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誰かが行き交ってもおかしくはない千光寺新道は、この時間は人通りが途絶えていた。
「そう言えば、蒼佑が言ってた、美術部の先生が噂を流した犯人らしいって話だけど」
巧の声に、蒼佑は巧を見た。店の中では、話が途中で終わっていたことを思い出す。
「ああ。それは、レコーダー聞いてもらえばわかると思うけど」
だが、巧は首を横にふった。
「いや、そもそも、蒼佑はどうして、そう思ったんだ?」
蒼佑の眉が寄る。
「それ以外に、メリットを受ける人間がいないから、だろうな」
「メリット、ねぇ。その先生にはどんなメリットが?」
「自分のスキャンダルをかき消すことができれば、十分メリットだと思うけど」
蒼佑の声は低くなる。美術部の顧問である渡辺に対する嫌悪感がそうさせた。
「スキャンダル。ちなみに、どんな?」
「そもそもの発端は、その渡辺って先生が、北原の絵を盗作したことに始まったんだ。その盗作して展覧会に出した絵が、賞を取った。だけど、北原の絵を盗作したことがばれて、それが噂になってた」
蒼佑は、持て余す感情を逃すように、坂の先を見つめる。
「それを消すために、その先生が、北原さんの不名誉な噂を流した、ってことか」
低くなった巧の声に、蒼佑は頷いた。
「そう。なのに、北原の噂を流したのは渡辺とは断定されなかった。おとがめなしになったんだ」
あの時も感じた怒りが、蒼佑の声にこもる。
「どうして?」
巧の問いかけに、蒼佑は首を横にふった。
「理由は分からない。だけど、弘大がそう言ってた。でも、盗作は本当にあったことなんだ。なのに……噂を流したことは認められなかった」
「本当に、盗作があったのか?」
蒼佑は巧を見る。蒼佑の顔は、今にも泣き出しそうだった。
「麻子が、証言したって。ずっと、北原を守れなかったことを後悔してるんだって」
巧が目を伏せた。
「そうか。麻子さんが……証言したのか」
「だから、渡辺が盗作をしていたのは、間違いないんだよ」
蒼佑は前を見ると、鼻をスン、とすすった。
「どうして、麻子さんはすぐに言い出せなかったんだ?」
巧の問いかけに、蒼佑は麻子を非難されたような気分になった。
「巧だって知ってるだろ? 麻子は積極的に声を挙げるような性格じゃない。気付いてたとしても、それを言い出せなかったに決まってる」
蒼佑の語気は、少し強くなった。
「素朴な疑問だよ。理由は分からないんだな?」
淡々と告げる巧に、蒼佑は気まずい表情のまま頷いた。
「ああ。でも、僕の想像は当たってると思う」
「麻子さん以外にも、証言はあったのか?」
巧は首をかしげる。
「いや、弘大は麻子が言ったことしか言ってなかったけど」
「そうか」
「でも、十分だろ」
「探偵としては、証言は多い方がいいんだけどな。やっぱり、東さんに話聞けばよかったかな」
巧が蒼佑を見る。蒼佑が憮然とした顔をして息を吐いた。
「辞めろって言ったの、自分だろ」
「蒼佑が困るからな」
巧が肩をすくめる。
「でも、必要ないよ。事実は、覆らない」
蒼佑は目の前に広がる尾道水道に視線を向けた。
「事実は、目に見えてるものばかりじゃないからな」
巧の声は重々しい。でも、蒼佑の耳には気障に聞こえた。
「探偵っぽいな。でも、答えは見えてるだろ」
蒼佑の口元が少し緩む。
「探偵しに来たんだよって、言ってるだろ。それに、蒼佑はまだスッキリしてないんだろ?」
巧の指摘に、蒼佑は頷いた。
「渡辺に直接その事実を突きつけられないからなんだと思う。……渡辺は、盗作の話がばれて首になって……自殺したらしい」
「そうか」
巧の声は沈んだ。
「弘大には、今更犯人捜ししてどうするって言われた。意味がないって」
自嘲するように蒼佑は告げた。蒼佑だって、意味がないことをしているのは、理解している。それでも、まだスッキリしない。
「弘大君が?」
「ああ。僕の自己満足だって」
「そうか……。どうして、弘大君は渡辺って先生が噂の犯人だってハッキリ言わないんだろうな」
巧の疑問に、蒼佑は首を振った。
「正直、わかんないんだよ。……弘大がそこで断言してくれなかったのも、スッキリしない理由かもしれないけど」
「他に、噂を広めた犯人がいるとか?」
「え?」
蒼佑の足が止まった。
「そうでもなきゃ、弘大君が断言しないのは、説明がつかなくないか?」
