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初恋  作者: 三谷朱花
2/10

 蒼佑が尾道に向かうために新幹線に乗るのは、半年ぶりだった。

 年始に、麻子の実家に結婚の挨拶をするために行った。その時ぶりだ。その時は暑いくらいだった車内の空気は、今はほどほどに冷やされている。


「蒼佑、顔色悪いけど、大丈夫か?」


 窓側の巧が、顔を覗き込んでくる。蒼佑は無意識で噛みしめていた奥歯を緩める。いつの間にか握りしめていた両手は、じっとりと汗をかいていた。

 蒼佑は大きく息を吐く。


「ああ」


 だが、指先は冷たかった。それは、冷房だけのせいではないのかもしれない。


「緊張、してるのか? 公務員試験の前にも、そんな感じだった気がするけど」

「そう? ……よく覚えてるな」


 蒼佑は首を傾げてみたが、確かに5年前に受けた国家公務員試験の前も、こんな風に緊張していたのかもしれない。その時、蒼佑は外交官を目指していた。昔からの夢だった。だから、力が入っていたのかもしれない。

 結婚の許しを得に行った半年前ですら、緊張することなどなかったのに。

 麻子が苦笑していたものだ。「蒼佑君は、いつも平然としてるよね。緊張するってことがないみたい」だと。

 ふいに、蒼佑は、あれ、と思う。


「何で、巧は僕が公務員試験の前のこと知ってるんだっけ?」


 公務員試験の時、蒼佑と麻子は既に付き合っていた。だけど、巧は知っているのに、麻子が蒼佑のその時を知らないことが、おかしい気がした。


「陣中見舞いに行っただろ? 覚えてないか?」


 巧の言葉に、あ、と蒼佑の声が漏れる。


「……きちんと食べろって言われたな」


 公務員試験前、集中したかった蒼佑は、誰とも会わなかった。麻子とは、連絡も最低限のものだけだったはずだ。麻子はその時に限らず、いつも控えめで、蒼佑の気持ちを汲もうとしてくれる。それが居心地がいいところでもあった。

 そんな中、巧が家に突撃してきたのを思い出した。蒼佑が青白い顔をしてると言って「ご飯食ってんのか」と言いながら、巧は簡単な手料理を作ると、あっと言う間に帰って行った。

 正直、玄関ドアの向こう側に巧が居たときは、煩わしいと思った。だけど、巧の作った温かいご飯を食べながら、少し力が抜けたのは事実だった。


「巧、ぶれずにおせっかいだな」


 蒼佑の口元が緩む。


「ひでーな」


 巧もそう言いながら、怒ってはいない。


「バイト先が一緒になっただけで、こんなに付き合いが長くなるとは思わなかったな」


 大学2年生の時に、蒼佑のバイト先に巧が入って来た。それから7年の付き合いになる。


「そうか?」


 巧が首を傾げる。


「ああ。……でも、そんなものなのかもな、友達って。偶然が重なりあって出会って、仲良くなってくものだしな」

「そうかもな」


 巧がふい、と窓の外を見た。

 巧なら「それは必然だ」と言い出しそうなものだが、珍しく照れたのかもしれない。


「無関係なのに、こうして尾道まで付き合ってくれて、有難いと思ってる」


 蒼佑は、まっすぐ前を見たまま告げた。何だか気恥ずかしかった。


「無関係ってわけではない」


 巧の言葉に、蒼佑は巧を見た。


「どう考えたって、無関係だろ」

「俺の探求心が満たされるんだ。関係あるだろ」


 真面目な顔の巧に、蒼佑は首をふった。


「そんなこと言うの、巧だけだろうな」

「そうかな?」


 巧がニヤリと笑う。蒼佑はまた体を前に向けた。


「本当に一緒に来てくれて、助かった。一人だったら、怖くて行けなかったかもしれない」


 弘大から一体どんな話をされるのか、蒼佑は想像できなかった。いや、想像したくないだけなのかもしれなかった。

 どんな事実を告げられるのかという不安は、蒼佑を眠らせてくれなかった。明け方にようやくウトウトして、気が付けば起きる時間になっていた。だから、正味1時間くらいしか眠れていないかもしれない。


