第4話:名前の重さ
殴られた少年がよろける。
「……は?」
「こいつ!殴りやがった!」
二人が一気に詰め寄ってくる。
オレは一歩下がって構えた。
でも遅かった。
ドンッ。 腹に拳がめり込んだ。
「ぐっ……!」
体がくの字に折れる。
続けて顔面めがけて拳が飛んできた。
ケンカ慣れしてないオレは避けきれず諸に食らった。
何かが弾ける音と同時に、視界がぐらりと揺れる。
「――っ!」
足がもつれる。踏ん張ろうとして、うまく力が入らない。
「おらよ!」
腹に一発。
「反撃してこいよ!レオンハルト!」
顔面にもう一発。
腕から粉袋が落ちた。
袋が地面にぶつかる。
布の口がゆるむ。
白い粉が、ふわっと舞い上がった。
「うわ!きったね!」
「お前のせいで服汚れたじゃん。どうしてくれるんだよ!」
思いっきり腹を蹴られて吹っ飛ばされた。
「調子乗ってんじゃねえよ」
「ウンフェーイグのくせに」
「殴ってきやがって」
「もう一発いっとく?」
これ以上の追撃が来ることは覚悟した。
口の中に鉄の味がした。
「……その辺にしとけ」
後ろでずっと静観していた銀髪の少年が初めて口を開いた。
腕を組んだまま、オレに近づいてくる。
腹の痛みが、まだ抜けない。
オレは地面に片膝をついたまま、息を整えた。
目の前で、少年たちが動きを止めている。
さっきまで殴ってきていた奴らが、黙って横に下がった。
「先に手を出したのは、お前だ」
声は低くて、落ち着いていた。
怒っているようにも、笑っているようにも見えない。
「オレの名前は、ライナルト=グロース」
一拍置いて、ライナルトは横に立つ二人へ視線を向けた。
「こっちはヴォルフ=ハインツ。そっちはニコラス=ベルナー」
名前を呼ばれた二人が、にやりと笑う。
ライナルトの視線が、地面に片膝をついたオレへ落ちる。
「度胸だけはあるみたいだな、レオンハルト」
一拍。
「悪くない。今回は、ここまでにしておいてやる」
「じゃあな、レオンハルト。平民のくせにやるじゃん」
「次はもう少し鍛えてこいよ」
そう言って、貴族の少年たちは立ち去った。
ライナルトはもう、オレに興味を失ったみたいに、一度も振り返らなかった。
気がつくと、空が少し赤くなっていた。
中央市場を背にして、東住宅区へ向かう。
さっきまで聞こえていた市場の喧騒は、少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
粉袋は、もう軽かった。
家の方へ歩くたび、頬がじんじん痛む。
腹の奥も、まだ重い。
「レオンハルト」
あの貴族三人組に名前を呼ばれたことがずっと耳に残って離れなかった。
オレは挨拶もせずに家の扉を開けて中に入った。
「ジェイドお帰りなーー」
母さんの言葉はそこで途切れた。
慌てて近づいてくる。
「……喧嘩でもしたの?」
母さんの瞳が、ひどく動揺して揺れていた。
顔面は腫れ上がり、拳にはどす黒い痣ができている。
「こっちに来なさい。手当するから」
母さんに手を引かれて、リビングまで連れてかれる。
桶に水を張って、布を濡らした。
濡らした布をオレの頬に当てた。
患部に当たって正直痛かった。
「痛い?」
「…..平気」
強がって嘘を付いた。
これ以上心配掛けたくない。
母さんが腫れたオレの拳をまじまじとみた。
皮が少しめくれている。
救急箱から取り出された包帯が、震える手で丁寧に巻かれていった。
「誰と喧嘩したの?」
母さんが心配そうな顔で聞いてくる。
今にも泣き出しそうな顔で。
……別に隠すような事じゃない。
でも正直に話すのはなんだか気恥ずかしい。
暫く無言の時間が続いた。
意を決してさっき起きたことを正直に話した。
「市場で、貴族の奴らに絡まれた。名前聞かれて、 ……笑われた。
父さんと母さんのことまで、バカにされた。
悔しくて……気づいたら手が出てた」
気づいたら涙が止めどなく溢れてた。
泣いてるところなんか見られたくなくて
思わず背を向けた。
その直後母さんが後ろから抱きしめてきた。
「……ごめんなさい。ごめんなさい、ジェイド」
母さんの震える声が、背中越しに伝わってくる。
後ろから回された腕に、痛いくらいの力がこもった。
「翡翠はね、私が一番好きな石なの」
「知恵とか……守護とか。そんな立派な意味があるって聞いて、ただ、祈るみたいにつけた名前なの」
母さんの嗚咽が、耳元で弾けた。
背中のシャツに、熱い涙が染み込んでいく。
「あなたがどこにいても、自分を失わないように」
「乱暴な世界に、負けないように」
「……貴族になりたかったわけじゃない。偉くなってほしかったわけでもないの」
母さんは、縋るようにオレの背中に顔を埋めた。
「ただ、あなたに幸せになってほしかった。……でも」
母さんの小さな肩が、堪えきれなくなった子供のように激しく波打った。
「私のせいで、あなたを傷つけた。本当にごめんなさい……っ」
……オレのせいで親を泣かせてしまった。
オレが弱いばっかりに。
母さんは暫く泣き止むことがなかった。
殴られたオレなんかよりもずっと辛そうだった。
「ただいまー!」
姉ちゃんが元気よく帰ってきた。
「お母さん、今日さ――」
そこまで言って、声が止まった。
「……えっ?」
姉ちゃんの視線が、オレで止まる。
「ジェイド、その顔どうしたの?」
一歩、近づいてくる。
「お母さん……なんで泣いてるの?」
空気が、一気に張り詰めた。
オレは、もう耐えきれなかった。
母さんの腕を振りほどき、振り返らずに走り出した。
「ちょっと! ジェイド!
