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初恋  作者: 三谷朱花
1/10

 記憶は、ふいに蘇る。


「奥に古い本あったぞ。えーっと、『尾道の散歩道』? 蒼佑そうすけ。これは、どうする?」


 タイトルを聞いて、間島蒼佑まじまそうすけは荷造りの手を止めた。

 荷造りを手伝ってくれていた古澤巧ふるさわたくみが文庫本をふるふるとかざすと、本に積もっていた埃がワンルームの部屋に舞った。


「尾道って、蒼佑が昔住んでたところだろう?」


 巧はパラパラと本をめくっていく。


「ああ」


 蒼佑は目を伏せた。


「……面白くはなさそう。あれ?」


 本をめくるスピードを上げた巧の手が、後ろのページで止まった。


「何?」


 蒼佑はのっそりと顔を上げる。


「助けて、だって……これ、蒼佑の字じゃないだろ?」


 学生時代のバイト先が同じで、シフトも被ることが多かった巧は、蒼佑の字を知っている。蒼佑は慌てて立ち上がると、巧から本を奪う。


「……本当だ」


 蒼佑も、そこに文字が書いてあることを初めて知った。少し右肩上がりの綺麗な字には、見覚えがあった。蒼佑は、視線を彷徨わす。


「これ、蒼佑の本じゃないのか?」


 巧の言葉に、蒼佑は小さく頷いた。


「昔、人から貰った」


 それだけ言っただけで、蒼佑は口をつぐんだ。


「……これ、女子の字だよな?」

「ああ」


 蒼佑の口は重い。


「元カノ、とか?」

「いや」


 蒼佑は首を横にふる。だが、なぜか巧が頷いた。


「わかった。俺の名推理を聞かせてやろう」


 ミステリー好きの巧は、時折こんなことを言っては、自分の推測を説明することがある。あながち外れているわけではなく、蒼佑は感心することも多い。ただ、こんな風にちょっと演技染みているところがなければ、素直に称賛できるのに、とも思う。


「いや、いいよ」


 ただ、今は巧の推理に付き合う気分ではなかった。蒼佑が断ると、巧がつまらなさそうにため息をついた。


「せっかく、相手を特定して、この“助けて”の謎解きをしてやろうと思ったのに」

「……どうして“助けて”なんだろうな……」


 蒼佑が小さくため息をついた。


「……気付いてたら、助けてあげられたのに、ってことか?」


 首を傾げる巧に、頷きかけた蒼佑は首を横にふった。


「いや……。気付いてたとしても……助けることはできなかったから」

「どうして?」


 巧の疑問に視線を向けた蒼佑は、目を伏せた。


「病気で亡くなったから」


 あ、と巧が気まずそうな声を漏らした。


「……高校生の僕が、病気を治すことなんてできない。今だったとしても、医者でもない僕が助けることはできないけど」

「……でも、彼女は蒼佑に“助けて”欲しかったんだろう?」

「そう……なのかもしれない」


 蒼佑が困ったように眉を寄せた。


「かもしれないって、この本を貰った時、本人と話をしなかったのか?」


 巧の問いかけに、蒼佑は首を横にふった。


「親の転勤で尾道から東京に引っ越した直後だったから、直接は会えなくて。それに正直、どうしてこの本を送ってきたのかが分からなくて、メールは送って聞いてみた。だけど、返事がなくて」