「そう言えば、北原……さん、だっけ? どんな子だったの?」


 昨日も巧とは尾道に行く話はしたが、美和のことについては殆ど話はしなかったことを蒼佑は思い出す。

 蒼佑は、咄嗟にあの青い色を思い出す。


「美術部で、油絵を描いてたんだ。尾道の絵を描いてた」


 重なり合う様々な青が、蒼佑の脳裏に浮かんでいた。


「へー。上手だったのか?」

「ああ。展覧会で賞とか取ってたし……2年の終わりに、東京の美大の推薦が取れそうだって話してたくらいだったから」


 だから、美和と最後に交わした会話は、大学生になったら東京で会おう、という内容だった。


「展覧会で賞取ってたのか。それはすごいね」


 素直な巧の言葉に、蒼佑は頷いた。


「正直、僕には絵のことは分からないけど、初めて、高校で北原の入賞した絵を見た時、圧倒されたんだよ」


 高校1年のとき、初めて展覧会で入賞した美和の絵が学校で飾られたのを見て、蒼佑は息を飲んだ。 

 美和の習作用の小さなキャンバスに広がる複雑な青い色を目にしたことはあったが、更に大きなキャンバスを染める空と海の色に、蒼佑は息をのんだ。


「そんなに、すごいんだ」

「うん。あふれるエネルギーが伝わって来るみたいだった」

「それはすごいな」

「北原は、画家になりたいって言ってた。いつも一生懸命に絵を描いてた。そのエネルギーがすごくて。だから、僕も、夢を諦めたくないって、思うようになったんだけど」

「夢?」


 巧が首を傾げる。


「外交官になりたいって、夢」


 ああ、と巧が声を漏らした。


「小学生の時には、なりたいって思ってたって言ってたよな?」


 蒼佑は頷くと、流れる景色に視線を向ける。


「でも、うちは転勤族だっただろ? 母親が父親の単身赴任を良しとしなくて。何年か置きに引っ越しするから、勉強するにはいい環境とは言えないし。だから、外交官になるのは無理だな、って自分で思ってた。でも、北原見てると、自分が何も努力してないってことを気付かされた」


 心を決めたとき、転勤の度に引っ越さなければ受験勉強に集中できるはずだ、そのせいで外交官になる希望が叶わない、という甘えを持つことは捨てた。人のせいにすることが夢が夢のままである一番の原因だと分かったからだ。

 いつか美和に、自分の隣で外国の空と海の色を作り上げてほしい。それが蒼佑に新たにできた望みでもあった。

 だが、今となっては、その頃の気持ちを思い出すのは、もう難しかった。

 大学4年の時、蒼佑は国家公務員試験に落ちた。そこで、蒼佑の夢は終わった。

 あっさりと夢を諦めたのは、現実を知ったからだと思っていた。だけど、それだけではなかったのかもしれない。


「なるほどな。……ところで、蒼佑も美術部だったのか? 絵は分からないって言ってたけど?」


 巧の問いに、蒼佑が首を傾げた。


「美術部ではないけど。何で?」

「北原さんが、いつも一生懸命に絵を描いてたって……どうして知ってるんだろうって」


 ああ、と蒼佑は頷いた。


「北原は風景画ばっかり描いてたから、いつもスケッチとか習作をしてる場所があって、そこに僕も行ってたから」

「へー。二人の秘密の場所ってこと?」


 蒼佑は首を振る。


「違うよ。共楽園って、ベンチと桜の木があるだけの小さな公園みたいなところなんだけど、見晴らしがいい場所で、そこで北原は絵を描いてたんだ」

「キョウラクエン?」

「えーっと、千光寺ってわかるか?」

「ああ、千光寺ならわかる」


 千光寺は尾道の観光名所のひとつだ。山の上に立つ千光寺は、見晴らしがいいことでも知られている。


「千光寺に行く途中にある場所なんだよ。観光客もあんまりいないし、穴場と言えば、穴場かな。春は桜が綺麗なんだよ」

「へー。そんなところで二人で会ってたんだ。でも、付き合ってるわけじゃなかったよな?」


 巧の視線を感じて、蒼佑は視線を前の座席に移す。何だか気まずかった。


「いや、北原がそこで絵を描いてるのを知って……時々顔を出してただけだから」

「なるほどな。いつから、北原さんのこと好きだったんだ?」


 巧の声は、蒼佑の心の奥に問いかけるような響きだった。


「……いつから、なんだろうな」


 蒼佑はぼそりと呟く。


「え? だって、わざわざそこに足を運んでたんだろう?」

「いや、最初は……勉強の気分転換しに行ってたんだよ。天気がいい時は気持ちのいい場所だし、北原とちょっとしゃべるのも気晴らしになるから」


 最初は、美和のことを恋愛対象として見ているわけではなかった。


「勉強の気分転換って……どんな高校生だよ」


 茶化す巧に、蒼佑は口元を緩める。


「健全な高校生だろ。勉強するくらいしかやることなかったんだよ」

「蒼佑は真面目だなー」


 呆れたような巧に、蒼佑は首を振った。


「転校ばっかりしてただろ。友達は作れるんだけど、あんまり相手に深入りできなくて、学校の外で遊んだりとかしないから、家に帰ったら勉強くらいしかすることないんだよ」


 蒼佑は巧を見る。親友と呼べる相手が出来たのは、巧が初めてかもしれなかった。


「あー。確かに蒼佑、人を中に入れない感じあるよな」

「……巧は、そこにぐいぐい来たよな」

「まあね。それが特技みたいなものだからな」


 それでも巧のやることを嫌だと感じなかったのは、そのキャラクターにもあるのかもしれない。以前にも、似たように押しの強い同級生はいたが、その時は相手のことが嫌になってしまって距離を置いた記憶があった。


