第一話 ビリオン都市へようこそ
ビリオン都市へ向かう列車の中で、俺は何度目か分からないくらい求人票を見返していた。
『記者・未経験歓迎』
そこだけは、何度見ても変わらない。
「……本当に未経験でいいんだよな」
独り言を呟いて、求人票を鞄にしまう。
記者。
それが今日からの俺の仕事だ。
昔から記者になりたかったわけじゃない。
文章を書くのが好きだったわけでもない。
ただ、ビリオン都市で何か一発当てたかった。
金でもいい。
名声でもいい。
何か一つ、大きなものを手に入れたかった。
だから、この街に来た。
ビリオン都市。
世界中から、成功を夢見る人間が集まる街。
金持ちになりたい奴。
有名になりたい奴。
会社を大きくしたい奴。
ギャングになりたい奴。
何も持っていないからこそ、この街に賭ける奴。
そんな人間たちが、この都市には溢れている。
そして俺も、その一人だった。
ただ、俺が選んだのは記者という仕事だった。
列車の窓から街が見え始める。
高層ビル群。
巨大な看板。
昼間から人で溢れる大通り。
遠くに見える巨大なカジノ。
「……すごいな」
思わず声が漏れた。
列車が駅に滑り込む。
ビリオン都市中央駅。
ホームに降りた瞬間、人の多さに圧倒された。
「えーっと……」
鞄から会社の資料を取り出す。
俺が今日から勤めるのは、ビリオン・ニュース社。
この街では中堅程度の新聞社らしい。
採用通知には、集合場所として駅前の時計塔が指定されていた。
時計塔へ向かう。
だが、そこで早くも問題が発生した。
「……どの人だ?」
待ち合わせ場所には、それらしい人物が見当たらない。
スーツ姿の男。
旅行鞄を持った老人。
子供を連れた女性。
サラリーマン。
新聞を読んでいる男。
人、人、人。
全員が違って見える。
困っていると、
「もしかして、君?」
背後から声をかけられた。
振り返る。
女性が立っていた。
肩まで伸びた髪。
首にはカメラ。
片手には紙袋。
「新人の?」
「はい」
「よかったー」
女性は露骨に安心した顔をした。
「もう来てないのかと思った」
「すみません。少し早く着いたので」
「私も十分前には来てたんだけどね」
女性は笑いながら手を差し出した。
「朝倉ミナ。記者三年目。今日から君の教育係」
「天城玲です。よろしくお願いします」
「うん。よろしく」
握手を交わす。
第一印象は、明るい人だった。
「じゃ、行こうか」
「会社まで案内してくれるんですか?」
「もちろん。君、道分からないでしょ?」
「全然分かりません」
「だよね」
ミナさんは楽しそうに歩き始めた。
駅を出てすぐ、巨大な交差点を渡る。
「まず覚えてほしいのは、会社までの道」
「はい」
「次に、警察署」
「いきなりですか?」
「記者だからね。警察とは嫌でも関わることになる」
ミナさんは歩きながら、街を指差していく。
「あそこが中央警察署。あの大きな建物」
「分かりました」
「署長は、この街じゃかなりの大物」
「警察署長が?」
「うん。普通の警察署長だと思わないほうがいいよ」
少し歩く。
「あれがカジノ」
「さっき駅から見えたところですか?」
「そう。オーナーは有名人。お金持ちだし、人脈もすごい」
「へぇ……」
「あと、夜になるとあっちの通りが賑やかになる」
ミナさんが指した先には、派手な看板が並んでいた。
「キャバクラ街。ここのオーナーも、この都市じゃ有名」
「詳しいですね」
「記者だからね」
そう言って胸を張る。
「この街の人間関係を知らないと、記事なんて書けないから」
会社までの短い道のりだけで、覚えることが山ほどあった。
ギャング。
この都市には大きな勢力が三つあるらしい。
不動産。
都市の土地を握る大物がいる。
飲食店。
ただの店長だと思っていた人物が、実はかなりの影響力を持っているらしい。
病院。
大きな病院を経営する院長。
メカニック会社。
車や機械関係を一手に引き受ける社長。
スラム街。
そこを仕切る反グレのボス。
さらに麻薬を扱う人間。
裏世界の人間同士を繋ぐ仲介人。
「……なんというか」
「うん?」
「思ってたより、物騒ですね」
「ビリオン都市だからね」
ミナさんはあっさり言った。
「金が集まるところには、悪い奴も集まるの」
「怖くないんですか?」
「怖いよ」
「即答なんですね」
「怖いものは怖い」
ミナさんは笑った。
「でも、記者ってそういうところに行く仕事でしょ?」
「そういうものなんですか?」
「そういうもの」
会社が見えてきた。
四階建ての、少し古いビル。
入口には、
『BILLION NEWS』
と書かれた看板が出ている。
「着いたよ」
扉を開ける。
中は、想像していたよりずっと騒がしかった。
「山田! 昨日の記事、デスクから修正!」
「分かってます!」
「誰か警察署に電話して!」
「俺やります!」
「写真上がってる?」
「まだ!」
「締切まで二時間しかないぞ!」
電話が鳴り、キーボードを叩く音が響き、人が走り回っている。
俺が入口で立ち尽くしていると、
「ほら、突っ立ってないで入って」
ミナさんに背中を押された。
「おはようございまーす」
「おはよう、朝倉」
「そっちが新人?」
「そうです」
「今年は一人だけ?」
「一人です」
何人かの社員がこちらを見る。
