謎の音
何時もと変わらぬ日、何時もと変わらぬ夜だった。
夜の肌寒さも徐々に和らぎ、過ごしやすい季節になりつつある5月の初旬。長い連休の最終日、勤め人や学生の殆どが憂鬱な時間を過ごしていた。夕食を食べるには遅く、寝床につくには早い刻にその音は鳴った。
世界を貫き宵闇を切り裂くような響きを持った音であった。
ある者はサックスの音色だと言い、楽器に詳しいものは、いやトランペットの音だと言った。共通していたのは管楽器の音だった。
「え?なになに?暴走族?」
湯船に浸かり弛緩しきっていた朔は、余りの音の大きさにハッと体を起こして急いで窓を開けた。冷気が風呂場に入り、代わりに湯気が外へと逃げていく。視線を道路へと向けるが何もなかった。バイクを蒸すエンジン音も聞こえなければ、集団で道路を走る騒音も届いてこない。取り締まろうとする警察車両も見当たらなかった。乾燥した冷たい空気だけがあった。
「……あれ?何もない。でも凄い音だったけど。パッパーッて」
開けた窓から侵入した冷気が朔の体から体温を攫っていく。
「さぶ」
窓を締め再び湯船に浸かる。
「あったかい、しあわせ」
程よい温度の湯水に包まれながら思考は連休明けの高校生活へと巡る。今春中学を卒業し、期待と不安が入り混じった気持ちで高校に入学して、はや一ヶ月となる。友達が出来るだろうか、勉強はついていけるか、部活は何処へ入ろう。空手部なんてあったっけ?いや道場に通ってるんだから部活は違う分野がいいとか考えていたなぁ、と過去の思いを振り返る。長い時間考えを巡らせていたので頭がぼーっとし体が茹だっていた。
「クラクラしてきた。出よ」
湯船から溢れる水音と共に引き締まった身体と長い手足が現れる。
「それにしても何だったんだろ?さっきの爆音」
答えは風呂場の何処からも返ってこなかった。
自分の部屋で中途半端な長さの髪をドライヤーで適当に乾かした後、隣の姉の部屋をノックもせずに開ける。
「お姉ちゃん、起きてる?あ、またヘッドフォンで音楽聞いてる」
二つ上の姉の望はPCに向かって目を閉じ何やら真剣に聞き入っている。画面には十数人はいるであろう制服姿の高校生が様々な楽器を奏でている姿が映っていた。部屋に入ってきたことに気づかない望の肩に手を置くと、漸くビクッと体を震わせ目を開けてヘッドホンを外した。
「ビックリしたわ。何?何か用?」
不機嫌そうに朔に目を向ける。耳から外したヘッドホンからは微かに楽器の音が漏れている。
「当たり前じゃん、用があるから来てんでしょ」
「こいつ、相変わらず生意気な。アンタどうせノックしてないでしょ」
「したって意味ないじゃん。いっつも音楽聞いてて扉叩く音なんか聞こえないでしょ?」
朔は親指で若い男性の指揮者のポスターが貼ってある背後の戸を指す。
「口の減らない妹め。どうしたのよ?」
望は少し乱暴にヘッドホンを机の上に放った。
「何時にも増して機嫌悪いな、こっわ」
大仰な口ぶりで後ずさるふりをする。
「聞いててイラッとしてさ」
「?」
「まぁ、いいわ。で?」
視線で先を促す。
「お風呂入ってたらパッパーって凄い音が聞こえたんだけど、何だったの?」
「パッパー?何のこと?」
望の頭に、はてなマークが浮かぶ。
「お姉ちゃんがよく聞いてるクラシックに出てくる、楽器、なんて言うんだっけ、か?」
「もしかして管楽器のこと?」
朔は目を見開き人差し指を突きつける。
「そうそう、管楽器。鳴ったでしょ管楽器みたいな音」
「そりゃ今プロムナード聞いてたから鳴ってたけど」
「違う、それは動画でしょ。そうじゃなくて現実の話。聞こえなかった?滅茶苦茶でかい音だった」
「……」
少し考え込む望。
「お姉ちゃん?」
