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19.千璃

 うん。

 千璃もぐっと頷き、足を進める。声を出したためか遼灯の手の力か、動悸は止み、気持ちが落ち着いてきた。


――まずはお礼を。


 命を救っていただいたそのお礼、奏園に、久蒔に預けてくださったことにもお礼を。舞うこと、咲かすこと、話すこと笑うこと、生きること。

 昂鷲に助けられなければ得られなかったもの、それが今の自分のすべてであった。


 今ここに、居るということ。

 噛みしめるように思いながら、千璃は道を抜けた。


 足元は砂利に代わり、白砂が敷き詰められている。日をきらきらと反射させる細かな砂の向こうに白い石階段があり、三段登れば六角の屋根を持つ建物の入り口だ。


 その屋根も壁もなにもかもが白く、大きな鳥かごのようだった。違うのは柵の間に硝子が填め込まれていること。宮と呼ぶには小さく、四阿程度の広さしかない。

 これが硝雲宮。王城で最も高い位置にある建造物であり、最も新しいものでもあった。


 硝子精製の成功に気を良くした先王が、王后に捧げた『小さな箱』。それはこの昼下がり、陽射しを浴びて虹彩を放ち、最も美しい姿を見せている。


 白晶石の柱に手をかけ、男が一人立っていた。俯き進んでいた千璃が履だけを目に留めたとき、


「千璃か」


 声は飛んだ。


「……ご無沙汰を致しまして――」

「難しい挨拶を仕込まれてきたな。それは久蒔から俺への嫌がらせだ。いずれ暇なときに聞こう」


 膝をつこうと右足を引きかけ、千璃はそのまま動きを止めた。


「久しいな」


 白い光。光が差した。


 なにを言うつもりでいたのか、すっかり忘れてしまった。ただ見上げて立ちつくす。王の前では、伏して礼すべき。けれど体が動かない。


 声を間近に聴いている。顔を近くに――あの頃よりもずっと近い。こうして立って見上げれば、太陽のようにも遠くに見えた。けれどすぐにその光は同じ高さに、千璃の目線にかがんでくれたことも、――千璃はちゃんと覚えている……。


「ずいぶんと待たされたが。そんなに難問だったのか?」


 破顔。


 よくも忘れたなどと。

 見上げたまま、千璃は怒りにも似た感情を高ぶらせた。


 子どものころ、あのときの別れの辛さはなんであったのか。あれほどにすがらせた想いはなんだったのか。


 ずっと素直で、ずっとわかりやすかった。だからずっと待っていた。やがて待つことを躊躇い、封をしたのだ。そうなのかはわからない。けれど馬鹿なことに思える。忘れていたというそのことが。


 昂鷲は覚えていたのに。


 何故だろうか、自分の方から断ち切るように忘れた。曖昧に濁した記憶の底にと沈め、浮かび上がらぬように決めた。思い返し思い返し、大切にしていてよいはずのものを。


「大きくなった」


 肩にのった手があたたかい。大きく時間が流されて、再び同じときが巡ってきたかのようだった。風は煙の臭いを運び、目に映るのは土ばかりだ。

 草一本をも持たない大地、焦土に立つ久蒔に千璃は抱かれている。久蒔からは清なる芳気が昇っている。奏園から舞手たちを連れ、戦場を清めに来たのだ。


 憶えている。やはり手のぬくもりを。そのときの空の色さえ、久蒔から薫った香さえも。


 辛かったのかもしれない。会えないままに思い返すことが、恐ろしかったのかもしれない。

 遠ざかる背中は悲しかった。胸が潰れるほどに泣いた。だから、記憶を手放したのだろうか。だから。


 今はこれ以上はないほどの清らかな風に吹かれ、千璃は自分の足で立ち、昂鷲を目の前にしている。


 どうするのか。どうしたら良いのか。どうすべき、ではなく、どうしたいのか。

 しかしなにも考えられない。ただ一つの思い以外。


 昂鷲の笑顔を眸に映す。乾砂に水が浸み込むように、身内が熱を帯びてゆく。


 今度は忘れない。絶対に忘れない。二度と離さない、これは繰り返さない。


 どこよりも指の先が熱くなった。まるで舞のさなかにあるかのように、心が震えて堪らない。


 熱―― 

 彼らが雲嶺とも呼ぶ硝雲宮の下、茶園桑園、石庭滝亭を越えて下の、珪渓殿にて任務にあたっていた空師遼灯は、飛んできた白いものをなにげなく手に取った。開いた掌に、白い花が載る。


 ふと笑みこぼし、蒼穹を仰いだ。そよと吹く風に立ち昇る香に、やがてけたたましいほど笑い出す。


「お見事、奏主! 年の功!」


 いつかの夜、久蒔は遼灯にこう言った。雨の夜のことだった。


――女が何歳(いつ)から恋をするかをご存知か? 




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