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初恋  作者: 三谷朱花
9/10

「ただ、これは憶測だから、事実はどうかわからないよ。俺は違和感を持ったってだけ」


 巧が肩をすくめた。


「……事実を知るのは……早瀬、なんだろうな」


 蒼佑は俯いた。


「どうかな。俺は早瀬さんのことは話に聞いてるだけで、実際に会ったことがある訳じゃない。だから、蒼佑のフィルターを通した姿しか知らないからな。その姿が真実だとは言い切れない。ただ、麻子さんの言うことが正しいとは限らない、ってことだけは間違いないけどな」

「……そんなこと言ったら、何が正しいかわかんないだろ」

「自分が何を信じるか。世の中、それしかないんだよ」


 巧が目を伏せる。


「騙されても、か?」

「信じてるうちには、それが正しい、だろ?」

「でも……」

「人間なんてそんなものだろ。実際、今回のことだって、真実じゃなかったかもしれない噂が、結果的に人を殺してる」


 巧が蒼佑を見る。蒼佑は唇を噛む。巧は首をゆっくりとふった。


「噂が真実かどうかなんて、他人には関係ない。だけど、噂を口にした時点では、その人たちにとって正しい情報なんだよ。……それが真実かどうかなんて確かめようとする人間は、ほとんどいない。例え、確かめられる立場にいても」

「北原の噂は、嘘だ。津山が流した、嘘だ。……麻子と組んで流した、嘘だ」


 蒼佑は目を閉じて首を横にふった。


「津山さんの話は、中山君も言ってたね。でも、それも中山君一人の意見でしかないから、そういう可能性がある、としか言えないんじゃないかな。麻子さんのことは……確かに腑に落ちないんだけど……ただ、津山さんと今も仲がいいってだけで……決めつけることはできないんじゃないか?」

「いや、本当だよ」


 蒼佑はきっぱりと告げた。


「どうして、そう断言できるんだ?」


 巧が首を傾げる。

 新幹線がトンネルに入り、低い音が車内に響く。蒼佑は反対側のガラスに映る自分と巧の姿をじっと見る。


「津山は、北原が推薦を貰う予定だった美大に、推薦で進学したんだ。北原が居たら、津山は推薦は貰えなかった。津山の家は、父親が亡くなってて、美大に進学できるような金銭的な余裕はなかったんだ。でも、その推薦なら奨学金が付いてて、津山も進学できたんだ……その推薦がなければ、津山は進学を諦めてただろうって、麻子は言ってた」

「美大の推薦……か。でも、それは、北原さんが亡くなったから降って来たチャンスで、たまたまなんじゃないのか?」


 いや、と蒼佑は首を振った。


「初めて会ったとき、津山は言ってたんだ『成功のためならどんな苦労も苦労じゃないし、人を蹴落としてでもチャンスを奪いたい』って」


 蒼佑の言葉に、巧が目を見開いて息をのむ。


「あの時は、津山の熱意に威圧された。でも……同時に感じた嫌悪感は……そう言うことだったのかもしれない」


 蒼佑が外交官になるのを諦めた時、津山のような貪欲さがなかったせいなのかもしれないと思った。だけど、今はその貪欲さには嫌悪しかなかった。


「まあ、そんなこと素面で言ってるやつを、気持ちのいい相手だとは思えそうにもないけど……」


 巧が困ったように目を伏せた。

 蒼佑は祈るように両手を組んで、頭をその手に押し付けた。


「それに、麻子が津山の進学の背中を押した恩人だって、そういうことだろ?」

「確かに、そうとも……取れるけど……」


 煮え切らない巧の言葉に、蒼佑は苛立つ。


「だって!」


 蒼佑は勢いよく顔を上げて、唇を噛んだ。


「だって?」


 巧が、蒼佑の顔を覗き込む。


「あの、展覧会の会場で、渡辺先生の写真の前で、僕は津山に言ったんだ『被写体も喜んでるだろう』って。そしたら……津山は頷いて笑ってたんだ。麻子も、『そうだね』って、目を輝かして写真を見てた……」


 渡辺と付き合っていたとされる津山が、渡辺のために美和の不名誉な噂を流したとされる津山が、不幸な最後を遂げた愛しかったはずの人の写真の横で、被写体も喜んでいるだろうという蒼佑の言葉に、大きく頷き悠然と微笑んでいた。

 美術部だった麻子が、美和の親友だった麻子が、美和を苦しませた原因であるはずの相手が撮った写真を、美和の自殺の発端を映すはずの写真を見て、興奮して目を輝かせた。

 その答えは。


「……最低だな」


 巧の声は冷たかった。

 蒼佑も頷くより他はなかった。


 美和が真実に辿り着いていなかったと信じたかった。だが、美和がわざわざ蒼佑に本を送ってきたのは、蒼佑の他に頼れる相手がなかったとしか想像できなかった。美和にとって正しい意味で味方になる人間が、周りに誰もいなかったとしか考えられなかった。