「電話すればいいだろ?」

「いや……」


 蒼佑は口ごもった。


「……失恋した、と思ったのか?」


 巧の指摘に、蒼佑は目を見開く。そして慌てて目を逸らした。


「そんなんじゃない」

「蒼佑は嘘つく時に、眉が動くんだよなー」


 巧の言葉に、蒼佑は大きなため息をついた。


「違う」

「ほら、また」


 蒼佑はムッとした表情になる。


「……そうだよ」

「本当に、そうかな?」


 巧の軽く聞こえる言葉に、蒼佑は巧に視線を向けた。


「それ以外に……ないと思う」

「だとしたら、おかしくないか?」

「何が?」


 蒼佑は眉を寄せた。巧の言いたいことが分からなかったせいだった。


「何とも思ってない相手に、SOSなんて出すか?」

「……俺なら、出さないけど」

「だろ!?」


 巧の声が跳ねる。


「じゃあ、蒼佑は失恋したと決まったわけじゃない」

「でも……」

「電話に出なかったのは、病気が悪化して病院にいたからかもしれないだろ?」


 巧の推測は、蒼佑も考えたことがあった。でも、だからこそ、蒼佑は自分が失恋したのだと思い込んだのを思い出す。


「もし病気だったとしたら、好きな相手に一言も言わずにいるか?」


 蒼佑の言葉に、巧が、あ、と声を漏らす。でも、すぐに巧は首を振った。


「いやでも、好きな相手だからこそ、言いたくなかったのかもしれない。自分の弱っている姿を見せたくなかった、というのはあり得る」

「……じゃあ、どうして本に“助けて”って……」

「それは、複雑な乙女心ってやつじゃないのか? 蒼佑が気付いてくれて駆けつけてくれるのを待ってたのかもしれない」


 巧の言葉に、蒼佑は目を伏せる。


「……だとしても、その時に気付いても僕にはどうすることもできなかった。高校生だ。簡単に東京から尾道に行けるわけじゃない」

「そうかもしれない。けど……」


 まだ言葉を続けようとする巧に、蒼佑は首を横にふった。


「何もできなかったんだ」


 その声には怒りが滲んでいた。


「……蒼佑、まだその子の事、好きなんだな」


 巧がじっと蒼佑を見る。


「な……に、言ってるんだよ。……過去の話だよ。10年前の話だ。……もうすぐ結婚するのに」


 蒼佑は視線を揺らした。


「結婚する相手が好きな相手とは限らないだろ」


 淡々とした巧の言葉に、蒼佑は目を見開く。


「何、言ってるんだよ」


 だが、反論する声には力がなかった。


「一般論だよ。一般論。全員が全員、好きな相手と結婚するわけじゃない、だろ?」


 少し明るい声になった巧に、蒼佑は頷いた。


「確かに、そうだけど」

「お前と麻子あさこさんが恋愛結婚じゃない、とは言ってない」

「ああ」


 蒼佑がホッとしたように声を漏らした。蒼佑自身、何にホッとしたのか、わからなかった。ただ、婚約者の笠井麻子かさいあさこに対して恋愛感情があるのは確かだった。


「だけど、男ってロマンチストだって言うだろ? 昔の恋を忘れられないって言うし。その子が亡くなったんなら、蒼佑の気持ちに整理がつかないのも仕方ないと思う」


 巧の説明に、蒼佑は小さく頷く。


「……亡くなったのが突然のこと過ぎて、ショックで考えないようにしてたから」

「何の病気だったんだ?」


 巧の疑問に、蒼佑は口を開けなかった。首を横にふる。


「え? 知らないのか?」

「ああ」

「確か、麻子さんも同じ高校だったんだろう? その話になったりしなかったのか?」


 蒼佑は首をまた振った。


「麻子は……彼女の……北原きたはらの親友だったんだよ。……それで、思い出すのが辛いって泣かれて……それ以上、聞けなくて」


 麻子との間で、北原美和きたはらみわの話はそれ以来していない。麻子との間では触れてはいけない話になってしまっていた。


「他の同級生には?」

「北原と仲の良かった友達に聞いてみたけど、病名までは知らないって言われて……亡くなってしまったのは事実だし、病気のことを僕が知っても何も意味はないし、それ以上は聞かなかった」