振り向く巧に、蒼佑は眉を寄せる。
「他に誰が、北原のそんな噂を流してメリットがあるんだよ。そもそも、その噂が流れたタイミングは、渡辺の盗作疑惑の噂が流れた直後だったんだ。渡辺以外に考えられないよ」
蒼佑が首を横にふると、巧が首をかしげた。
「そう、かな。じゃあ、どうして、弘大君は、渡辺って先生が噂を流したんだって、断言しないんだろ」
「……それは、わからないけど……。でも、事実は事実、だろ。実際、渡辺って先生は自殺してる」
「……そうだけどな。他に、北原さんが居なくなって欲しいと願う人間っていなかったのかな?」
巧の言葉を耳にした途端、蒼佑に怒りが沸く。
「巧。流石に怒るぞ。北原は、他人にそんなこと思われるような人間じゃなかった」
「悪い。言葉が過ぎた」
巧が俯く。
「……北原は、そんなこと願われるような人間じゃない」
蒼佑の心からの叫びは、零れ落ちた涙と一緒に地面に落ちて行った。
*
蒼佑と巧は息を切らせながら、山の中腹にある青色の屋根の家にたどり着いた。
蒼佑の手には白い花束が握られている。八重咲きのトルコキキョウとカスミソウを重ねた花束だ。
昼食を終え、尾道での用事を終えた二人は、東京に戻る話になった。
だが、蒼佑はその前に、やはり美和との別れをきちんとしたいと思った。小道に消えていった弘大の見たこともない様子を思い出したが、蒼佑は美和の家に行くことに決めた。
美和の家には、高校時代、共楽園の帰りに何度か来たことがあった。小さいとは言え二枚分のキャンバスに携帯用のイーゼル、油絵具一式は結構な荷物になる。大丈夫と言い張る美和を押し切って、リュックにひとまとめにした道具を運んで、蒼佑は美和との時間を惜しんでいた。
その記憶のおかげで、蒼佑は「北原」と表札の出ている家に迷わず辿り着いた。
蒼佑は上ってきた道を振り返った。視線の先には海がある。巧も蒼佑に誘われるように海を見た。一人で行くと言った蒼佑に、巧も線香をあげたいと言って着いてきた。
蒼佑は海を見ながら大きく息を吐いて呼吸を整えた。海風が直接当たるせいで潮の香りが服につくと、ぼやいていたのは美和だった。確かに鼻先に海風が薫る。
息が整い額に浮かぶ汗をぬぐうと、蒼佑は巧を見た。別に同意などいらなかったが、巧が頷いたのを見て、チャイムを鳴らした。手に持った白い花束に力が入る。蒼佑に蝉の声がまとわりつく。
訝しそうにドアから顔を出したのは、蒼佑の母親より一回り若い女性だった。蒼佑が二度ほど会ったことのある美和の母親とは違っていた。
ふいに蒼佑の記憶が蘇る。高校二年の終わり、一人っ子だった美和から、妹ができたと聞いたことがあった。弘大の「複雑」の意味はこれだったと知る。
美和から話を聞いたときは、単純に年の差がある姉妹ができたとばかり思っていたのもあったし、美和がそれ以上のことを口にしなかったせいで、蒼佑は深く考えることがなかった。ただ、あのときの美和は、確かに一瞬だけ複雑そうに笑っていた。
「何ですか?」
女性は警戒心を露わに蒼佑を見る。
「美和さんの高校の同級生だった間島と言います。美和さんにお線香を……」
「必要ありません。お帰りください」
最後まで言い切る前に、蒼佑の言葉は止められた。女性の険のある口調に、高校で広まった噂が美和の自殺を引き起こしたことを思い出し、蒼佑は慌てる。
「僕は美和さんが亡くなった頃こちらに住んでいなくて、葬儀にも出れてなくて。今日も東京から……」
「お気持ちだけで結構です。お引き取りを」
まるで殺した相手が来たかのような冷たい対応に、後悔がある蒼佑はひるむ。
「みおり、どうかしたんか?」
蒼佑の背後から現れた男性に、蒼佑は美和との共通点を見付ける。目元がよく似ている。美和の父親だろうとすぐに推察ができた。そして、男性の隣に立つ美和を彷彿とさせる十代後半の少女に、蒼佑はハッとする。少女もまた、目元が美和に似ていた。
美和に10年前にできた妹。蒼佑は弘大の言った「複雑」の意味をようやく理解する。
「美和ちゃんに線香あげさせてくれーって」
「ああ……」
女性の声に、男性が困ったような声を漏らす。
「申し訳ないが、お気持ちだけで充分ですので、お引き取りください」
二人そろって頭を下げられれば、蒼佑がしがみつく余地はもうない。
「じゃあ、これを」
蒼佑が差し出した花束は、女性にも男性にも受け取ってもらえずに空中に浮く。
