているのです……。もしくは病的なまでの謙遜か……。いずれにせよ、健康的ではありません……」
「……こちらから助けを求めたとはいえ、そのような私に、なぜ、よくしてくださるのですか……?」
「みな、あなたが好きだからですよ……。困っている友人の相談にのることは至極当然ではありませんか……」
……そうなのだろう。
ホーさんは好意でよくしてくれている……。
しかし……。
「……エリ、すぐに戻ってくるよな?」
話しかけると、彼女は力なく微笑もうとした。
「……すみません、私は、お役に立てないのも、宿でじっと待つのも嫌なのです」
そう、か……。
「さあ、ゆきましょう」ニューがエリを連れていこうとする「会いたくなったときはいつでも会えますから」
エリはふと振り返り、
「それではまた……。旅の安全を心から願っています……」
「あ、ああ……。いや……」
待てと肩を掴むには見えない壁があり……言葉を探しているうちにエリたちはギャロップに乗り込み、それはあっさりと飛び去っていってしまった……って、背中を叩かれた!
「本人の意思だ、仕方ないな!」師匠かよ「では私たちもそろそろいくとしよう!」
そして師匠はマル姉さんを叩き起こし、出発の準備をし始める。
しかしエリ……あんなにあっさりと、少しくらい相談してくれてもいいだろうに……。
「肉焼き器や椅子などは好きに使え! それではまたな!」
「あっ、フスカさま……!」
髪を直していたマル姉さんが慌てて俺の手を取る。
「エリさんのこと、つい先ほど聞き及びました、寝こけている間になんとまあ、姉弟子として不甲斐なく思います、ですがそんなものなのでしょうね、なんせ私たちは出会ったばかりなのですから」
「え、い、いや……」
「よいのです、私とて浮世離れした森の住人、信頼関係にすぐありつきたいなど高望みでしょう。ですが私には確信があります、私たちはいつか生涯の繋がりを得るであろうことを。ですから……」
マル姉さんはにっこり微笑み、
「がおー!」
そして彼女は師匠の元へ、二人は手を振り……少しの間、そうしていたようにも思えるが、あっさりと去っていったかのように今はもういない……。
というか最後までがおっていきやがったな……。
「俺たちも行くぜ」
おおっと、ヘキオンらもか……。
「いつまでもここにいる必要はねぇからな」
「……これからどうする?」
「一時、凍結していたメインミッションを再始動させる。俺たちを改造した奴らにその真意を確かめるのさ」
改造した奴ら……。
「加えて、元の体に戻る方法をも探らねば」ボイジルだ「この地に欠損した人体部位の再生を行える技術があるという情報はすでに得ている」
「……それと、ゼステリンガーとの決着もかい?」
「うむ。奴がまだ生きていればの話だが」
「俺は現状にとても満足しているが!」うおっとヴォールだ「可能ならばさらに強く改良したいな!」
ううーん、らしいっちゃらしいが……。
「じゃあな、姐御によろしく」
「そうだ、黒エリが戻ってからでもいいんじゃないのか? いつになるかは分からないが……」
「戻るのはお前さんのところへだ。俺たちとは合流しない」
「なに? ……こっちに戻るとして、それでいいのかい?」
「俺たちのことは気にするな。べつに決別するってわけでもねぇしな」
そう、かもしれないが……。
「姐御はお前さんに任せた。それとあれだ、フェリクスの野郎だが、あいつはどうなんだ?」
「正直、よく分からない」
「……女だか知らんが話がこじれそうならなおさら、あいつこそ俺たちと合流した方がいいと思うがな。ここだけの話、お前さんらの足手まといになってねぇか案じてんだ」
「そんなことはないが……対人関係においては厄介ごとを持ち込んでくるんで少し困ってはいる」
「伝えといてくれ、どうせ別れる女なら早めにしろってな」
「ああ、まあ……」
「わからんであろう」ボイジルだ「添い遂げる意思があるやもしれんぞ」
「わかるぜ、あいつのことだしよ」
「はてさて、どうだか。そもそも……」
なにやら言い合いを始めながら、彼らもまた、去っていく。
「なんだよ、唐突にみんな消えちまった」グゥーは肩をすくめる「エリさんも品物を選ばないまま行っちゃったし」
いま残っている面子はフェリクスだけ……いや、そういやジニーがいたな。いま何をしているんだろう?