「いや、何でもない。わたしは気づかなかったなぁ」
「そう。でも絶対鳴ったよ。暴走族かと思って窓から覗いたけど何もいなかった」
「いないんじゃないの」
お前は何を言ってるんだと目で突っ込む望。
「SNSは?」
「何件かあった。サックスとかトランペットが聞こえたとか言ってる」
「この辺で?」
「分かんない」
朔は首を傾げた。投稿はいくつか見つかったものの、投稿者の住所は不明だった。
「じゃぁ私も分かんない」
「駄目だ、お姉じゃ話にならない。お母さんに聞いてこよ」
くるっと背を向け足音を立てて
「お母さーん!!」
叫びながら部屋を飛び出ていく朔を見て一言。
「騒がしい妹」
そう呟いて面倒そうに立ち上がると、朔が開けっ放しにしていった扉を閉めた。ヘッドホンを耳に当て、動画を再生すると目を瞑った。
朝のキッチンには家族四人が揃っていた。制服姿の朔と望、ワイシャツ姿の父・十六夜海月、パンツスーツ姿の母・紗夜。
食卓には、お茶が入った湯呑にご飯と鮭、味噌汁、ほうれん草の和え物に漬物が並ぶ。 皆静かに口に運んでいた。
朔は徐に箸を置くと、頭の後ろに両手を組んで天井を見上げる。
「おっかしいなぁ。聞き間違いとかじゃないと思うんだけどなぁ」
「まだ言ってる」
呆れたように言う望。
「だから他にも聞こえた人いるって」
「たまたまクラシック聞いてたり、アンタが言ってた様に暴走族が走ってた時間が同じだけだったんじゃないの?近所でサックス吹いてた迷惑奏者がいたとか」
ありえない可能性を口にする望に、朔がジトーっとした目を向ける。
「10時に?」
「10時に」
望は平然と答えた。
「それか幻聴だったんじゃないの?アンタ、ここがちょっとおかしいから」
朔を見ながら自分の頭を指す。
「なにそれ。聞き捨てならんな」
「聞き捨てって、どこのおじさんだよ」
望が味噌汁を飲みながら突っ込む。
「おじさんはお父さん一人で十分」
「加齢臭もお父さん一人で十分」
朔は断言した。望もそれに乗っかる。
黙々と食べていた父親の海月が箸を止め顔を上げた。
「何だ二人して。こういうのってオジハラじゃないの?」
海月の抗議にも朔と望は無視して食事を続ける。普段はじゃれ合ってばかりの姉妹だが、こういう時だけは妙に息が合う。 見かねた母親の紗夜が口を開いた。
「はいはい。アンタたち、お父さん虐めないの。馬鹿なこと言ってないで早く食べて学校行きなさい」
「お母さんがお父さんの事馬鹿だって」
「……」
朔が海月に向かって言った。年頃の娘に何を言っても無駄と悟った海月は黙る。
「馬鹿はアンタでしょ」
「あっ、裏切った。裏切りの姉。まぁいい、今日のところは見逃してあげる。何故なら遅刻しそうだからだ」
朔は食事を終え、ごちそうさまと呟くと勢いよくキッチンを飛び出していった。やれやれと言った感じで見送る望。
「さ、私も学校行こ。ごちそうさま」
椅子の横に置いてある学生カバンを持ち上げる。
「気をつけてけよ」
お茶をすすりながら海月が見送りの挨拶をする。
「はーい、行ってきまーす」
気だるげに答えながら望も朔の後を追った。
連休明けの教室は普段以上に騒がしかった。高校入学から一ヶ月が経ちクラス内の人間関係も既に出来上がりつつある。話題はやはり連休中に何をしていたかが中心だった。
「連休どっか行った?」
「ずっと家でダラダラしてた」
「中学の友達と会ってたわ」
「お婆ちゃん家行く途中で高速がめっちゃ渋滞してて家族でトイレの我慢大会してた」
「寝てた」
「連休全部、部活で潰れた」
「ほぼずっと一緒に遊んでたじゃん」
男女入り混じって様々な答えが飛び交っている。朔は自分の席に着くと机の横のフックに鞄をかけながら、隣の席の芦田に声をかける。
