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初恋  作者: 三谷朱花
8/10

 一瞬間があって、中山が目を見開く。


「麻子って……笠井麻子か?」


 中山の言葉に、蒼佑は頷くしかない。一体巧が何を考えているか、この場で問いかけることもできない。


「小学校からずっと同じじゃけぇの。ほうか、笠井と結婚するんかー。何じゃ、ソースケ、大人しい方が好みだったんか」


 中山の声が高くなる。蒼佑は知らなかったが、どうやら中山も弘大と同じで麻子と小学校から高校までずっと同じ学校だったらしい。

 蒼佑は相槌を打つと、また窓の外に視線を向けた。海は見えなくなっていた。もう福山まで、海の景色を目にすることはないだろう。途端に、そこまで鼻先をかすめていた気がしていた潮の香りも消えてしまった。


「コータは泣くじゃろうなー」


 この話の流れで弘大の名前を出されて、蒼佑は心臓が跳ねる。


「コータが?」


 その答えは尋ねなくてもおぼろげに蒼佑の中にはある。なのに、つい問いかけてしまった。


「小学生んときから笠井のこと好きじゃったからなー」


 弘大が麻子のことを好きだった可能性は蒼佑も感じていた。だからそれが中山の口から証明されたに過ぎない。しかし蒼佑の心の中は落ち着かなかった。


「そうか」


 蒼佑は頷きながら、優越感とは全く違う感情が生まれていた。きっと好意を隠したまま、麻子の恋を明るく応援し続けていたはずの弘大の強い気持ちに、何だか負けたような気がしていた。

 自分の気持ちに区切りをつけたかっただけで動いた自己中心的な蒼佑。対して、他人を傷つけないように言葉を選び、明るい雰囲気で自分の本心を隠し通そうとする弘大。同じ相手を好きだと言いながら見せる行動の違いに、蒼佑が自分の底の浅さを自覚してしまったせいだった。


「初恋は実らないって言いますしね」


 巧が中山の話に反応してくれることに助かったと思いながら、その言葉に、複雑な感情が生まれる。気持ちを持て余しながら、蒼佑はじっと馴染みのない景色を見る。


「まあなー。でも、どうして笠井と付き合うことになったん?」


 早瀬弥生はやせやよいが蒼佑の身近に居た麻子を陰で虐めていた。それが、二人が付き合うきっかけになった。そのことを、巧に話した記憶もあった。だが、蒼佑は中山に説明したいとは思わなかった。


「まあ、それはいいだろ」

「そう言えば、津山さんの写真がポスターに使われてましたね。彼も高校の同級生なんでしょう?」

「そうだったな。津山の写真使われてたな」


 話題を変えてくれた巧に、蒼佑は感謝する。

 きっと津山の写真が地元のポスターとして使われた話は、同級生の中では認識されているはずだと、蒼佑も思う。

 だが、中山からの返事がなく、蒼佑は訝しい気持ちで向かいに座る中山を見る。


 中山は信じられないものを見るような表情で蒼佑を凝視していた。不機嫌さを漂わせる雰囲気に、中山が津山に肯定的でなかったのを蒼佑は思い出した。10年も経つのに少しも反応の変わらない大人気ない中山に、ただただ蒼佑は呆れる。


「津山は津山で頑張ってるんだろうし、そんな顔しなくても」

「笠井からは聞いてないんじゃな」


 蒼佑は中山の言葉に首をかしげる。


「北原が亡くなったのは知っとうよな?」


 なぜ美和の話題になったのか理解できなくて、蒼佑は戸惑った。それは正しく蒼佑が今日尾道に来た理由でもある。高校時代の弘大と中山の関係からは、中山に今日の話が伝わったとは思えなかった。どうしたらいいかと一瞬だけ思考を巡らして、蒼佑はゆっくりと首を縦に動かした。