「で、どうするよ? 俺もあと数日しかいられんけど」
「どうもこうも、黒エリ本人と、ワルドの所在に関する情報を待つしかないんだよな」
「そうか。そんじゃあまあ、時間までダラダラしてよーぜ」
ダラダラ、ね……。というかマジでロッキーはどうしたんだ? まさか人知れず死んでいるんじゃなかろうな。
探してみようかな? でも連絡を取りようもないし、冒険者ってやつは根無し草だしな。いまごろ別のグループと仲良くやっているのかもしれない。
なんとも人気のなくなったギャロップに二人、俺たちは簡単な朝食にし、それからダラダラとグゥーに貰う品物を吟味する。壁に投影された映像には様々な逸品が並んでいるが、いざ選べとなると迷っちまうもんだ。
……それにしても、まいったな。いろいろあってか、がおーの件も師匠から聞きそびれてしまったし、昨夜のこと、ウォルの軍部に関する問題だってある。
まあ、がおーは修行なんだ、きつくてもやるしかないだろうが……ウォルの件はいかにも不自然だろう。ちょっと番組に出たからって俺なんかを勧誘してどうなるっていうんだ?
「グゥー、そういやよ、あのウォル軍はなぜ俺なんかの元へわざわざ出張ってきたんだ? どう考えても俺個人の能力が目的とは思えないが」
「ウォルは強固な階級社会の種族だから、他種族の著名人を集めていろいろやってんのさ。異なる価値観を得るためにな」
「異なる価値観? 厳しい階級社会なら、他種族の、例えば人類平等みたいな思想とはソリが合わないんじゃないか?」
「そこら辺が奴らの強かさだな。閉塞的な社会じゃ突発的な危機に対応できない。だからイレギュラーな要素は常に内包しておかなくてはならないって考え方だ。それにあれだ、下級階層へのガス抜きにも必要なんだ、平等な外の言葉という娯楽なんだよ」
「そんなもんかねぇ……というか直接的な原因はあの番組に出て目立ったことにあるんだろうし、お前らにも責任あるんじゃねぇ? このレク氏に対し、どうにかしてあげようって気持ちとかないの?」
「正確には番組でレク氏がコマンドメンツやカムドの名前を出しやがったからだろうな。ウォルの上層はやはり内心、階級を無下にする存在を危険視してるんだ。なかでもコマンドメンツなんてのは平等かつ凶悪だからいよいよウォルと相反的だし、特に野蛮超人は自国から出てきたとんでもない反抗因子だからな、一応にでも関係者はみんな集めたいんだろうよ」
そしてグゥーは肩をすくめ、
「叩き潰すだけでは終わらない。奴らの思想がいかに邪悪であるか、事後のフォローも必要だしな。カムドと敵対してるお前が後でいろいろ証言してくれるって期待してんだ」
「俺に奴らを貶せと?」
「嫌なのか? 立ち位置的に敵だろ奴らは」
敵……ね。確かに奴らは恐ろしく危険だし、師匠とも戦ったが、実際にそうとは断言できないだろう。身ひとつで熊と接することは危険だが、熊が敵とは限らないように……。
「どうかな。そもそも俺は関係ないしな……」
「ウォル……いや、カムドやコマンドメンツもそう思ってないようだけどな」
「くそっ、いいようにやられちまったな……」
「しかし、思ったより面白い爺さんだったな」グゥーは笑む「凶賊たちが一目置くのも分からんでもない」
「……しかし、奴のいっていることは本当なのか? 魔術がよく分からない混沌を生み出しているなど……」
「俺に聞くなよ。しかし、少なくともエリさんは信じ込んだらしいな」
「……ホーさんってひとは、どんな人なんだ?」
グゥーはふと、腕を組んでうなる。
「……あのひとに関しては、俺たちの認識にそう違いはないと思うぜ」
「というと?」
「善人だとは思うが、どこか恐ろしい」
それは……。
「そうかもな……」
「というかあの美人だれなんだ? お前のことお兄さまとか呼んでたけど……」
誰? 誰って……。
「忘れたのか、ソ・ニュー伍長だよ。入院中に会ったろう」
「……いや?」
「いただろう、案内役で」
「いたか?」
「いた」
「……ふーん?」
「まあ、入院中だったしな」
「おかしいな、俺の美人センサーにかかった相手は忘れないはずなんだが……」
単に覚えていないだけか、あるいは……ゼ・フォーのいっていた記憶抹消の影響を受けたか……。
もしあの話が本当なら、俺もいつかは彼女を……?
