筆休め【邪魔者の密談】
シャルルは馬車に乗りこむと、充満していた酒の匂いに顔をしかめた。
目の前にはワインの瓶を直接あおるジェシカがいる。相当飲んだようで、髪は乱れ顔は赤く、目はすわっていた。
このワインはまさか、舞踏会場からくすねてきたのだろうか。
「遅いじゃない……待ちくたびれたわ」
「待ってくれなんて頼んだ覚えはないよ」
ため息をつきながら、クラヴァットをゆるめる。
とても疲れた。何があったわけでもない。ただ、何もできなかった自分に心が疲弊していた。
「良かったわねぇ。近衛の仕事、クビにならずにすんで。シャルルは王太子殿下によほど気に入られてるのね。王宮で私闘だなんて、普通は騎士の資格はく奪ものなんでしょ? やっぱり顔がいいからかしら? 近衛騎士って家柄と見た目で選ばれてるってよく言われてるものね~」
「うるさい」
「なぁに? ご機嫌ななめなの? ああ、そうよねぇ。近衛騎士として舞踏会場にいたあんたは、色んな男と踊るリゼットを指くわえて見てるしかできなかったんだもの。悔しいわよね~?」
「うるさい! 何なんだ? こんな風に呼び出して。監視がついてるんじゃなかったのか」
王太子の近衛として会場にいたシャルルに、給仕がこっそり小さなメモを手渡してきたのだ。
それがジェシカからの馬車を指定するメモだった。
迷いながらも指定された馬車を探したのは、シャルルの中にくすぶるものがあったからだろうか。自分でもよくわからない。
「監視ぃ? ついてるんじゃないの。どっかにいるわよ。でも何か問題ある? 舞踏会場でもおとなしくしていたわ。……あんな、会場の隅に追いやられて。遠くから黙ってあのグズを見てるだけでいてやったのよ」
「義理でも妹だろう。グズなんて言うな」
「はっ! まだそんなこと言ってんの? 見たでしょ、あの子の姿! まるで自分が主役と言わんばかりに着飾って、王女より目立ってた! あんなに上手く高位貴族に取り入るなんて、舐めてたわ。ペンしか持ってないグズだと思ってたけど、しっぽ振んのも上手かったのね」
「そんな風に言うな。リゼットはお前みたいに擦れてない、純粋な子なんだ」
「はぁ? あはははは! それまだ本気で言ってんの? だからあんたは捨てられたのよ!」
捨てられた。その言葉に思い切り胸をえぐられる。
アンベール子爵や王太子アンリと踊るリゼットを、シャルルは離れたところで見ていることしか出来なかった。
本当なら、あそこでリゼットと踊っているのは自分だったはずなのに。
拳を握り、歯をくいしばり、ただじっと、訪れるはずだった光景を重ねて見ていた。
綺麗だった。シャルルお兄さま、と笑顔で抱き着いてきた、あの小さなリゼットはもうそこにはいなかった。
美しく仕立てられたドレスを身に纏い堂々と踊る彼女は、シャルルの知らない立派な淑女だった。
「後悔しても、しきれないわよねぇ」
夢から覚めるようにハッと顔を上げると、ジェシカが薄ら笑いを浮かべてこちらを見ていた。
「本当だったら、自分があっち側にいたはずなのにって、思ったでしょう? そうよねぇ。たったひとりの幼なじみだったんだから。リゼットには自分しかいなかったはずだもの」
「うるさい……」
「でもざーんねん! あんたはこっち側なの! リゼットを蔑ろにして、もういらないって排除された側!」
「うるさいって言ってるだろう! 何なんだ⁉ お前は何がしたいんだ!」
ジェシカの高笑いが不快でたまらない。
彼女の持つ瓶を奪い取り投げ捨てると、一気にワインの匂いが狭い馬車の中に広がる。
「あんたこそ、何がしたいのよ」
転がった瓶をちらと見て、ジェシカは冷めきった目で言った。
「後悔してるだけ? それでいいの? リゼットのことは諦めるわけ?」
「それは……」
「リゼットは、本当はまだシャルルのことを待っているかもしれないわ。だってあの子、いつだってシャルルから声をかけられるのを待ってたものね。戦場の悪魔なんて呼ばれてる恐ろしい男より、幼なじみであるシャルルのほうがよっぽど――」
酒の匂いと一緒に、毒のような囁きがじわじわとシャルルを追い詰める。
にじり寄ってくるジェシカの肩を押しのけて、シャルルは耳をふさいだ。
「やめろ! ……もう聞きたくない。ジェシカは嘘ばかりだ。今日のリゼットを見ただろう? 幸せそうだった。アンベール子爵のことだって怖がるどころか、信頼して――」
「だーかーらぁ! それが何!? じゃああんたは簡単にあの子のことを諦められるわけ!?」
「簡単になんか……」
諦めるべきだと頭ではわかっている。それが簡単にできるのなら苦労はしない。
シャルルにとって、リゼットは確定していた未来だった。
近い将来リゼットと結婚し、フェロー家に婿入りする。そうして自分は子爵位を継ぎ、リゼット幸せな家庭を築く。そうなるはずだった。それ以外の未来を、シャルルは考えたこともなかったのだ。
いま真っ白になってしまった未来を前に、どうしたらいいのかわからず途方に暮れているというのに。
「じゃあ、諦めなければいいじゃない。周りが邪魔ばかりするなら、逃げちゃえばいいのよ」
「逃げる……?」
虚ろな目でジェシカを見れば、逆に彼女の目はらんらんと輝いていた。
いや、瞳孔が開ききり、目は血走っている。正常な人間の目にはとても見えない。
「ふたりのことを誰も知らない土地に行って、ふたりきりで生きるのよ。シャルルしかいないなら、リゼットもまたあんたを頼るようにもなるわ」
「駆け落ちをしろと? そんなこと……無理に決まってる。近衛騎士の仕事もあるし、家のことだって」
「そういうの全部捨てれば、リゼットを手に入れられるのに?」
ひんやりとした手で心臓を握られたような気分になり、シャルルは黙りこむ。
この女の言葉を聞いてはいけない。理性がそう叫んでいた。
「逆に、全部捨てでもしなきゃ、女伯だの悪魔だのからリゼットを取り戻すことは出来ないわよね」
リゼットへの想いの強さを試されている。
なぜこんな女に、と思うと同時に、ここで逃げれば自分を貶めることになると、身動きが取れなくなる。
「手伝ってあげようか? 馬車とか、逃亡資金とか、新しい身分とか。そういうの用意してあげる。この馬車だってねぇ、本当はリゼットの為に用意したのよ? あの子が自分で家に帰るチャンスもあげたってのに。……だからシャルルは、あの子をさら……連れ出すだけでいい」
「……無理だ。お前には監視がついたままなんだろう? 僕だって似たようなものだ。それで何が出来るっていうんだよ」
ジェシカは不敵に笑うと、足を組みかえた。
「金さえ出せば何でも請け負う男がいるの。そいつを使えばいいわ」
心臓が、喉元が、全身がジェシカの悪意に絡みつかれ、逃げられない。
甘やかな声にじわじわと浸されていくのを感じながら、気づけばシャルルは尋ねていた。
「どうやって……?」
皆さまお待ちかねのジェシカたんでした!(待ってない)