「何でか聞いとるか?」


 罪悪感のかけらもない第三者的な中山の言い方に、蒼佑は溢れてきそうになる怒りをぐっと堪えて、目をそらした。


「……北原に妙な噂が立ったとは聞いた」


 言ってしまってから、知らないふりをするべきだったと思い至る。それでも、中山を責めたい気持ちを蒼佑が必死で抑えた結果だった。


「その噂を流したのが、津山じゃ」


 そこに出てきた名前に、蒼佑の心臓がドクリと跳ねる。


「何で?」


 蒼佑は中山を見る。蒼佑の頭は混乱していた。


「北原の噂が立つ前に、美術の渡辺が北原の絵を盗作したんじゃないか、って噂があったのは?」

「ああ」


 反射的に蒼佑の口から声が漏れていた。蒼佑には考える余裕がもうなかった。


「津山がコンクールで初めて賞取った写真って、見たか?」


 唐突に替えられた話題に、蒼佑は更に困惑しながらも頷いた。津山が初めて賞を取った写真は、蒼佑も見ていた。麻子が興奮した様子で受賞を伝える記事を見せてくれたのを覚えている。

 写真は裸の女性の背中で、芸術と言われればそうだろうが、まだ麻子と付き合いだして日の浅かった蒼佑は、どぎまぎしかしなかった。


「蒼佑、どんな写真?」


 巧に問われて、蒼佑は口を開く。


「裸の女性の背中の写真」

「あれな、渡辺の背中じゃ」


 声のトーンを落とし吐き捨てるように言う中山に、蒼佑の理解が追い付かない。


「渡辺って……盗作したって先生? どうして、わかったのかな?」


 問いかける巧に、中山は力強く頷く。


「あの先生、首筋に二つほくろがあるんじゃ。……まあ、俺も健全な高校生じゃたしなー、若い女の先生おったら、エロい目でついじーっと見るわ」


 中山のあけすけな説明に、巧が顔をわずかに顰める。そして蒼佑は、まだ混乱の中にいた。

 渡辺のヌード写真。その写真を撮った津山。最初に蒼佑がたどり着いたのはとても短絡的な答えだった。


「それって……津山さんと渡辺先生が付き合ってたってこと?」


 巧の指摘に、中山がウンウンと頷く。

 津山が渡辺の噂を消そうとした動機は、恋人を守りたかったということなのか。だが、そのために美和を傷つける必要があったとは到底思えなかった。

 蒼佑の背筋をヒヤリとしたものが通り抜けた。


「いや、嘘だろ」


 蒼佑は中山に同意して欲しかった。中山が女子にモテていた津山を嫉んでいたのには気付いていた。だから、中山のやっかみからくる邪推だと思いたかった。蒼佑の推論が違うと、誰かに言って欲しかった。 

 蒼佑に生まれた疑念は、美和には酷過ぎた。


「女子どもも断言しよったから間違いないじゃろ。同級生は皆言いよる。津山が活躍しとるんを、心から喜んどる同級生はおらんじゃろ」

「津山と渡辺の関係って……あの写真が賞を取ってからバレたのか?」


 せめてそうであって欲しい。蒼佑の願いは、首を小さく振った中山に否定された。


「一部では言われとったらしい。美術部なら、二人の関係にも気づいとったじゃろうな」


 「助けて」という美和の心の叫びが、痛いほど蒼佑の胸に突き刺さる。蒼佑は顔を両手で覆うと、溢れそうな感情をぐっと飲みこんだ。


「お前が北原と仲良かったって、笠井も分かっとるのに。いや、逆に言えんかったんか」

「先生が盗作したって話は、本当なの?」


 巧の問いかけに、中山が首を傾げる。


「正直、わからん。でも、渡辺が首になったんは、盗作の話じゃのうて、津山と付き合っとったのがバレたからじゃろうなー、って今なら思うけど」

「その時は、盗作したから首になったって、噂になってたんだ?」


 巧が淡々と告げる。中山が大きくため息をついた。


「ああ。まあ、学校側もあんまり大っぴらには出来んよな。どっちもどっちの噂だけど」

「そうか。渡辺先生の噂話とか、それ以外に聞いたことは?」


 中山が首を傾げる。 


「渡辺も首になって結局すぐ自殺してしもうたし……渡辺の実家、一家離散したって噂は聞いたかな。生徒と付き合うのは不味いけど、でも、渡辺は十分罰受けとると思うよ。それに対して、津山はのうのうと生きとる。同級生は誰も、津山のことを応援は出来んじゃろ」