 たとえ病名が分かったとしても、美和は戻ってこない。だから蒼佑は尋ねることを辞めた。


「蒼佑は、それでいいのか?」


 巧の言葉に、蒼佑は戸惑う。


「それで、って……もう今更何もできるわけじゃないし……北原は亡くなってる」

「だけど、今でも好きなんだろう?」


 巧の追及に、蒼佑は苦笑する。


「忘れられないのは、事実だろうな。……ずっと、考えないようにしてきたけど」


 蒼佑の目に涙がにじむ。今更発見された“助けて”の言葉が、心に刺さる。

 何かできたことがあったかもしれない。その後悔が、蒼佑を苛む。


「なぁ、蒼佑。本当に、その子は病気で亡くなったのか?」


 予想外の言葉に、蒼佑は驚く。だが一瞬の間のあと、首を横にふった。


「麻子も……僕の友達もそう言ってる。……何でそんなこと言い出すんだよ?」


 麻子も、その友人の宮間弘大みやまこうたも、蒼佑にとっては信用している相手だ。それに、蒼佑に嘘を教える必要性も思いつかなかった。


「いや……“助けて”って、こんな風に間接的に伝えようとしたのはどうしてなんだろうって」

「それは、巧が言ったみたいに……僕に気付いて来て欲しかったからじゃ……」

「本当に?」


 確認されると、蒼佑には頷く根拠は何もなかった。だから、首をふることしかできなかった。


「わからない。だけど、」

「だけど?」


 その先の言葉を続けられずに、蒼佑は俯いた。


「俺なら、彼女がどうして“助けて”って書いたのか、調べたい」


 蒼佑は弾かれるように、巧を見た。


「何言ってるんだよ……それに……今更……だろ」

「そうかな? 蒼佑は、彼女が“助けて”ってどうして書いたのか、気にならないのか?」


 蒼佑は視線を揺らした。


「いや……それは……。でも、北原はもう亡くなってる。……それに……僕に何かが出来たのかもしれなかった、って事実を知りたくはないよ」


 それは、蒼佑の正直な気持ちだった。今ならば、何もできなかった、と自分に言い訳が出来る。


「じゃあ、これならどうだ? お前、自分が失恋したって思い込んでたんだろ? もしかしたら、違うかもしれない。それを、確かめたいと思わないか?」


 巧の提案に、蒼佑は戸惑った表情のまま俯いた。

 そして、ゆっくりと顔を上げると、困った表情で口を開いた。


「どうして、そんなこと言い出すんだよ」


 巧が肩をすくめる。


「気になるから、だろうな。純粋な興味だ。だけど」


 巧がじっと蒼佑を見た。


「だけど?」

「親友が消化できないでいたことを消化する手伝いがしたい、って言ったら、ちょっと気障か?」


 真面目な顔の巧に、蒼佑は口元を緩める。


「それ、単なるおせっかいだから」

「かもな」


 蒼佑は手元の本の表紙を見る。尾道水道が煌めいていた。

 蒼佑の脳裏に、共楽園から見た景色が重なる。色んな感情が重なって、蒼佑はぎゅっと目をつぶった。


「俺の興味だけで調べてもいいけど、そんなの意味ないだろう? どこかのミステリーみたいに、一般人が突然現れて教えてくれる親切な人間もほとんどいないだろうし。……俺ならいけちゃったりする?」


 巧は蒼佑と同じで一介の会社員だ。蒼佑の表情が呆れる。


「あれは、フィクションだからな」

「まーな」


 巧が肩をすくめる。


「……尾道、か」

「行くか?」


 巧の言葉に、蒼佑は苦笑して首を横にふった。


「いや、でも……もう一回、病気の事は友達に聞いてみる」


 途端に、巧が肩を落とす。蒼佑の口元が緩む。


「巧、探偵ごっこがしたいだけなんだろ?」

「そんなことも……なくはない」


 馬鹿正直な巧に、蒼佑は首をふった。でも、蒼佑は少し救われる。誰もいないところで美和のメッセージを見付けていたら、もっと落ち込んでいただろう。


「探偵ごっこには付き合わないからな。でも……ケリをつけるために、病気の事聞いてみる。聞いたのは、北原が亡くなってすぐの事だったから、今なら知ってるかもしれないし」