「芦田ん、おはよー」
「朔ちゃん、その呼び方止めてって言ってるでしょ。何アシダンって」
芦田の童顔に苦い表情が浮かぶ。
「だってまだ名前で呼び合うほど仲良くないし」
「本人眼の前にして言うか。しかも私は朔ちゃん言ってるし」
「冗談よ冗談。だって芦田ん、自分の名前好きじゃないって言ってたじゃん」
机にうつ伏せになりながら顔だけを芦田の方へ向けて言う。
「好きじゃないとは言ってない、ちょっと昔っぽいかなって言っただけ」
「智子でしょ?古くないよ。三体じゃん」
「三体?なにそれ?」
智子が不思議そうに首を傾げる。
「知らなきゃいい」
「なにそれ、感じ悪ー」
頬を膨らませ、ぶーぶー言う智子に、朔はカッと目を見開き
「うるさい、智子。何でも簡単に答えを求めるな。せめてAIちゃんにでも聞きなさい」
「智子呼び決定なの?」
「決定」
興味なさげな朔の口調に智子は一瞬きょとんとした。それから、ふっと表情を緩める。
「あっ、そう。ちょっと嬉しい」
智子が初めて名前を呼ばれた余韻に浸っていると声がかかった。
「おは」
朔の後ろの席の竹内が挨拶をしながら重そうな鞄を下ろす。
「あぁ、竹内さんおはよ」
「おはよう」
朔と智子が返し、定番の連休どっか行った?話題になる。
ひとしきり喋った後、座っていた竹内が不意に立ち上がり二人を見比べる。
「二人って座ってると座高同じぐらいだね。ちょっと立ってみ?」
唐突な竹内の提案にも抗うことなく立ち上がる二人。
朔と智子を神妙な面持ちで見比べた竹内が問う。
「芦田さん身長いくつ?」
「160」
「十六夜さんは?」
「172か3だったかな」
自分と朔の腰の位置を比べた智子が思わず唸る。
「ぐぬぬ、解せぬ」
「ぶはっ」
吹き出す竹内。
「大丈夫、まだ成長期だから智子も伸びるよ」
朔が全く感情を込めずに慰めると、智子は不満げに口を尖らせた。
「え~でも朔ちゃんも伸びるんじゃないの?朔ちゃんを見下ろしたい」
「あれ?二人とも名前で呼び合ってない?」
やり取りを聞いていた竹内が、ふと気づいたように口を挟んだ。
「さっきデヴューしました」
朔が智子の肩を抱きながら答える。
「ずるい。私だけ名字、しかもさん付けじゃん」
竹内が抗議すると、朔はあっさりと返す。
「じゃぁ竹内さんも名前で呼んでよ」
「朔ちゃんに智ちゃん」
竹内は少し顔を赤らめながら呟くように呼んだ。
「なんかこそばゆいな」
「ねー」
朔と智子は顔を見合わせ恥ずかしそうに笑う。
「私も名前で呼んでよ」
数瞬考え込んだ後、朔は驚きの表情を浮かべ隣を見ると同じ様に驚愕に見開いた智子の顔があった。
「竹内さんって名前なんだっけ?」
「……」
騒がしい教室の中で三人の間にだけ静寂が訪れた。
「いつも三人でいるのに私の名前だけ知らないってのは無いよな……」
二人に背中を見せてボソボソと呟く竹内。
「じょ、冗談よ、冗談。ほらアレでしょ?えっと」
智子に視線を送る。
「そ、そうよ。竹内、竹内~」
朔と智子の視線が幾度となく交錯する。遂に出た言葉が
「ウラジーミル?」
「日本人だっつーの、しかも男性の名前よね?何?私ってロシア大統領なの?」
朔はわなわなと体を震わす竹内の肩に包み込むように手を置くと優しく微笑んだ。
「冗談よ。一ヶ月も一緒にいて知らないわけ無いでしょ。凛」
「はい、みんなおはよう。席につけぇ」
教室の戸が勢いよく開かれ教師が入ってきた。朝のHRの時間だ。三人とも自分の席に座る。
朔は隣の智子に向かって親指を立てて得意げだった。朔を見る智子の目には尊敬の兆しが。
そんな二人を背後から見つめる竹内。
「智ちゃんも、さすが朔ちゃんとか言ってるけど私の名前、楓だから……」




