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初恋  作者: 三谷朱花
3/10

「お、海だ」


 巧の声に、蒼佑の意識が浮上する。向かいに座った巧の表情が弾んでいるのが分かる。二人はボックス席に向かい合って座っていた。冷房の効いた電車の中は、東京とは違って空いていた。

 新幹線の中で途中から2時間ほど眠ったおかげか、ほとんど眠気は感じなかった。

 福山駅で新幹線を降り、在来線に乗り換えた。巧は窓の外を眺めたまま、じっと景色を見ていた。巧につられるように窓の外を見た蒼佑は、流れる景色を眺めることなく、グルグルと答えのないことをずっと考え続けていた。

 左手に、海が見えた。瀬戸内の海だ。


「海、好きなんだな」


 蒼佑は巧について初めて知る事実に、意外に思う。巧はインドア派だと思っていたせいだった。


「ああ、穏やかな海を眺めてるのは好きだな」

「ああ。泳ぐ方じゃないんだな」


 ムッとした巧が蒼佑を見た。


「これでも泳ぐのは得意なんだよ」

「そうなのか? 泳ぎに誘っても、嫌がる癖に」


 大学生になって始めたバイトで、蒼佑と巧は出会った。シフトが被ることが多く、仲良くなるのには時間はかからなかった。だから、一緒に遊びに行くことも多かったが、巧はインドアの誘いには乗っても、体を動かすような誘いは嫌がることが多かった。

 最も、蒼佑も海に誘うことだけはしたことがなかったが。


「そうだな、今がお盆の後じゃなかったら、泳いで見せても良かったんだけどな」


 ニヤリと笑う巧に、蒼佑は苦笑する。


「まー、そういうことにしといてやるよ」

「そー、そー」


 うんうんと頷く巧は、本気なのかどうなのか、蒼佑にはわからなかった。

 丁度尾道に到着するアナウンスが流れ始める。

 蒼佑と巧は顔を見合わせて頷いた。


「予定通りに」


 巧の言葉に、もう一度蒼佑は頷いた。そして、巧は席を立って空いていた別の座席に座った。

 尾道駅に着いたら、とりあえず蒼佑と巧は別行動をすることになっている。蒼佑は駅で弘大を待つ。そして巧は、蒼佑が弘大と会った後に合流する予定だ。

 巧は尾道の町をぶらついてみるらしい。



  

 尾道駅の小さな駅舎は、降り注ぐような蝉の声と夏の強い日差しと外の景色を遮っている。電車から降りた時に一瞬感じた暑さは、今は駅舎の中の冷房で、感じられはしない。

 ほのかに漂っていた潮の香りが更に立ったような気がして、蒼佑は伏せていた視線を上げた。通り過ぎたのが北原美和きたはらみわじゃないかと思ったからだ。

 だが、確認する前に、蒼佑は苦笑して、自分の考えを否定する。美和はもうこの町にはいない。だから、あの懐かしい潮の香りは、美和の発するものであるわけがない。

 ただ、もしかしたらと、どこかで思いたいだけだ。

 また視線を下げようとした蒼佑の目に、向かいの壁にあるポスターの風景が飛び込んできた。


 一瞬で、その写真に引き込まれる。電車から降りた後、巧が丁度その前で立ち止まっていたが、もしかしてこのポスターに見入っていたのかもしれない。他人のふりをするために明後日の方向を向いた蒼佑には知る由もないが。

 蒼佑はポスターに歩み寄る。しばらく見入ったあと、何気なく目に入った津山亮つやまりょうの名前に、蒼佑は驚く。でも同時に、活躍していることを知っているから納得もする。

 津山は高校の同級生だ。蒼佑が高校2年の終わりに引っ越すまでの間で関わることはなかったが、ひときわ大人びた津山は学校でも目立つ存在で、名前と顔は知っていた。大学在学中に写真コンクールで賞をとり、再び蒼佑の耳に入ることになった名前だ。

 津山の写真は、尾道の夕日を捉えた美しい風景だ。観光客が語る尾道という場所のイメージをよく表している。寺を点在させそびえたつ山の上から切り取られた景色。夕日にシルエットを残す駅前の街並みと、陰影を深めた柑橘の香る島と、間に横たわる夕日を反射し光る海。