 中山の言葉は、電車の揺れと共に空気に紛れていった。


 *


 スピードを上げ流れていく景色を、蒼佑は呆然と見つめていた。

 福山駅で中山と別れ、真っ直ぐ新幹線に乗った。早く東京に帰らなくては。追い立てられるような気持ちで新幹線に乗った。焦燥感は、まだ消えていない。

 新幹線がトンネルに入り、低い音が響く。真っ暗になった窓に、うつろな目の蒼佑が映っている。隣に居る巧は、新幹線に乗ってから、蒼佑が渡したボイスレコーダーを聞いている。話しかけた蒼佑に、まだ考えがまとまっていないと、待つように言われた。


 蒼佑はじっと、窓に映る自分を見つめ返す。その背景にバッグが見えて、蒼佑はおもむろにバッグに手を伸ばし、スマートフォンを取り出す。だが、スマートフォンを取り出して、蒼佑は躊躇する。一体何をしようとしたのか。そう自分自身に問い直す。

 スマートフォンを窓際に置こうとした瞬間、手が触れ画面が明るくなる。画面は、変わらずLINEの新着を告げていた。少し逡巡したあと、蒼佑はLINEを開いた。麻子を無視していたとしても、何も変わることはないと、どこかで分かっている。


 結局、今まで蒼佑は何も見えていなかった。それが今日一日の出来事で蒼佑が突き付けられたことだった。もしかしたら今見えているものも、蒼佑には理解できていないのかもしれない。


 LINEには、やはり麻子からのメッセージが届いていた。


「前撮りの写真、津山君のスケジュールが空いたから、来月末撮ってくれるって。楽しみだね」


 津山が結婚式の前撮りを撮ってくれる。そう蒼佑に告げたときの麻子の笑顔が浮かぶ。

 蒼佑は目をぎゅっとつぶると、体を座席に預けた。


「蒼佑、大丈夫か?」


 いつの間にかイヤホンを外した巧が、蒼佑の顔を覗き込んだ。

 蒼佑は力なく首を横にふる。


「いや……正直、混乱してるし……まだ、信じたくはない」

「……だろうな」

「麻子は……北原の親友だったはずなんだ」


 蒼佑の脳裏には、今も二人が笑い合う姿が思い浮かべられる。あの姿が、嘘だったとは思いたくなかった。


「そうか」


 巧は、ただ頷いた。


「なのに……津山と今も仲がいい」

「そう……みたいだな」

「これ、見てくれ」


 蒼佑は、先ほどのLINEを巧に見せる。


「……例えプロの写真家だったとしても、親友が亡くなった原因になった相手に、写真を撮らせたいとは、普通は思えそうにないよな」


 巧の溜め息が、全てだ。


「あんな噂流した津山を、麻子はずっと応援していた」

「そうか。蒼佑は津山さんと仲良かったのか?」

「いや。……初めて会話したのは、あの渡辺先生の写真で受賞したコンクールの展覧会に、麻子と一緒に行ったときだった」


 蒼佑が津山と初めて会話を交わしたのは、大学三年生の頃だった。

 津山の初受賞の写真を見に行こうと麻子に誘われて会場に行った蒼佑は、麻子と津山の親し気な様子に驚いた。親しいとは知らなかったし、考えたこともなかった。むしろ、津山のようなタイプを麻子は敬遠すると思っていた。


「麻子は、その時には既に、津山と仲が良かった」

「どうして仲がいいか、聞いたのか?」

「ああ。津山の口から、麻子が美大への進学を悩む津山の背中を押してくれた恩人だと聞かされたんだ。その時は、麻子が誰に対しても公平に優しいんだと思ってた……」

「優しい、ね……」

「津山の進学は本人の努力の結果であるだけで何もしていないって、麻子は謙遜してた。ただ津山の才能はすごいって、母親も亡くした津山が自分で学費を稼ぎながら頑張って目標に向かって進むのを、直接力にはなれなくても応援したいんだって」