「まあおそらくだが、これまで記憶になかったならまたすぐに……って」
誰か来る気配……? ああ、フェリクスのか。
「フェリクスが来る。皇帝の件かなぁ」
「まーだやってんのそれ?」グゥーはうなる「クソどうでもいいじゃん、ほっとけよ」
まあ帝国まわりの話には興味深い内容も多いが、こと皇帝に関してはなぁ……。
ギャロップから降りると、そのうちフェリクスが森より現れた。
「やあ、おはよう。ちょっと話があるんだけどさー」
ううん、まあ面倒くさい匂いしかしないな……。
「あれ、レクだけ?」
「ああ……いまは俺とグゥーだけ。エリが……」
事情を話すとフェリクスは眉をひそめる。
「……大事な人はちゃんと繋ぎ止めておかないとだめだよー」
「しかし実際問題どうしろっていうんだよ? 生身のままじゃ俺より危険だし、相談したい相手もホーさんなんだし……」
「それはそうだけどさー」
「お前もあれだぜ、ヘキオンがさ、チームに戻ったらどうかってよ。皇帝の話も正直、厄介に過ぎるだろう。友人関係以上のものを求めないならもう手を引いたらどうだ?」
「うーん……いまさらそれは……」
お互い、ぱっとしねぇなぁ……。
「……それで、何の話なんだ?」
「ああうん、昨夜ね、ヴァーミーが僕のところへ来たんだよー。それでいろいろ話したんだけどねー」
「誰それ? ……まさか、ヴァーミリオンのシフォールか?」
「そうそう」
ヴァーミーってなあ、仲良しかよ。
「まずはアンヴェラーの意向をはっきりさせようって話になったんだよー」
ああ……そりゃあそうだ。
「ようやく話がついたのか?」
「まだ。でもその流れでねー……」
……あっさり否定しやがったなこいつ。いつになったらまとまるんだ。
「そもそもどこの何で性別を変えるのかって話にもなってねー、なんでもヴァーミーは竜の血を研究しているところに雇われてるらしいんだ。でね、そのエージェントとして前の元老と手を組んで、延命治療や若返りの薬を提供していたりもしてたんだって」
「ようは仲介屋なのか。で、その雇い先がそういう技術をもっていると」
「そうらしいよー。それでね、話の流れで発覚したんだけど、ジューさんっているでしょ、グッディのお姉さんの」
「グッディ……? グゥーのこと?」
「そうそう、で、ジューさんって一応、その研究所に籍があるらしいんだー」
ええ……? ああ……そういや母系特殊優性だったか、生物学的な知識があるような雰囲気だった、な……。
えっと、ということはジューとシフォールは元より繋がりがあったってことなのか……?
「ふ、ふーん……それで?」
「なんかね、ケルビムプロジェクトとかいうのがあって、その派生でどうにも完全中性を実現する計画があるらしいんだ」
「なにぃ?」
「アンドロギュヌスだったかな? そう呼ばれる体にできるらしいよー」
それは……話のくだりからすると、
「ええっと、男女双方の特性を保持する的な?」
「そう」
「なんか話がさらにややこしくなったな……」
「そうなんだ。あと陰極性別というのもあってね、胸も性器もない状態にもできるらしい。つまり四種類から選べるんだね」
選べる……ねぇ。
「……でも、シフォールは女という性にこだわっているんだろ? 多様性の示唆は不利にならないか?」
「なにやら説明義務があるっていってたよ。実際に手術するのはその研究所なんだから」
「うーん? でもあいつそんなことこれまでおくびにも出さなかったろ」
「ごまかす腹づもりだったらしいよー」
まあそうなんだろうが……。
「あいつは……一途というかなんというか、本気度は大したもんだとは思うが、やり口が気に入らんな」
「でもようやく腹をわって話してくれたともいえるよ」
「お前はなんでそんなに前向きなんだよ……」
フェリクスはにっこり笑み、
「後ろ向きに考えてよかったことなんてないからねー。それに、複雑という意味じゃレクの方がよっぽどじゃないの? いろんな女性に好かれてさー」
「まあ、好かれて悪いことはそうそうないのかもしれないが、具体的な話、みんなどうしたいんだとは思うよ」
「まあ、愛し方は様々だからねー。それがレクの意向と合ってるかは分からないよね」
愛しているとはいうが、エジーネなんぞはそれがどういう形なのかマジで分かったもんじゃねぇしな……。