待ちなさい!!」
姉ちゃんの怒号が背中に刺さる。
でも、止まれなかった。
情けない顔を、これ以上見られたくなかった。
廊下を駆け抜け、二階の自室に飛び込んで扉を閉める。
やけに大きな音が、家中に響いた。
下の階では、まだ会話が続いている。
「……お母さん」
カーネルの声が、一段低くなった。
「もう泣かないで」
ゆっくりと母さんを抱き寄せる気配がする。
「……何があったの」
短い沈黙。
「ジェイド、喧嘩したの」
母さんのかすれた声が聞こえた。
「……相手は」
「……貴族の子たちと」
その瞬間。
家の空気が、物理的に重くなった気がした。
「……は?」
冷たい、乾いた声。
「ちょっとジェイドに聞いてくる」
さっきまでの優しさは、もう微塵も残っていなかった。
姉ちゃんが階段を登ってきた。
鍵を掛けようと思えば掛けられたけどその気にはなれなかった。
扉が勢いよく開かれる。
オレは姉ちゃんと顔を合わせたくなくて、泣き腫らした
顔を見られたくなくて、視線を伏せた。
「誰がやったの?」
低い声だった。
姉ちゃんがここまで怒ってるのは見たことがない。
「……別に」
オレがそう答えるとーー 一気に間合いを詰めてきた。
「別にじゃない。顔上げてジェイド」
言われるがまま、顔を上げる。
でもすぐに目をそらした。
「目を逸らすな。わたしの目を見ろ」
姉ちゃんの手が、オレの拳を包み込む。
「皮が捲れる程の怪我したんでしょ? 何があったの?」
先ほどまでの怒気が消え、声だけが凪いでいた。
怒鳴られるよりも、遥かに今の方がずっと辛い。
問い詰められて逃げ場がなくなったオレは、
さっき母さんに話したことを、掠れた声でそのまま繰り返した。
語り終えても、不思議と涙は出なかった。
もうとっくに乾いてる。
「……そっか」
姉ちゃんがオレの頭をぐしゃぐしゃに撫でる。
「まぁ、貴族は基本クズだからさ、しょうがないよ」
まるで全てを諦めたかのように、何かを悟ったかのように 言った。
「でも、やるじゃん。かっこいいよジェイド」
満面の笑みで、まるで天使のような笑顔で姉ちゃんが 励ましてくる。
「今日みたいな奴ら、見返してやりなよ。
ジェイドなら出来る。だって私の自慢の弟だもん。
だからそんな顔しないで?」
気づけば、オレは姉ちゃんの腕の中にいた。
クララ姉さんとはまた違う柔らかさと甘い香りがした。
「あーあ、ジェイドが弟じゃなかったら彼氏にするんだけどなー」
「……からかうなよ」
姉の胸の中で、もごもごと言い返す。
「ジェイドの彼女になる子は大変だね」
「なんでだよ」
「だって、こんなに意地っ張りで、変なところで真面目で、放っておけないんだもん」
姉ちゃんは、くすっと笑う。
「もしかしたら、彼女じゃなくて……あんたに拾われる子かもしれないけど」
「拾われる?」
「なんとなく。ジェイドって、そういう顔してる」
「意味わかんねぇし」
「今は分かんなくていいよ」
そう言って、姉ちゃんはオレの頭を最後にもう一度強く撫で、部屋を出ていった。
バタン、と扉が閉まる音がして、部屋に本当の静寂が戻る。
腫れた拳がまだ痛む。 貴族たちに浴びせられた言葉の数々が心に突き刺さる。
もう二度と、大切な人たちが笑われないように――。
オレは、その拳を、骨が鳴るまで握りしめた。