 美和を思い出すのが辛いと告げた麻子の涙が、せめて本物だったと蒼佑は思いたかった。


 新幹線がトンネルから抜け、真横から光が溢れる。目を細めた蒼佑にあの光景がよぎる。蒼佑は吸い寄せられるように空を見た。

 蒼佑の目には、トルコキキョウの白い花が舞っていた。

 ガラスに隔てられた青が滲んでいく。美和の描いていた青は、もう見つからなかった。


「大丈夫か?」


 巧の声に、蒼佑は力なく首を横にふる。


「そう、だよな……。知りたくなかったか?」

「こんな残酷な話だって、知りたくはなかった。僕が、僕があの時、あのメッセージに気付いていれば……」


 蒼佑の声が震える。


「蒼佑のせいじゃない。蒼佑が悪いわけじゃない」


 巧のきっぱりとした声に、蒼佑は首を振る。


「僕が、北原の力になれてたかもしれないんだ。そしたら、北原は……今も絵を描いてたかもしれないのに!」


 蒼佑は言いようのない苛立ちを、自分の太腿に拳で打ち付ける。


「罪に問えればいいのにな」


 ぼそりと呟いた巧に、蒼佑は唇を噛む。

 それで北原が生き返るわけではない。誰かが喜ぶわけではない。それでも、罪に問えるのならば、北原は浮かばれるかもしれない。

 噂を流した。ただそれだけで、北原の死の罪を問えるわけではないと、蒼佑にだってわかる。それに、それも噂レベルだ。証拠にはならない。


「巧、何か……ないのか?」


 巧はミステリー好きだ。もしかしたら、何かいいアイデアを持っているかもしれないと、蒼佑は期待したかった。


「あったら……きっと津山さんは、もう罪に問われてると思うよ」


 巧が力なく首を横にふる。


「それに、訴えるとしたら、家族だろ。北原さんの家族は……きっと訴えようなんて考えもしないだろうね」


 蒼佑は目を閉じて首を振る。


「きっと、僕が責めたって、津山には響きもしないだろうね」


 蒼佑は、いつも飄々とした津山を思い出す。今回分かったことを津山に突き付けたところで、津山は鼻で笑ってしまいそうな気がした。麻子がどんな反応するのかは、蒼佑にはもう想像できなかった。


「証拠があれば……違うんだろうけど。今みたいに、ネット上に痕跡が残るようなものがあればな。……10年前には、せいぜいメールくらいだし。それにそんなもの、今更残ってるわけないしな」


 巧の言う通り、もう10年前の話だ。噂が残っていたということも、珍しいだろう。勿論それが、死に関わるものだったから、同級生たちの記憶から消えなかったのだということは、間違いない。

 蒼佑は、座席に体を沈めて、大きくため息をついた。ドッと疲れが襲った。


「何か方法がないか、考えてみるよ」


 抑えた巧の声にわずかに視線を向ける蒼佑は、困ったように笑っていた。


「証拠はないって、自分で言ってたよ?」

「でも、渡辺先生の噂が残ってる」


 巧は前を向いたまま告げた。


「渡辺先生の噂?」

「ああ。先生の噂。もしかしたら、そこから切り崩せるかもしれない」

「……でも、噂は噂だ」

「だけど、北原さんの噂より、真実かどうか証明しやすい」


 蒼佑が目を見開いて、でものっそりと顔を巧に向ける。


「証明?」

「ああ。本当に盗作してたのか、ってこと」

「……でも、先生の名前、渡辺って名前しかわからないけど?」


 巧が蒼佑を見る。


「見つけるのは難しくないよ。渡辺先生は、何かの展覧会で入賞したんだろ? それに、その絵が北原さんの盗作だって言われた理由は、きっと尾道の風景画だったからだろうし」


 あ、と蒼佑の声が漏れる。


「もしそれが盗作じゃなかったとしたら」


 巧が頷く。


「噂は間違いなく、嘘だ」

「……でも、それだけで、津山が認めるかな?」


 少しだけ浮き上がった蒼佑の気分は、すぐにしぼんだ。

 渡辺先生の噂が嘘だった。だからどうした、と津山に言われるのがオチな気がした。


「さあな。探偵は、真実を見付けることが使命だと思ってるけど、それで罪を裁けるわけじゃないからな。探偵は、残念ながら神様じゃない」


 巧が肩をすくめる。

 蒼佑はまた体を座席に沈みこませると、目を閉じた。


「もし、その噂が嘘だってわかったら、少しは救われるのかな」

「どうだろうな」


 嘘だとしたら……考えようとして、蒼佑はそれ以上思考が進まない頭に気付く。寝不足の上に、予想外の話が多すぎて、頭は疲れ切っていた。


「……ちょっと、寝てもいいか?」


 蒼佑は目をつぶったまま告げた。


「ああ。東京に着いたら起こすから、寝ろよ」


 巧が告げると、すぐに蒼佑の寝息が立つ。

 蒼佑を見る巧の表情は、複雑そうに沈んでいた。

 