「私たちも、もう美和ちゃんのこと忘れたいんです。あんなひどい噂流されて、挙句の果てに自殺して。残されたうちらが平気でおられたと思いますか? お帰りください」
女性の言葉には苦々しい感情のみがあって、美和のことを案じていたような雰囲気は感じられなかった。
「みおり」
女性を咎めるような男性の声に、蒼佑は少しホッとしつつも、手に持った花束を受け取ってもらえることはなくて、言いようのない気持ちで腕を下げた。
「嫌なことを思い出させてしまい申し訳ありませんでした。失礼します」
蒼佑は頭を下げて、踵を返す。さっき辿ってきた細い路地の間を歩きながら、後悔の念が湧き出てくる。
不名誉な噂に傷つけられたのは本人に限る話ではないだろう。家族だって、いわれのない視線を向けられたはずで、美和が自殺したことであの噂は信憑性を増してしまったに違いない。
この狭い町で、美和の家族もまた悪意のある噂に苦しめられてきたはずだった。10年の間、きっと家族の中で色々な葛藤があったことも想像できる。たとえ無実の噂が発端だったとしても、責任をもうこの世にいない美和に押し付けたくなるのも道理なのかもしれない。
「蒼佑、今の北原さんたちの反応って……?」
巧が問いかけた瞬間、上の方に視線を向けた。
タタタタと、駆け下りてくる軽い足音を聞いて脇に避けようとした蒼佑の袖を、美和に似た少女がつかむ。
「ごめんなさい。お母さんは……あまり姉のことをようは思ってなくて」
少し上ずった声は先ほどの女性の声によく似ていた。少女の素直な言葉に、逆に蒼佑は申し訳ない気分が湧いてくる。わずかに少女の言葉に違和感を持ったが、違和感の正体は見つからなかった。
「いえ。こっちこそ、10年前のことを今更蒸し返して申し訳ない」
「……お兄さんたちは、姉の友達?」
「そうだと思っているけどね」
あのとき確かに、美和は蒼佑に助けを求めた。それは蒼佑が感じていた恋愛感情ではなかったにしろ、信頼していたからというのは間違いないはずだ。
「姉の絵のモデルをしとったでしょう?」
「絵のモデル?」
少女の言葉に、蒼佑は戸惑う。美和が好んで描いていたのは風景画だった。勿論美大に進学するためにデッサンの勉強をしているのは知っていたが、モデルになったような記憶はなかった。
訝し気な蒼佑に、少女も困惑した表情を見せる。
「スケッチブックに何枚も……」
「スケッチブック?」
疑問を繰り返す蒼佑に少女はハッとした顔をして、ぎこちなく首を横に振った。
「ごめんなさい。勘違いだったみたいです」
「えーっと、僕がモデルになった記憶はないけど……絵を見たら、誰かわかるかもしれないけど」
途端に少女の表情が強張った。蒼佑はまた触れてはいけないところに触れてしまったと慌てる。
「いや、君が気になってるなら、と思っただけだから」
「……勘違いしただけです」
頑なな様子の少女の言葉が、三人の間の空気を緊張させた。
「そうなんだね。……それで、何か用事?」
巧が、少女の目的について問いかけた。少女が気を取り直したように、まっすぐな視線を蒼佑に向ける。
「お母さんだって、姉は何も悪うなかったって分かっとるんです」
力のこもった瞳に、少女は母親の態度について言い訳をしに来たのと蒼佑は理解した。だから少女はわざわざ蒼佑を呼び止めたのだろう。
「お姉さんの友達も、皆、何も悪くないって言ってるよ」
蒼佑の言葉に少女が唇を噛んだ。美和によく似ていた。蒼佑は嘘をついたつもりはなかったが、少女には下手な慰めの言葉にしか聞こえなかったかもしれない。
「本当に申し訳なかったね。それじゃ」
居たたまれなくなって、蒼佑はその場を離れようとする。しかし、まだ少女につかまれたままの袖のせいで歩みが止められる。
「あの、花を預かりたくて」
「花を?」
少女は蒼佑が手にしていた白い花束に視線を向けてコクリと頷く。蒼佑はくじけそうだった心が救われたような気がして、花束を差し出す。
「ありがとうございます。姉はきっと喜びます」
花束を受け取り、ぺこりとお辞儀をする少女の表情は見えなかった。少女はくるりと蒼佑に背を向けると、蝉の声に追い立てられるように階段を駆け上っていく。蒼佑は振り返らない後ろ姿を右に曲がるまで見送ったあと、階段を下り始めた。
ついさっきまで重かった足取りが少し軽くなる。トントンと階段を下りたところで、バサリという強い音に反応して、蒼佑は音のした左側を見上げる。空が見えた。
吸い込まれるような青に白い花が舞っていた。