9.侵入者・遼灯2
「覚えていて素知らぬふりなど、あの娘にできますものか。先日、王にも申し上げました。時間が経ち過ぎているのですと」
「忘れていることまでは言わなかっただろう。そもそも折に触れて、久蒔かあさんから恩人について語ってくれていても良かったんじゃないのか?」
「頼まれませんでしたからね」
「こりゃまたひどく怒らせまして」
「私の元から舞子をさらおうなどと、百年相当早過ぎます」
「それも伝える?」
「えぇ、是非にも」
ひとしきり笑い、遼灯はまた顔を沈ませた。しっかしなー、と雨を吹き飛ばして息をつき、
「なんとか、千璃の気を換えさせなきゃな」
「お珍しい。遼灯殿におかれましては随分と王の肩を持たれますこと」
「珍しいのは昂鷲の奴だ。あいつが何かを欲しがるのなんて、俺は初めて見た」
「それは欲しがらずとも手に落ちてくるからでございましょう。恵まれたお立場だからでございます」
だけどさ、と遼灯はつぶやく。
「それでも、欲しがったものなんだ」
言うなれば、代わりのものなどいくらでも落ちてくる、ということだ。暮らしぶりを見れば久蒔の言うように、王は恵まれた立場にいる。
と言って贅沢三昧をしているわけではないが、衣食住は常に満たされているし、客足の心配をすることも、土に手を染めて天候を案ずることもない。
国治はあるいは、そのすべてをしているのだとも言える。そして国の頂点に立つ人間なのだから当然のこと、民の誰よりも重い責を負っているのだからそれくらいは赦されるだろうとも。
現王は王となるべくして生まれ、そのように育てられた。民には想像の追いつかぬほど広大な城に暮らし、良い着物を着、食べたいものをたらふく食べて良い。
剣も馬も最高のものが献ぜられたし、必要なくとも玉や細工物についてもそうだった。そうも育てば、我儘放題の王とているだろう。手に入るが故に満たされることもなく、求め続ける生を生きる王も。
しかし昂鷲はその点おとなしいことにかけては意外なほどだった。逆に遼灯などは煮え切らなさを感じたほどである。自分が昂鷲の立場にあれば、あれもこれももらっておくのにと、空師の修行中にある少年は思ってしまうのだった。
とだけ言えば出来た王のようだが、決して禁欲的に生きているわけでもない。つい先だっても三日ほど姿がないと思ったら、四日目未明に送還されてきた。
遊興区で遊んでいたところ揉め事を起こし、州警に捕まり牢に入っていたのだ。後談として聞いた遼灯は大いに笑ったが、処置に当たった側仕にしてみればいいかげん笑い事ではない。
類のことは幾度も起きていたが、とうとう牢に入るとは。
金回りは良く、金遣いに頓着がなく、酒に弱く女にも弱く、賭けには向かない――馬鹿者。界隈では有名な男らしい。一月二月の間をとって現れる自分を、隣州の豪家の三男坊(放蕩)と名乗っているそうだ。
商売といって家を抜け出しては近県をめぐって遊んでいるのだと、ありそうな語りをほどほどにする。滑らかに話しているようで、確かなことは一つもこぼさない。
そもそも遊興区では偽りが闊歩するものだから、適当を語ったところで誰かが怪しむ謂れもないのだが、素性隠しを楽しみながらご丁寧に拵えた偽名を打毀と言い、名を言うたびに「そんな奴はいねぇ」と返されるのが愉快、と言う。
民に混じりその生活を知る、とも言うがどう見ても知り過ぎだ。誰も騙されるものではない、遊びたいのだ。
そのような行状はともあれ。つまりは、遼灯の知る限り、千璃は昂鷲が初めて手を伸ばし続けたものである、ということなのだ。
千璃でなくてはならない。でなくては意味がない。
執着、というのだろうか、これは。
恋着と言ってやってもいい。
持ち上げたわけではなく、侮りを込めて。軽蔑したわけではない、意外な行動に出られて戸惑っているのだ。
「調子狂うよ、ホント」
遼灯は頭を抱えた。昂鷲は真意を表に出さない。いつもふざけている。たいてい茶化して交ぜっ返している。飄々とも言われる性質だ。そんな人物の感情は見極めにくく、想像で動きしてとんでもないはずれを引くこともある。
今は、そんな敗北を幾度となく味わってきた経験が告げるのだ。今回は、はずしてはいないだろうと。矛盾に気付きながらも強い確信を抱く。それこそ矛盾と回りながら。
「私は予定が狂います」
久蒔が切るような鋭さで言う。
「そこはなんとかご勘弁を。園主殿のお力を持ってすれば、それほどのことじゃないだろう?」
「千璃奪還に成功の暁には、事後処理をもってお祝いに代えさせていただきましょう」
久蒔の笑いは闇に満ちる杏の香りを侵食して拡がった。遼灯は顔を歪ませて笑う。失敗を祈られているように思えたのだ。真実そうなのかもしれない。
さていかにしてこの不利な形勢を返したものか。膝の上に顎を載せ、自分の手をじっと見る。そこにある手段は――よろしいとは思えない。
「遼灯殿は」
「うん?」
久蒔の言葉に遼灯は大きく首を傾げた。意味がわからなかったのだ。