 *


 ホテルのラウンジのソファーが、思ったより体が沈み込んで、蒼佑は落ち着かなかった。

 照り付けるような日差しは和らいだが、10月なのに、まだ昼間は暑いくらいだった。朝晩のために持って来たジャケットは、今は蒼佑の座るソファーに掛けられている。

 キョロキョロと移ろう視線が、巧の姿を捉えて止まる。


「巧、こっち」


 蒼佑が手を挙げると、巧が頷いて近づいてきた。


「悪い、待たせた」


 息を切らせている巧は、急いできたのだろう。


「いや。そこまで待ってない。でも、珍しいな、遅れるの」


 蒼佑は首を振る。巧との待ち合わせの時間は14時で、今は14時10分だった。


「悪い。忘れ物に気付いて一旦帰ったんだよ。で、津山さんは?」

「巧に言われた通り、30分に来るよ。もしかしたら遅くなるかもしれない。早く来ることは、まずないよ」


 今までの津山と麻子を交えた待ち合わせで、津山が時間通りに来たことは、まずなかった。


「そうか」

「で、津山と会う前に、先に、集まったのって?」


 真面目な顔をした巧が、蒼佑を見た。


「麻子さんと、別れたのか」


 蒼佑は目を伏せる。


「ああ。連絡した通りだよ。婚約を破棄したんだ、別れる以外ないだろう?」

「それが、蒼佑の出した答え、なんだな?」


 蒼佑は勢いよく顔を上げる。


「他に、どんな答えがある?」

「許す、って選択肢も、なくはない」


 目を伏せる巧に、蒼佑は首を振る。


「麻子のことが信じられなくなったのに、許すも何もないよ」

「あの話だけで、決めたのか?」


 蒼佑は首を振った。


「早瀬と話をした。……麻子を虐めた事実はないって。そもそも、麻子と話をしたこともないらしい。学部も違うから……接点もないしな」

「そうか……それを、蒼佑は信じたのか?」

「信じない理由がなかったからな。それに、早瀬に話を聞いたのは、最後に心を決めるため、みたいなものだったから」

「最後?」


 蒼佑は頷いた。


「麻子に、聞いたんだよ。どうして津山と仲いいんだって」

「前と同じ説明されたんじゃないのか?」

「ああ。だから、中山から聞いた話をしたんだよ。そしたら、泣きじゃくって、津山に脅されてたって言い始めて……」


 蒼佑の説明に、巧の溜め息が漏れた。


「渡辺先生の写真を見た時の笑顔が、脅されてできるんなら、逆にすごいよ。本当に、何が本当だったんだろうな」


 蒼佑は目を伏せる。


「蒼佑を好きだったのは、本当だったんじゃないか」


 巧の言葉に、蒼佑が苦笑する。


「だからって……人を陥れていいわけじゃないよ」

「そうだな」


 巧が俯く。


「先に集まったのは、そのことを聞くため?」


 蒼佑の質問に、少し間を置いて巧が首を横にふる。


「それだけじゃない。他にもある」

「渡辺先生の話か?」


 巧が頷く。


「説明は、津山にするときでも構わないのに。証拠を、津山に突き付けるんだろう?」


 今回、蒼佑がこのラウンジに津山を呼び出したのは、巧が“渡辺先生が盗作してない証拠を見つけた”と連絡してきたからだった。


「ああ、でも、先に蒼佑に話しておきたいことがあって」


 巧の顔は緊張していた。その顔に、蒼佑も鼓動が早まる。


「間島、笠井と別れたって、本当か」


 だが、緊張した空気は、津山の声に遮られた。

 蒼佑は驚いて顔を上げた。津山は、どう見ても不機嫌だった。

 蒼佑は時計を見る。まだ約束の時間にはなっていなかった。


「早かったな……」

「別に早く来ても構わないだろ。それより、笠井と別れたって」

「あの、津山さん。声を小さくしてもらってもいいかな? どうぞ、お座りください」


 巧が、津山に着席を促す。その声は、どこか固さがあった。

 初めて巧に目を向けた津山が、目を見開いた。


「……今日子先生」


 津山の言葉に、巧が一瞬目を伏せて、しっかりと津山を見た。


「流石に、付き合った相手の顔は、覚えてるんだな」

「これ、何だよ?」


 津山がギロリと蒼佑を見る。

 責める津山の言葉に、蒼佑は答えを持ち合わせていなかった。

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