 ただイメージとは違って、尾道の大半の人々は、山の周りに開けている町で生活を営んでいる。蒼佑もかつてはその一人だった。父親が転勤族で引っ越しの多かった蒼佑にとっても、海に歩いて行ける場所に転居したのは、高校生になってやってきた尾道が初めてだった。

 だから、潮の香りがすると、蒼佑は自然と尾道のことを思い出した。だが、その記憶は美和と結びつくため、積極的には考えないように蓋をしていたように思う。海にはあまり近づこうとはしなかった。


「ソースケ。久しぶりじゃのう」


 バシッと勢いよく肩を叩かれて振り返れば、昔の面影を残した蒼佑の友人が立っていた。ニコニコと笑う丸顔も、顔を印象付けている黒縁眼鏡も、染めないままの黒髪も、昔の姿を彷彿とさせた。


「……おお、コータ。久しぶり。相変わらず元気だな」


  戸惑った表情の蒼佑がコータと呼んだ宮間弘大みやまこうたは、おどけたようにニヤリと笑う。


「元気だけが取り柄じゃけぇのう。実はソースケが分からんかったらどーしよかー、って思っとった。何せ10年ぶりじゃけぇの」


 弘大の言葉に、蒼佑は頷く。


「そうだな。10年ぶりになるな」


 弘大に会うのも、尾道駅前に来るのも、10年ぶりになる。

 勿論、蒼佑が尾道に来るのは、10年ぶりではない。でも年始の尾道への訪問は、新尾道駅と麻子の実家を、迎えの車で往復しただけだった。それに、実家を嫌っているらしくあまり尾道に寄りたがらない麻子のために、その日のうちにとんぼ返りをしていた。

 ただ、もし時間があったとしても、蒼佑は誰かと会う約束をしなかっただろう。麻子の実家に行くことになったときも、そういう気持ちが少しも湧き出てこなかった。蒼佑は確かに2年間尾道に暮らしていて、弘大のように友人と呼べる人間もいるはずなのに、10年の間、この町で誰かに会おうと考えたことがなかった。


「麻子ちゃんには何て言って来たん?」


 弘大と麻子は小学校から高校まで一緒だった。美和との付き合いは、中学で同じ学校に通うようになってからだと聞いている。高校時代、美和と麻子に対しざっくばらんに話す弘大に、仲がいいのかと尋ねた蒼佑が貰った答えだ。


「いや、何も。今日中には東京に戻るしな」


 蒼佑は言い訳を口に出しながら、必要もないのに斜めがけしたメッセンジャーバッグをかけなおす。


「あー。まあ、婚約者に向かって初恋相手の話を聞いてくるとは、流石に言えんか」


 弘大の声のトーンが下がる。そもそも、二人が会う約束をしたのは楽しい話をするためではないはずだった。だから蒼佑は、最初に声を掛けてきた弘大のテンションを、どう受け取ればいいのかに困った。


「そうだな」


 同意する蒼佑の耳に弘大は顔を寄せる。


「本気で聞きたいんか?」


 ぼそりと呟く声は記憶にある弘大のものではなく、蒼佑は動揺しつつ頷く。

 本音を言えば、怖い。それでも、蒼佑の知らない2か月間のことを聞きたいという衝動は、もう消えそうにはなかった。


「蒼佑君、来年東京で会おうねぇ」


 美和と最後に交わした会話は、東京の大学に受かってからの再会を約束するものだった。初めて下の名前で呼ばれて蒼佑は舞い上がったし、それが美和の気持ちなんだと思った。恥ずかしさからぶっきらぼうに諾の返事をした蒼佑に、美和は嬉しそうにしていたし、蒼佑と気持ちは一緒なんだと思い込むには十分だった。

 だからこの状況は、何か理由があると自分を落ち着かせた。つい2週間前までは、メールのやり取りが普通に行われていたと思っていた。


 本が届いてから1週間後、弘大から美和が病死したことを告げられた。予想外とも言える死の知らせは、蒼佑にとってショックしかなかった。

 ほんの2か月前まで元気だったはずの美和が、病気で亡くなったという現実を受けとめられない蒼佑は、病名を尋ねた。弘大の分からないという返事に、蒼佑は最初納得できなかった。それでも、知らされてなかったが突然だった、ときっぱり言い切る弘大に、蒼佑は受け入れる他はなかった。