「でも、その蒼佑が気晴らしに会いに行くって、よっぽど北原さんって話し上手か、聞き上手だったのか?」


 蒼佑は視線を上に向けると、首を傾げた。


「いや、それを思ったことはないかな。割とはっきりと意見を言う子だったけど……その考え方が面白いって言うか、刺激になるって思うことはあった気がするけど」

「蒼佑とよっぽど波長が合ったんだな」


 その言葉が、蒼佑にはしっくりきた。


「そう、だな」


 蒼佑は巧を見る。巧とも波長が合ったから、こうやって友達を続けているんだろうと思えた。


「何? 俺、変なこと言ったか?」

「いや」


 口にするのは恥ずかしくて、蒼佑はまた前を見た。


「最初は多分、北原の事、尊敬してたんだよ……北原が目をキラキラ輝かせて、画家になりたいって言って、実際に努力してるのを見てると、こっちも頑張らなきゃって気持ちになって……でも、いつの間にか好きになってた」

「尊敬できる相手、か。そういうの大事かもな」


 頷く巧を蒼佑はちらりと見る。


「巧って、好きな人とかいないのか」


 巧には浮いた話は一つもなかった。このキャラクターで、好青年と言った風の顔立ちの巧はそれなりにモテそうなものなのに、大学時代から今まで、彼女がいたことはなかったはずだ。


「蒼佑からそんなこと聞かれるの初めてだな」

「……巧の恋愛の話って、したことないな」


 それこそ、合コンの話すら、巧の口からは聞いたことはないかもしれない。


「正直、興味ないからな」


 巧が肩をすくめる。確かにそれは蒼佑も感じていたことだ。

 巧は蒼佑の恋愛の話を聞くばかりで、いいとも悪いとも意見は言わない。ただ、蒼佑も自分の気持ちを整理するために、巧に話を聞いてもらっていたようなものだ。そもそも、蒼佑ができる恋愛の話など、大学3年の時に付き合い始めた麻子とのことしかないのだが。


「初恋も?」


 それは、素朴な疑問だった。蒼佑が巧の顔を見ると、巧は遠くを見ていた。


「初恋、ね……」

「小さい頃とか、なかったのか?」

「あー。ねーちゃんと結婚するって、言ってた気がする」


 蒼佑を見た巧の表情はおどけている。


「いや、それはカウントしないだろ」

「ま、俺はそんな感じだよ。ちなみに、蒼佑の初恋は?」

「……多分、北原、だな」

「なるほど。それは……忘れられないだろうな」


 静かな巧の声に、蒼佑は頷いた。

 巧がまた窓の外を見る。


「そう言えば、巧、お姉さんいたんだな。知らなかった」


 さっき、巧が口にした「ねーちゃん」という言葉は、蒼佑が初めて耳にするものだった。


「10違うしな。それに、うち離婚してるから」


 ちらりと蒼佑を見た巧に、そう言えばそうだったと蒼佑は頷いた。


「お姉さんともう会ったりとかしないのか?」


 巧は首を横にふる。


「普通は会うもんなのかな?」

「さぁ? どうなんだろう。……あんまり、会わないのかもな」


 蒼佑の周りにも離婚した人間はいたが、離れ離れになった兄弟が頻繁に交流しているような話を耳にしたような気はしなかった。

 頷いた巧は、どこか物憂げな顔をしているように見えた。だが、蒼佑に視線を向けた巧の顔は、いつものように陰りはなかった。


「そう言えば、麻子さんには何か聞いたのか?」


 巧の問いかけに、蒼佑は首を横にふった。

 昨日、巧が帰った後、蒼佑は麻子に電話をしようかと迷った。だけど、できなかった。


「そうか。……話を聞いた時、泣いてたって言ってたもんな。聞けないか」

「いや……麻子が泣いていたことを言い訳に、事実を知ることを先延ばしにしただけなのかもしれない。……意気地がないだけなのかもな」


 蒼佑は背もたれに体を完全に預ける。


「隠されてた真実を知るのは、誰だって怖いよ」


 蒼佑が顔だけ巧に向けると、巧は窓に肘をついて流れる景色を眺めていた。


「そうかな」

「そうだよ」


 巧が頷く。そして顔を蒼佑に向けた巧が肩をすくめる。


「蒼佑、その顔じゃ、昨日寝てないんだろ。福山着いたら起こしてやるから、寝とけよ」

「いや、寝れる気がしないんだけど」

「目、つぶってるだけでも疲れは取れるから、ほら、目を閉じる」


 巧の言葉に蒼佑はクスリと笑う。


「おせっかいだな」


 でも、そのおせっかいさが、今は心地よかった。

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