「男女間に絶対の形はないしねー。文化的価値観、人生的背景において人はそうあるべき終着点を見出そうとするものだけど、それが本当にいいものなのかは分からないんだ。例えば婚姻はつまり契約に過ぎず、人の感情は必ずしもそれを容認しない」
「……なんだそれは、まさか浮気の正当化か? その先で何が起こるのか、お前は何を知っているんだ」
「僕は知らないよ」フェリクスはふと真面目な表情になる「僕の父は厳格で母を縛っていた。母はそれに満足していた。だから僕は子供の頃そういうものだと思っていたが、結果はこうだ」
フェリクスは肩をすくめる。
「父は怒っていた。母は悲しんでいた。我が子はつまらない遊び人になったと。でも、僕にとってよりリアルなのはやはり僕の世界なんだよ、愛憎ゆえに三たび殺されそうになったとしてもね。だから僕はそれを知りたがらない」
「……それでもなお、強い情念の絡む人間の恐ろしさが分からないのか?」
フェリクスは大きく頷く……。
「どんなひとでもきちんと話せば分かり合えるからねー」
「……本当かよ」
それは言葉を使って心情を吐露している場合の話だろう。しかし、人が言語という道具を使用する意図は様々であり、そこにルールは本来、存在しない。例えばよく人は嘘を悪いことと見なすが、言語の機能として充分に予測できる結果という意味ではそこに善悪などなく、むしろ構造的な必然に過ぎないとさえいえる。
そしてフェリクス、お前はそんな言語の構造を踏まえてなお、誰ともきちんと話していると、分かり合えると断言できるのか? 相手の真意、悪意を汲み取れるのか……。
……いいや、そんな議論をふっかけてどうなるっていうんだ。こいつはいい奴だ。前向きな生き方に水を差す必要もないだろう……。
「……まあ、皇帝の件はお前次第さ。俺には何がよくて悪いのか分からんよ……」
「でもジューさんが絡んでるし、そのうち顔を貸してもらうことになると思うんだ」
「あんまり気乗りしないが……」
……なって、おいっ……!
この気配はっ? あそこにいるのはっ……!
間違いない、黒エリじゃねーかっ……!
うおお、マジでいるわ、木陰からなんかこっち見とるわ!
というか、なんでまた遠目にいるんだよっ?
「おおいっ? 黒エリこのー!」
駆け寄っていくとなんか木の裏に隠れたっ……?
「おいおいおい、戻ってきたならさっさと声をかけろよな!」
「ああ、ええ、えおうん……」
なんか……あれ、どうした?
「なんだどうした、いまさら照れ臭いのかぁ?」
そして木の裏に回るが、黒エリはさらに反対方向に回り、俺たちは樹木の周囲をぐるぐると何周もしてしまう……。
「いやいや、なによ? どうしちゃったのよっ?」
黒エリはようやく足を止め、
「いや、あの、なんだかバツが悪くて……。あれから大変な事態が起こったと聞いたし……。そんなときに私はいなかったから……」
なんだ、そんなことかよ。
「あんだけいろいろあれば仕方ないさ。まあ、これからはお互い見失わないようにしようぜ」
黒エリは、こくんとひとつ頷く……が、
あれ、どこか雰囲気が違うような?
バツが悪そうとかそういうところだけではなく……。
妙に可愛らしい……ではなく! なんか、いろいろと何かが違う感じ……。
「……ま、そのことはいいさ。ともかく戻ってくれてよかった、実際いろいろとまずい状態にあってな、大きな問題としては……」
ワルドとエリの話をすると、黒エリは幹にもたれかかり、そのまま足を抱えて木の根に座った……。
「……ホプボーン氏のことは初耳だけれど、エリのことは……知っていた」
「そ、そうなの?」
「遠くから、見聞きしていたから」
「そうなのっ?」
……いや、そうか。そういうことか……。
「……内戦のことで責任を感じているんだな?」
沈黙という答えが返ってくる……。
「エリと会うのが怖かったんだな……」
黒エリは、小さく頷く。
「……秘密にしておきたかった。いえ、しばしば霞みがかっていたように思える。記憶も、罪悪感も……。そう、彼女と融合してから……」
ニプリャの影響か……。
「でも、いまは違う……。私は、私だから……」
私は、私……。
これまでの黒エリとは、違う……?