 蒼佑は弘大のことを信用していた。美和とも仲が良かった弘大が言っていることだからと、うっすらとある自分の中の疑問を抑え込んだ。弘大が口にしたくない何かがあったとは考えたくもなかったし、他の誰かに聞こうという気にもならなかった。

 手元に残された本は美和の形見になった。でも蒼佑がその本を読むことはなかった。美和の死を突きつけられるような気がして、怖くて開けず、隠すように本棚の奥に押しやった。家族と離れ一人暮らしすることになったときにも、手に取ることはできたが読むことができず、同じように本棚の奥に押し込めたまま持ち続けていた。


 「助けて」震える美和の字が、一体どんな意味を持っていたのか。蒼佑には、答えなど持ちようがない。湧き出てくるのは、読まなかった後悔だけだ。


「千光寺に行こうでー」


 弘大の声に蒼佑は我に返る。先ほどの重い問いを忘れたように、弘大があっけらかんと言い放つ。これが蒼佑の知る弘大の姿であり、しっくりはくる。それでも、ぬぐい切れない違和感に、蒼佑はぎこちなく頷いた。


「千光寺か? 今の時間暑いだろ」

「この暑さじゃ、人もおらんじゃろ」


 弘大の意図に気付いて、蒼佑は頷いた。そして同時に、巧に頼まれていたボイスレコーダーのスイッチを入れた。

 踵を返した弘大に付いて行こうとした蒼佑の視界に、先ほどまで見ていたポスターが入る。


「そう言えば津山、有名人になったな」


 夕日に映える尾道の写真を蒼佑は拳で軽くたたく。振り返った弘大は一瞬ハッとして、すぐに表情を変えた。


「まさかの出世頭じゃけぇの」


 口角を少し上げた弘大は、眼鏡の奥は笑っているようには見えず、津山の成功を心から喜んでいるようには感じられなかった。津山を嫌っていたような記憶がなかった弘大の反応に、蒼佑は意外さを感じつつも納得はする。

 学校という場所では異端だった津山が、名をはせ成功している状況に、手放しで喜べないプライドのようなものが働いているのかもしれないと想像できた。

 高校時代の津山は一匹狼のように、群れようとはしなかった。似たような雰囲気の友人達と時々一緒にいたのは見たが、その中でもひときわ大人びた様子は、群れる同級生たちを見下しているようにも感じられ、自ら孤立化していたようにも思う。


 蒼佑に津山の話をするのは、津山と同じ美術部だった麻子だ。東京の美大に進学した津山は、絵画ではなく写真で才能を開花させた。母一人子一人という家の事情で一度は諦めかけていた美大への進学を勝ち取り、母親を亡くしたあと、苦労しつつも成功した姿を見ていることもあって、麻子は津山を応援していた。

 麻子が嬉々として伝える津山の活躍に、外交官になりたい気持ちをとうに諦めてしまった蒼佑は、時折焦燥感に似た気持ちを抱くことがある。


「行こうでー」


 弘大は興味をなくしたようにすぐにポスターから視線を外した。歩き出した弘大の後を追いかけて、蒼佑は駅舎を出る。

 一歩駅舎から出ると、遮られていた強い日差しと一気に上がった温度が、じっとりとした汗を生む。

 どちらともなく暑さを嘆く声が漏れる。お盆を過ぎたとは言えまだ八月だ。この暑さが仕方のないことだとしても、涼しい駅舎の中にいたせいで、気温差が堪えた。


 駅舎の中でうっすらと広がっていた潮の香りは一層強くなった。ボンボンボン、と低く遠い音が、この港を行き来する船が発する音だと記憶と繋がる。その香りもその音も10年ぶりではあるが、蒼佑は当時に戻ってきたような感覚に陥った。高校時代と同じで、空も抜けるように青い。

 影を求めアーケード街へ向かうだろうと蒼佑は考えていたが、弘大は真っ直ぐ海沿いの道を進む。暑さのためか人通りはほとんどなかった。

 弘大の足取りに迷いはない。それは、蒼佑に美和の死の顛末を教えることを決めたからなのか、単にそういうキャラクターだったのか。10年前の記憶だけでは、蒼佑に弘大のことを把握するのは難しかった。