その中から、眼鏡をかけた中年男性がやってきた。
「新人君」
「はい」
「編集部の黒田。困ったことがあったら俺に聞いて」
「よろしくお願いします」
「朝倉」
「はい?」
「この子、頼んだぞ」
「任せてください」
ミナさんが敬礼する。
「……大丈夫かな」
黒田さんが苦笑する。
「それ、私に言ってます?」
「聞こえてたか」
「ひどいなあ」
編集部の何人かが笑う。
なんだか、不思議な会社だった。
もっと堅苦しい場所を想像していた。
でも、思っていたよりずっと普通だ。
人が働いている。
怒られている人がいる。
雑談している人がいる。
電話をしている人がいる。
その中に、自分も入っていく。
それだけだった。
「席はここね」
ミナさんが机を指差す。
「今日からここが君の席」
「ありがとうございます」
「パソコンの使い方は分かる?」
「一応」
「よかった」
ミナさんは隣の席に座った。
「じゃあ、まず記者の基本から」
「はい」
「メモを取る」
「はい」
「人の話を聞く」
「はい」
「分からないことを勝手に決めつけない」
「はい」
「それから――」
ミナさんは少しだけ真面目な顔をした。
「人を見る」
「人を見る?」
「うん」
「どういう意味ですか?」
「記事になるのは、結局人だから」
彼女は机の上に置かれた新聞を指で叩いた。
「事件も、商売も、犯罪も、成功も失敗も、全部人間が起こす」
「なるほど」
「だから、街を歩く時は人を見る。誰が何をしてるのか。誰と話してるのか。何を嫌がってるのか」
「……分かりました」
「それができるようになると、記事が面白くなる」
ミナさんは笑った。
「私もまだ修行中だけどね」
「先輩でも?」
「先輩だからって何でも知ってるわけじゃないよ」
彼女は新聞を手に取った。
「私はね、この街で有名な記者になりたいの」
「有名な?」
「うん」
目が輝いていた。
「自分の記事で、ビリオン都市中を騒がせたい」
「それは……大きな目標ですね」
「でしょ?」
「どうして記者なんですか?」
「面白そうだったから」
ミナさんは即答した。
「それに、この街で一発当てたかったから」
その答えを聞いて、俺は少しだけ笑った。
「俺と同じですね」
「え?」
「俺も、一発当てたくてこの街に来ました」
「じゃあライバルだ」
「そうなるんですか?」
「なるよ」
ミナさんは笑った。
「でも新人君には、まず私を超える前に仕事を覚えてもらわないとね」
「頑張ります」
「よし」
その日、俺は一日中ミナさんについて回った。
小さな飲食店で店主に話を聞いた。
道路工事について市役所に問い合わせた。
警察署の前で待機して、出てきた刑事に話を聞こうとして怒られた。
駅前では、財布を落とした男を見つけて警察に届けた。
その度にミナさんは、
「今の人、何か変じゃなかった?」
「この店、常連客が多いでしょ」
「さっきの警官、名前覚えた?」
と、いろいろなことを教えてくれた。
夕方。
会社へ戻る途中、俺は街を見回した。
朝とは違う顔になっていた。
ネオンが灯り始めている。
仕事帰りの人間。
酔っ払い。
客引き。
スーツ姿の男。
派手な服を着た女性。
路地裏で煙草を吸う男。
同じ街なのに、時間が変わるだけで別の場所みたいだった。
「どう?」
隣からミナさんが聞いてくる。
「何がですか?」
「この街」
俺は少し考えた。
「……面白い街ですね」
「でしょ?」
ミナさんは満足そうに笑った。
「だから、みんなここに来るんだよ」
ビリオン都市。
この街で一発当てる。
そう考えている人間は、俺たちだけじゃない。
たぶん、今この瞬間にも、どこかで誰かが何かを始めている。
俺も、その一人だ。
ただ――
この街で何を手に入れることになるのか。
その時の俺には、まだ分からなかった。
会社に戻ると、編集部は相変わらず騒がしかった。
「朝倉!」
「はい!」
「新人に仕事押し付けるなよ!」
「押し付けてません!」
「新人君、今日どうだった?」
黒田さんが聞いてくる。
「勉強になりました」
「ならよかった」
そう言って、黒田さんは自分の仕事へ戻っていった。
俺も自分の机に座る。
今日一日で、名前を覚えた人間がかなり増えた。
会社の人間。
店の人間。
警察官。
街ですれ違った人間。
ミナさんが教えてくれた人物。
頭の中で、自然と整理されていく。
誰が誰と繋がっているのか。
誰がどこにいるのか。
どの店に誰が出入りしているのか。
――記者って、思っていたより面白い仕事かもしれない。
そんなことを考えながら、俺は今日使ったノートを閉じた。
「お疲れ様、新人君」
帰り際、ミナさんが声をかけてきた。
「お疲れ様です」
「明日から忙しくなるよ」
「覚悟しておきます」
「うん」
彼女は笑った。
「ようこそ、ビリオン都市へ」
その言葉を聞きながら、俺は会社を出た。
夜の街は、昼間よりずっと騒がしかった。
大通りの向こうで、誰かが笑っている。
路地裏では、誰かが怒鳴っている。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。
そして、今日もこの街では、無数の人間が自分の未来を賭けて動いている。
俺はその街を眺めながら、歩き出した。
ビリオン都市での、最初の一日が終わった。