「そう、か……。しかし、エリはお前を責めたりしなかったろう?」
黒エリは俯く……。
「……二人はよく似ているな」
そう、似ているじゃないか。
よかれと思ってやってきたことが裏目にでる。
幸せのために頑張ってきたのに、不幸になる。
ひどいことだが、そういうことは往々にしてある。
あるが、
どうしてもあることだが、
しかし……そういうものだと言い切るには、
俺たちは、人間はまだ若すぎると思うね……!
「……辛いなら、話したいことがあるなら俺でよけりゃあいくらでも聞くさ。それで済むならな。しかし、何かすべきと思うならそうしていないで動くべきじゃないか? お前自身の救済としても」
黒エリは顔を上げ、
「したい何かを……この私がしていいのか分からない……」
「したいならすべきだろう。というか、そもそもお前のせいなのかよ?」
「そう、私のせい……。私が余計なことをしたから……」
「そもそもの話、本当なのかそれ? 超共感能力だかエンパシアだか知らんけれどさ、そんないうほど影響力あるとは思えないぞ」
「私には、みんなの心が分かるから……」
「じゃあ、いま俺が何を考えているか分かるのか?」
黒エリはちらりとこちらを見やり、ふと顔を膝に埋める……。
「……考えている言葉とか、細かいことまでは分からないよ。でも、元気になれそうな気がする。ありがとう……」
ありがとう、か……。まあ、俺がお前に対しどう思っているのか、大方には分かるようだが……。
だからといってお前のせいなんて論調にはまったく繋がらんけれどな……!
「……うーん、エリもさぁ、なんか殻に閉じこもったままっていうのか、なんか……なんでそんなに背負い込んじゃうの君たち……?」
「世の中をよくできると……思ったから……」
「みんなが幸せなら自分も幸せになれる、だから世の中がより明るくなった方いい、か……。そうだな、それは分かるよ。ニュアンスは変わるが、俺も他者の幸福は巡り巡って自分の得になると思っているクチでね」
俺は、肩をすくめてみせる。
「しかしお前やエリの場合はもっと切実だったんだな。みんなの心情が自身の気分に直結するんだ、どうにかして世間の感情をよくしたかった」
……黒エリは、ほろほろと涙を落とし始める……。
「……残念だったな。みんな、内心は幸せを望んでいたんだろう? お前もそれがよかった。だからやってみたんだ」
「私は……」
「でも、なぜか上手くいかなかった。……悲しいな」
黒エリは、必死に涙をこらえている顔で、たくさんの涙を流している……。
あの黒エリが……。
「悲しいなぁ……しかし」
……いつの間にか、俺の頬まで濡れているが、
「いつまでもは泣くなよ……! 最近エリもよく瞳が潤んでいるが、延々と泣いているばかりではだめだ……! したいことがあるなら俺も手伝うからさ……一緒にさ、ええとそう、暢気にさ、そんな感じでやろうぜ! お前の抱く理想が本当にいいものなら、絶対にそっちの方が近道だって!」
勢いでそういうと、ふと黒エリは目を丸くし、
そして顔をまた膝元に埋め……涙ごと小さく笑った、ように聞こえた。
「暢気にって……」
「そ、そうだよ! いやまあ、そういう方向で? だな……」
だってさ、そういうしかないだろ?
人は、世の中はこんなだが、諦めてしまうには絶対に早いし、諦めないなら泣かずにやるしかないって……苦しみながら、嗚咽しながら、あるいは鬼の形相で必死にやれば上手くいくなんて、そんな悲惨な見てくれじゃ誰もついてこない、ましてや世の中なんてものが救えるものかよ!
……とはいえあれだ、暢気ってのはちょっと変だったかな。穏やかにとか楽しくとか……いや、楽しくはもっとおかしいか? いやいや、どうして楽しんじゃいけない? いいことをするつもりならなおさらに……。
うーん、よく分からなくなってきたが……。
まあいいや、そういう、あれだ。
そしてそういうあれで、少なくとも黒エリの涙は止まったようだ……。
「そうだね……いや、そうだな……。そうしよう、私はそうしてみたいよ」
「ああ……そうさ、俺もな!」
……でもあれだな、手伝うとかってさ、もちろん軽々しくいったつもりはないが、ことの大きさに比べたらあまりにも心許なく……。
……いいや、よそう。懸念なんていまさらだ。
先へと進もうじゃないか。
暢気に、楽しみながら。