翳
放課後、朔は道場にいた。昨日の出来事が脳裏を離れない。何をしていても、意識は否応なくそこへ引き戻された。ならば体を動かしている間だけでも忘れようと、朔は稽古に打ち込むことにした。道着に着替え、基本稽古をこなしていく。いつもと変わらぬ手順を踏みながらも、意識は散漫なままだった。それでも朔は、目の前の組手に集中しようと努めた。だが
「 あっ!!」
声で我に返った朔の視界の端に、組手相手である高橋の上段蹴りが迫っていた。当たる、そう強く意識した瞬間、足の甲が眼の前で止まっていた。弾かれたように後退りする朔。わずかな間を置いて、高橋が体勢を崩し、尻もちをついた。
「大丈夫か。組手の最中に気を抜く馬鹿があるか。怪我するぞ」
村上は朔に厳しい言葉をかけると高橋を振り返る。
「ぎりぎりでよく止めたな、高橋」
「あ、はぁ……。止めたっつーか、一瞬体が固まったような……?」
高橋は不思議な表情を浮かべながら立ち上がった。村上が朔と向き合う。
「朔、今日はずっと気が抜けているぞ。調子が悪いのなら怪我をする前に上がれ」
「……はい、そうします」
俯きながら覇気のない言葉を絞り出した。 村上は若干眉を顰めたがそれだけだった。
「一人で帰れるか?お母さんに来てもらうか?」
「大丈夫です。失礼します、押忍」
朔は力なく頭を下げた。
「そうか気をつけて帰れよ」
村上は更衣室へ向かった朔の背中を案ずるように見つめると 、すぐに稽古を再開した。
「よし、じゃぁ朔の代わりに友田 」
「押忍」
元気の良い返事が道場内に響き渡った。
西日が強烈に眩しく、景色は橙色に燃えている。道場からの帰り道、朔は自然と昨日の場所を避けていた。
「……ただいま」
呟くように帰宅を告げるが、まだ誰も帰ってないようだった。部屋に行くのも億劫で、鞄を置くと制服のままリビングのソファーに座り、何時もの習慣でテレビをつける。映ったのは、どのチャンネルにもある夕方のニュース番組で女性アナウンサーが原稿を読んでいた。陽が落ちるにつれ、部屋に差す光は橙色から赤く変わり、そして暗闇に包まれていった。しばらくの間、ぼうっと聞き流していたがハッと顔を上げた。
朔の目がテレビ画面に釘付けになる。
『昨夜、県内の畑で男性が倒れているのが発見され、その後、死亡が確認されました。男性は二十代とみられ、警察が身元の確認を進めています。遺体に目立った外傷はなく、警察は事件と事故の両面から捜査を進めています』
テレビから流れるアナウンサーの声は、いつもと変わらず淡々としていた。画面には規制線の張られた農道と、現場を調べる何人かの警察官の姿が映し出されていた。
アナウンサーが告げた住所と昨夜襲撃された場所は一致していた。
画面を凝視し続ける朔の脳裏に襲われた記憶が鮮明に蘇る。
土の感触。男の荒い息遣い、欲望に昂る目、触れた心臓の激しい鼓動。
朔は大きく息を呑んだ。目を閉じ深呼吸をする。心が少し落ち着くと疑問が浮かぶ。
死んだ?あの男が?何故?私のせい?どうして?
何も分からない。何も分からないが。
気がつくと手足が震えていた。
襲われた恐怖。そして、何が起こったのか分からない不安。
だが、胸の奥で渦巻いているのは、それだけではなかった。
怒り。憎しみ。屈辱。どす黒い負の感情が体の奥底から沸々と湧き上がってくる。
夜の帳が下りた暗い居間で、その衝動に耐えている朔をテレビの青白い光が浮かび上がらせていた。
玄関で鍵の開く音がして、沙夜の『ただいま』という声が聞こえてきた。朔はテレビを消して鞄を持ち上げると、何食わぬ顔で母親へ声をかけた。
「おかえり」
「あれ、朔じゃない。空手は?電気も点けないでどうしたの、お姉ちゃんは?」
沙夜がリビングの照明を点けた。
「ちょっと早く上がって私も今帰ってきたとこ。お姉ちゃんはまだみたい」
「そう。夕飯の支度するから、ちょっと待ってて」
沙夜が冷蔵庫を開けて、買ってきた食材を仕舞いながら言った。
「お風呂入りたいからお湯入れるね」
「あら今日は早いのね。いつも入れって言ってもなかなか入らないのに」
朔に対して沙夜は普段通りであった。
浴槽で湯に浸かりながら、これからの事を考える。既に恐怖と共に不安は霧消し頭は冷静だった。
名乗り出る気など毛頭なく、不思議と捜査の手が及ぶとは思わなかった。男の死因についても全く心当たりがない。万が一警察によって事件との関わりが明らかになったとしても自分は被害者であると言い張る自信があった。
それよりも。
許せなかった。あの男が。
許せなかった。己の非力さが。
何より許せなかったのは恐怖に屈した自分だった。
己を抱きしめるように交差させた両手の爪が上腕の肉を破り、お湯に血を滲ませていた。
顔を上げた朔の瞳には今まで存在しなかった翳が差していた。