 穏やかな海から反射する光に、蒼佑は懐かしい気持ちで目を細める。ふいに美和とこの道沿いを歩いた記憶が蘇る。美和と駅前を歩くことは滅多になかったが、確かに二人で海を眺めながら歩いたことがあるのを覚えている。思い出した途端、蒼佑の心をチリチリとした痛みが襲う。

 海に気をひかれている蒼佑を現実に戻したのは、何気ない様子で話し始めた弘大の声だった。


「ソースケが転校したあとじゃけぇ、3年に上がってすぐじゃった。学校で北原の噂がたっての」

「噂?」


 訝し気な蒼佑が、弘大を見る。弘大は噂話など好まなかったはずだ。そのせいもあって蒼佑の目には、弘大が深刻な話を始めたように見えなかった。


「ああ。噂。本当に噂に過ぎんかったんじゃと、今でも思っとる」

「どんな噂?」


 弘大の言い方から不名誉な噂だと蒼佑にも察知できたが、軽いしゃべり口のせいで内容までは予想ができなかった。

 弘大は歩みを緩めて蒼佑に顔を近づけると、急に真顔になった。


「北原が妊娠したって」


 一瞬声を潜めると、弘大はまた眉を元のように少し緩める。


「……まさか」


 蒼佑の足が止まった。内容を咀嚼するのに時間がかかった。

 そもそも、美和はあのとき、誰かと付き合ってなどいなかったはずだ。目標に向かって邁進する美和が、彼氏を作るなどという余裕はなかった。そう蒼佑は認識していたからこそ、美和に告白することはできなかった。


「彼氏もいなかったのに」


 何で? という蒼佑の問いは、弘大が一瞬見せた言いづらそうな表情で飲み込んだ。

 彼氏はいない。でも妊娠した。そして弘大の表情。そこから導き出される答えに行きついた。

 ……レイプ。


「嘘だろ」


 否定して欲しかった蒼佑の想像は、弘大の力なく振られる首に肯定された。


「誰に」


 蒼佑の声が自然と強くなる。


「興奮するなや。ただの噂じゃろ」


 険のある声を振り切るように弘大が歩き出し、蒼佑は慌てて追いかける。


「噂って……自分で言ってるだろ」


 弘大の言い分に納得のいかないものを感じながら、蒼佑は非難するような気持ちで弘大を見る。


「噂は噂じゃ。噂に過ぎん。けど、そんな噂がたったらどうなるか。この狭い町に住んどったお前なら分かるじゃろ」


 何が起こるか。その場にいなかった蒼佑にも、普通の高校生の生活が阻害されてしまうのは想像できた。噂ばかりではなく、好奇の視線の前に神経を苛まされただろう。

 蒼佑が尾道から東京に移って一つホッとしたのは、人の目が自分に注がれている感覚を感じなくなったことだ。この町の住人の他人への関心はありがたく感じることもあったが、同時に鬱陶しくもあった。悪意を持った噂の前に、好意が大きく姿を変えたことは間違いなかった。


「何でそんな噂が?」

「……知らん。気が付いたら、もう広まってしもうとって、本人が違うって否定しても、噂は消えるような状況じゃなかったけぇの」


 噂の内容からしても、無関係な人々の口から面白おかしく爆発的に広がったと予想はついた。


「北原は学校に来れてたのか?」


 蒼佑の問いに、弘大が俯く。


「最初のうちは気丈に来とった。でも、そのうち来れんようになった。最後の方はメールの返信も来んようになった。……鬱だったんかもしれん」


 妊娠した。その噂だけでも高校生には十分な傷になる。それに加えて、在りもしないレイプされたというセンセーショナルな噂を前に、一高校生が一体何ができたと言うのか。

 そこまで考えて、蒼佑はハッとする。


「まさか、北原が亡くなったのって……」

「自殺じゃ」


 弘大が詰まるような声で低く呟く。

 ようやく弘大が言葉を濁し、麻子が辛いと涙を流した理由に納得する。蒼佑は溢れてくる涙を止めることができなかった。

 美和が死んだと聞いたときにも、蒼佑は泣いた。あのときは、信じたくない気持ちが強かった。今は悲しくて、悔しかった。美和が送ってきた本をきちんと読まなかった自分に対する怒りと、在りもしない噂を発した誰かに対する怒りが、更なる涙を生んでいた。

 ぐっと奥歯をかみしめると、蒼佑は手の甲で頬に伝う涙をぬぐった。

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