 高校時代は孤高の存在に見えた津山が麻子と親しげなのも、麻子が津山の成功を自分のことのように喜ぶのも、何も不思議はないと思っていた。


「それ、あの話を聞いても、素直に優しいんだって思える?」


 巧の声には感情は入っていないように聞こえた。ただ淡々と問いかけられる言葉に、蒼佑は麻子との出来事を思い出す。


「でも、麻子は優しいんだよ。麻子と付き合うことになった時のこと、話しただろう? 早瀬から嫌がらせを受けてたのに、最後まで早瀬は悪くないって言い張ってたくらいだし」

「もし、そもそも、嫌がらせが嘘だったとしたら?」


 巧の言葉には、相変わらず感情が見えなかった。そして蒼佑が見た巧の表情も、何も感情は見えなかった。


「いや……どうして、それで麻子が嘘を……」

「ずっと好きだった蒼佑と付き合うチャンスを作りたかったから」

「いや、でも……そんなわけ……」

「レコーダーにもあったけど、麻子さんの初恋は、蒼佑なんでしょ? それを聞いて、何だか納得したって言うか」

「納得?」


 巧が頷く。


「実はさ、昔、その早瀬さん、だっけ? とのゴタゴタの話を聞いたとき、何か違和感があったんだよね」

「違和感?」

「そう。俺は、早瀬さんと麻子さんのゴタゴタが起こるまで、蒼佑は早瀬さんと付き合うのかなー、って思ってたんだよ」

「え」


 予想外の指摘に、蒼佑は巧の顔を見た。


「蒼佑は気付いてなかったのかもしれないけど、蒼佑、早瀬さんとの話する時、すごく楽しそうだった。それに、早瀬さんの様子も、聞く限りまんざらじゃないのかなー、って思ってたから、そのうち、二人は付き合うんだろうって、何となく思ってたんだよ。どうでもいいことだから、言わなかったけど」

「いや……そんなつもりは……」


 蒼佑は首を横にふる。


「北原さんの話を聞いてて、早瀬さんって、北原さんみたいな人なんだろうなって思った。だから、蒼佑は早瀬さんに惹かれたんじゃないかなって、今日改めて思ったんだけど」


 早瀬と美和が似ている。その巧の言葉を、蒼佑は否定できなかった。確かに、美和と話している時の高揚感を、早瀬と話している時にも感じたことはあった。


「いや、でもそれが違和感って……」

「確か、早瀬さんに麻子さんを信用するな、って言われたって言ってなかったっけ?」


 蒼佑は目を見開く。


「よく、覚えてるな」


 巧が頷く。


「それが、違和感の原因だからね」

「それが?」

「俺が話を聞いてる限り、早瀬さんって、何と言うか……サッパリしてる感じがしたんだよ。なのに、陰で麻子さん虐めてたとかしっくりこないし、その言葉だろ? 何か変だなー、と思った記憶がある」

「だったら、何でその時……」


 蒼佑の言葉に、巧が困ったように眉を寄せる。


「どうするのかを決めるのは本人だ。その話を聞いたときには、既に蒼佑は麻子さんに肩入れしてただろ? 第三者の俺が何かを言ったって、何も変わらないと思うし、余計なお世話なだけだろ。そもそも、俺は恋愛ごとに興味はない」

「でも」


 巧が首を振った。


「俺が話を聞いたときには、既に蒼佑は早瀬さんと距離を置くことに決めてた。言ったって変わってなかったよ。それに、相手が言った言葉を信じるか信じないかは、それまでの関係性にもよるだろう? その時の蒼佑は、麻子さんを選んだ。そういうことだよ」

「……あれが……麻子の嘘?」


 蒼佑は大きく息を吐いた。

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