 蒼佑はテーブルの上に置いていたスマホを取ると、ほとんど掛けなくなった弘大の番号を呼び出す。


「今、かよ?」


 巧が驚いた声を出す。蒼佑は頷いた。


「勢いがないと、できそうにもない」


 蒼佑は自分の言葉に苦笑する。でも、巧がいなければ、電話を掛けようとは思わなかっただろう。

 今日は土曜日だ。弘大は麻子の幼馴染で、麻子の話だと尾道の企業で働いているという話だった。だから、おそらく休みだろうと電話を掛けた。

 プルル、と何度目かのコールが鳴ったあと、カチャリと音が変わった。


『もしもし? ソースケ?』


 僅かに訝し気な声が、蒼佑を伺う。


「ああ。今、いいか?」

『なんじゃ? 改まってー』


 明るくなった声に、いつもの弘大だ、と蒼佑は思う。


「北原の事なんだけど」

『……北原……って、北原美和のことか?』


 途端に、弘大の声のトーンが落ちた。弘大は麻子の幼馴染で、美和とも仲が良かった。


「ああ」

『……何で今更……』

「うん。今更なんだけど……実はさ、北原の生前に、送られてきた本があって。今引っ越しの準備してて、見付けたんだけど……、急に北原の病気の事、気になって」


 全部本当のことを言わないせいで、こじつけのような話になったが、蒼佑にはこれ以上いい説明は思いつきそうになかった。

 だが、電話の向こうで、弘大が息をのんだのがわかった。蒼佑の心がざわめく。


「なあ、コータ。どうしてそんな反応するんだ?」

『……まだ、聞いとらんのか……』

「どういう意味?」

『いや……北原の病気のこと、麻子ちゃんから聞いてないんだな、って……』


 言葉だけを聞けばおかしくはない言い訳だったが、弘大の声は明らかに上ずっていた。蒼佑の頭に、巧の「本当に?」の言葉が蘇る。

 だが、蒼佑は否定する。蒼佑の知る弘大は、嘘が付けない真っ直ぐな人間だった。


「コータ、北原の病気は何だったんだ?」

『いや……聞いてない』


 弘大の声は元のように沈んだトーンに戻った。だが、答えまでの間が、蒼佑の疑念を生む。


「コータ、僕に何か隠してる?」

『いや、何も』


 だが、否定されればされるほど、蒼佑には弘大の言葉が嘘っぽく聞こえた。それは、初めての事だった。

 「本当に?」あの巧の言葉が、蒼佑の心を乱す。


「コータ、明日会えるか?」


 考える前に、蒼佑は口にしていた。


『え?! 今、ソースケは東京におるんじゃなかったか?!』


 弘大の驚く声に、蒼佑は我に返る。でも、電話ではらちが明かないと思った。弘大が何を隠しているのか、直接会わないと分からないと思った。2年間だけの付き合いだったが、それでも、弘大のことは理解しているつもりだった。


「明日、尾道に行くから」

『……いや……でも……』

「コータ、さっき見付けた本に、北原が“助けて”って書いてたのを見付けたんだ。その意味、コータは分かるか?」


 弘大が絶句したのがわかった。それが、答えだと蒼佑は思った。弘大は何かを隠している。


「コータ、僕に本当のことを教えてくれないか」

『……知らん方がええこともある』


 弘大の声は固い。蒼佑が知る限り、弘大は決めたらそれを曲げることはしない。それが、実直で好ましかったところでもあったが、融通が利かないと思うことになるとは思わなかった。


「コータ、お願いだ。北原の事、教えて欲しい」


 電話の向こうで、弘大は黙り込んでいた。

 蒼佑は、自分でも卑怯だと思ったが、麻子の名前を出すことにした。

 それ以外に、弘大の気持ちを変えられる方法が思いつかなかった。


「僕が北原のことを好きだったのは、知ってるだろ? 今でも、僕は北原のことが忘れられないでいる。……このままじゃ、気持ちの整理がつかなくて、麻子との結婚に前向きになれない」


 弘大は幼馴染の麻子に弱い。それが、2年間の付き合いで蒼佑が弘大に一番理解しているところだった。


『……わかった』


 弘大の答えに、蒼佑は小さく息を吐いた。


『明日、何時ごろに来るつもりじゃ?』

「明日……」


 言いかけた蒼佑の目の前に、巧のスマホが差し出される。そこには、新幹線の時間が書かれていた。


「明日、尾道駅に11時ごろに着く。それと……」


 蒼佑が巧を見ると、巧が頷いた。


『それと?』

「一人連れて行ってもいいか」

『……麻子ちゃんか?』

「いや……友達」


 弘大が電話の向こうで黙り込んだ。蒼佑だって、自分で口にしてから、おかしな話だと思った。巧を連れて行く理由など、あるわけもない。


「人に聞かれたら不味い話なのか?」


 それでも、一人で行くのは怖かった。


『無関係の人間に聞かせたい話じゃない』


 きっぱりと弘大が告げる。蒼佑にいいようのない不安が膨れ上がる。蒼佑は目を閉じた。


「……わかった。じゃあ、明日」

『ああ。明日、な』


 気乗りしない声のまま、弘大は電話を切った。

 スマホを耳から離すと、蒼佑は巧を見る。


「悪い。駄目だった」

「行くよ」


 あっさりと巧が頷いて、蒼佑は瞬きをする。


「え? 駄目だって言われたけど……」

「同席しなければいいだけの話だろ? 相手は何かを隠してるんだろう? 変に警戒されたくないからな。明日も、一緒には行動しない方が良いかもしれない」


 蒼佑はまた瞬きをした。


「それって……一緒に行く意味あるのか?」


 巧は大まじめな顔で頷いた。


「当然。謎解きには、俺の力がいるだろ?」


 どうやら巧は本気らしいと、蒼佑は肩をすくめた。

 正直なところ、謎を解くために巧の力を欲したわけではなかった。ただ、一緒に行ってくれるつもりの巧の存在が、有難かった。

三谷作品の中では珍しいミステリー(と言っていいのか自信はないけれど)。最後までお付き合いいただけると幸いです。

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