79通目【父の独白】
父の告白に、リゼットは心臓をぎゅうと握りしめられたような苦しみを覚えた。
お前たちではなく、お前たちの手紙が憎い。父はそう言ったが、自分の手紙が憎いと言われるのはつまり、リゼットにとっては自分そのものを憎いと言われているのと同じだ。
震えはじめた手を握りこむ。
このまま父の告白を冷静に聞いていられるだろうか。一瞬不安になったとき、そっと肩に手を置かれた。
ウィリアムの大きな手が、ひとりではないと思い出させてくれる。
肩から力がふっと抜ける。リゼットは微笑みながら肩に置かれた手に触れた。ありがとうございますと、気持ちをこめて。
「お父様……なぜ、そこまで手紙を憎まれるのですか?」
父は何から話すべきかというように視線を迷わせ、ためらいがちに口を開く。
「……お前は、セリーヌが病に倒れた頃のことをどれだけ覚えている?」
「お母様が倒れた頃……。正直、あまり覚えておりません。お父様に、お母様の部屋には入らないよう言われていたように思うのですが」
「ああ、そうだったか……」
会えるようになったのは、母がベッドの上から動けなくなってからだった。その頃には意識もほとんど保てなくなっていたのか、部屋を見舞ってもいつも母はベッドの上で眠っていた。
「もしかして、お母様は伝染する病気だったのですか? だから私に部屋に入らないようにと?」
「いや。半分は、小さかったお前に見せたくなかったからだ。もう半分は、私の意地だな」
「どういう意味でしょう……?」
「セリーヌは、家族よりも手紙をとった。その事実をお前に知られたくなかったんだ」
もう十年近く前のことを、父は真新しい痛みに耐えるかのように語った。
母の病気が発覚したとき、母はスカーレットの弟子として、また優れた能筆者として名を馳せており、様々なサロンに引っ張りだこだったらしい。
家にも手紙が毎日山のように届き、一通一通丁寧に返事を書いていた。
サロンや手紙で活発な社交をするのは貴族夫人としては素晴らしいが、休む暇もない忙しい生活を送っていた母を、当然父は心配した。
社交活動は控えるように言うと、母はサロンへの参加は控えるようになったが、代わりに届く手紙が更に増えた。
家にいても休むどころか、返事を書くのに追われていたらしい。
「手紙を書くことも休んでくれと、私は頼んだ。病が治ったら返事を書けばいい。セリーヌを心配して手紙を送ってくる人たちも、それを望んでいるはずだと」
ああ、とリゼットはうつむきたくなる。
母がどんな選択をしたか、容易に想像がついてしまった。
「しかし、セリーヌは返事を書くことをやめなかった。どんどん体調が悪化しても、机に向かい、ペンを握ることをやめてはくれなかった。私がどれほど願っても、彼女はごめんなさいと言って笑うだけだったのだ」
「お父様……」
「なぜだ? 私は彼女の夫で、幼いリゼットもいた。それなのにセリーヌは家族よりも手紙をとった。愛する家族よりも、彼女は手紙が大事だった。なぜなんだ? 本当は私のことを、最初から愛してなどいなかったのか?」
結局、母は意識がなくなるそのときまで、手紙を書き続けていたらしい。
やせ細った姿でペンを握り机に向かう姿は、何か恐ろしいものに憑りつかれているようにさえ見えたという。そんな姿を、父はリゼットに見せたくなかったのだ。
「家族より手紙をとったセリーヌを理解できなかった。そして、腹立たしかった。リゼットをセリーヌから遠ざけたのは、おかしくなってしまった母親の姿を見せたくなかったのと同時に、母親失格である彼女への意趣返しでもあったんだ。いまになって思えばな」
なんて小さい男だろう、と父は自分を笑った。けれどどうしても許せなかったのだと。
「セリーヌを好きになったのは、彼女の手紙がきっかけだったのにな」
「手紙が……そうだったのですか?」
「ああ。私はどちらかというと悪筆で、彼女の美しい筆跡に憧れた。セリーヌはたくさんの令息から求愛されていたが、私は諦められず、悪筆ながらも必死に手紙を出してアピールしたものだ」
意外だった。それほど情熱的な人ではないと思っていたが、若かりし頃の父はそれほど母に焦がれていたのか。
「だが、結局は私だけが彼女を愛していたのだろう。いや、彼女も愛してくれていたのかもしれないが、それは手紙への愛より強いものではなかったというだけだ」
だから母の手紙が憎い。母の世界を広げたスカーレットが憎い。母と同じ道を行こうとするリゼットが、そのリゼットが書く手紙が憎い。そういうことなのだろう。
リゼットは何も言えなかった。
父の悲しみや苦しみは当然のことだ。気持ちはわかる。
しかし、母の気持ちもリゼットは痛いほどよくわかってしまうのだ。
死期を悟った母は、きっとペンを持てる限り手紙を書き続けたかったのだろう。リゼットも同じ立場となったらきっとそう願う。
手紙のやりとりこそがリゼットにとって最大の幸せであり、生きる意味でもあるからだ。
(でも……私は結婚していないし、子どももいない。未婚の身だわ)
もしリゼットに愛する夫がいたら、子どもがいたらどうだろう。母と同じように家族との時間を犠牲にしても、手紙を優先するだろうか。
想像しようとしても、上手くいかなかった。
もしそれで自分が母と同じ選択をしたらと考えると、それはとても……悲しいことだ。父の苦悩する姿を見てそう思う。
「リゼット。お前のことを娘として愛していないわけではない。ただ、どんどんセリーヌに似ていくお前を直視し続けることができなかった。すまない」
「……お継母様やお義姉様のことは?」
「メリンダを後妻に迎えたのは、彼女が手紙を嫌いだと言っていたからだ。その娘のジェシカも同じだと。再婚をするなら、相手は手紙を嫌いな女性にしようと決めていた」
「それだけ、ですか? 本当に?」
「だから、かわいそうなことをしたと言ったんだ。……こんな父を軽蔑するか?」
リゼットは首を横に振った。すでに父が自身を軽蔑していることはわかっている。
むしろ、父と同じような気持ちになれない自分こそ、軽蔑されるべきではないだろうか。
娘として、母をひどいと思わないわけではないが、母の選択を理解できてしまう自分がいる。これでは父に嫌われても仕方のないことだと思った。
後ろで聞いているウィリアムはどう思っただろう。
なぜだか恐くて、ウィリアムの表情を確かめる勇気は持てなかった。
爵位の継承が済んでも、父はリゼットを手伝うと約束してくれた。
特に領地の運営については、代筆や指南役としての仕事を優先したいリゼットを理解し、領主代理として今後も務めてくれるという。
父の申し出には心底ほっとできた。領地のことが一番気がかりだったのだ。
「社交の部分については、もう私は表に出られないので口頭と書面での引継ぎになってしまうな。本当は直接、交流のある相手に紹介して回れればいいのだが」
話しが終わり、見送りにと父が廊下を先導してくれる間に、そんなことを言われた。
確かに直接の紹介があるのとないのとでは、交友関係の引継ぎに大きな差が出るだろう。
「その部分については、精一杯がんばります。困ったときは相談させてください」
「ああ。手紙か使者を送ってくれれば出来る限り答えよう。なるべく邸を出るまでには細かく書面に残すつもりではいるから安心しなさい」
「え? ま、待ってください。お父様、邸を出られるのですか?」
驚いて足を止めたリゼットを振り返り、父は皮肉げに笑った。